2014年3月21日金曜日

虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(1)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(1)

 久伊豆神社(越谷市東越谷):「歴史」

 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)〔さいじんさま〕
  埼玉県越谷市越ヶ谷1700(越ヶ谷町花田)小林(東小林)

 「歴史」

 久伊豆神社が、元荒川流域の南北に分布していることはよく知られている。

 そして、この範囲は、

 平安末期の武士団、武蔵七党野与(のよ)党・私市(きさい)党の勢力域と

 ほぼ一致する。

 特に、当社周辺には、

 野与党である越ケ谷郷古志賀谷氏、大相模郷の大相模氏、

 八条郷町渋江氏の三氏族がおり、

 当社の創建に野与党がかかわっていたことが推測できる。

 鎌倉期には、崎西(きさい)郡・足立(あだち)郡に及ぶ領域に

 大河戸御厨(みくりや)があった。

 これは、源頼朝が伊勢の神宮に寄進した神領で、

 現在の松伏(まつぶし)町大川戸の辺りが中心地であったと考えられている。

 『吾妻鏡』の 建久五年(1194)六月三十日条に、

 「於武蔵国。大河戸御厨久伊豆宮神人(じにん)等喧嘩出来之由有其聞」とある。

 この「久伊豆宮」がどの社に当たるか不明であるが、

 当社はその有力な候補の一社に挙げられている。

 なお、創建について、『風土記稿』 四町野(しちょうの)村の項には、

 「久伊豆社天文四年(1535)の勧請と云」と記されている。

 江戸期を通して、

 真言宗越谷山神宮寺迎摂院(こうしょういん)が当社の別当を務めていた。

 この寺は、天正十九年(1591)に、

 徳川家康から五石の朱印地を寄進されている。

 しかし、文化七年(1810)の「四町野村除地書上」に

 「御朱印高五石迎摂院、正一位久伊豆大明神、

  右御朱印之内、同院」と記載され、

 この朱印地が当社に対してのものであったことを示唆している。

 当社の神紋は「立葵」である。

 当時、葵紋を用いることは、一般には禁じられていた。

 その使用に当たっては、徳川将軍家との関係が考えられる。

 参道入口前を流れる元荒川対岸に、越ケ谷御殿と呼ばれる館があり、

 家康・秀忠らが鷹狩りなどの折に、休息所・宿所としていた。

 記録は残らないものの、

 恐らく将軍が参拝した際にこの紋を奉納したものであろう。

 また、社蔵の文書に、享保十八年(1733)の宗源宣旨(せんじ)がある。

 これは、京都の神祇管領吉田兼雄から正一位の神位を授かった時のものである。

 本殿は、三間社流造りの壮麗なものである。

 棟札から、寛政元年(1789)に再建されたことが分かる。

 当社の社頭は、昭和三十年代以降目覚ましく隆盛の一途をたどっている。

 このことは境内施設の充実に如実に表れている。

 その主なものには、

 昭和三十九年の幣殿・拝殿の建設、

 同四十九年の旧社務所、

 同五十五年の外拝殿、

 同五十八年の参集殿、

 平成二年の新社務所、

 また、今上天皇の即位記念事業として、

 同三年の待殿二棟、回廊の新築がある。

 特筆すべきは、

 神宮の第六十一回式年遷宮の折に拝領した内宮の旧板垣南御門を、

 平成七年に第三鳥居として建立したことである。

 祀職は、明治期以後、池田氏が染之助・吉兵衛・悦太郎・正和と四代続き、

 戦後は小林茂・一朗と続いている。

 『参考』
 前人未到の道を行く - 邪馬台国・奇跡の解法 - Gooブログ
 古代史獺祭

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