2014年3月31日月曜日

虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(8)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)〔さいじんさま〕
  埼玉県越谷市越ヶ谷1700(越ヶ谷町花田)小林(東小林)

 出典:武蔵国越谷郷久伊豆神社略記

 虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(8)

 主な建設物と第三鳥居、手水舎の登龍門の彫刻、文化財・宝物

 『主な建設物と第三鳥居』

 久伊豆神社には寛政元年(一七八九)に建立された本殿を始め、

 幣殿・拝殿・外拝殿等の社殿の他、社務所・参集殿・客殿等があわますが、

 平成三年には今上陛下の御大典を記念して

 新たに待殿二棟と二支を置き石にした回廊が造営されました。

 さらに平成五年に斎行された伊勢の神宮の第六十一回御遷宮で撤下された

 皇大神宮の南板垣御門の古付を拝領するという栄誉を蒙り、

 その古材を用いて高さ七・五メートルの第三鳥居が

 平成七年九月に建立されております。


 『手水舎の登龍門の彫刻』

 久伊豆神社の手水舎は延宝三年(一六七五)に建てられたものですが、

 とりわけ注目されるのが「登龍門」の彫わ物が施されていることです。

 「龍門」は言うまでもなく中国黄河中流にある有名な険所であり、

 この急流を登ることができた鯉などの点は龍になると古来伝えられており、

 日本でも「立身出世の関門」を意味する語として余りにも有名です。

 まさに龍に化身せんとする鯉の姿は参拝を前に

 手水を使っ参詣者に相応しいものです。


 『文化財・宝物』

 本居宣長と並び称せられる偉大な国学者平田篤流大人は

 度々当地の門人山崎篤利宅を訪れるなど当神社とも縁が深く、

 境内の一偶にある旧跡「松声庵」は犬人の学問・想の場と伝えられています。

 また境内には昭和十七年に建立された「平田篤肌先生遺徳之碑」があり、

 さらには宝物として篤胤大人が当神社に奉納した「天岩戸の図」一面があり

 「此天岩屋戸図者探考古書自図令画工山里貞由写者也 

  文政三庚辰七月九日平篤胤」と記されています。

 この篤胤大人に縁の深いものとして、

 境内には埼玉県指定の天然記念物の藤があります。

 この藤は昭和十六年に埼玉県史蹟名勝天然記念物調査会によって

 天然記念物に指定されたものですが、

 大人遺愛の樹で流山の門人たちが当神社に奉納したといいます。

 樹齢は約二百年で株廻り七メートル、花房は一メートルに及ぶものもあり、

 その偉観は天然記念物の名に恥じず、関東第一との称もあります。

 『手水舎の登龍門の彫刻

 「" title="久伊豆神社(越谷市東越谷)">久伊豆神社(越谷市東越谷)

2014年3月30日日曜日

虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(7)


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 《参考:年表・資料》

 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)〔さいじんさま〕
  埼玉県越谷市越ヶ谷1700(越ヶ谷町花田)小林(東小林)

 出典:武蔵国越谷郷久伊豆神社略記

 虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(7)

 社殿その他の造立年代・祖霊社

 『社殿その他の造立年代』

 一、本殿      寛政元巳西年建立

 一、幣殿拝殿    昭和三十九年九月二十八日

 一、外拝殿     昭和五十五年十一月二十五日

 一、参集殿     昭和五十八年八月二十二日

 一、待殿      平成三年十月十九日

 一、回廊      平成三年十月十九日

 一、社務所     平成二年五月十四日

 一、客殿      昭和四十九年四月二十五日

 一、車祓所昭    和六十一年九月二十八日

 一、手水舎     延宝三乙卯年九月(洗石嘉永巳西年)建立

 一、内庭石灯籠一対 元禄八乙亥年九月建立

 一、内庭駒犬一対  享保七壬寅年九月建立

 一、天水桶一対   天保十二年辛巳年九月吉日建立

 一、祓所力石    天保十二年辛巳年九月吉日

 一、外庭御獅子一対 文政十丁亥年九月建立

 一、石灯籠一対   文化元甲子九月建立

 一、銅灯籠一対   文成戍子年十一月二十八日建立

 一、石鳥居     貞享三丙寅年九月建立

 一、神橋      文久戍子年九月建立

 一、第三鳥居    平成七年九月建立、

 一、旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿

           平成十六年四月十一日、

 一、道場      平成十七年十月十九日、

 一、祖霊社     平成十八年六月三十日


 『祖霊社』

 久伊豆神社では、

 平成十八年六月三十日に先代の宮司である

 小林茂大人命の十年祭の斎行を機に、

 当神社に縁の方々のご先祖の御分霊を鎮祭し、

 古来、日本人の生活規範でもあり、

 神社信仰の根幹でもある「敬神崇祖」の

 順風美俗をより強固なものとすべく祖霊社を建立いたしました。

 この祖霊社は、当神社の境内にある神池の南側の一画に建てられ、

 ご本社とは勿論、

 他の境内摂末社とも裁然と区別された森厳なる域内に設けられております。

 古来、「敬神崇祖」が神道の根本的信仰であることは、

 我が国最古の古典とされる『古事記』 に

 「参神造化の首と作り、陰陽斯に開けて、二霊群品の祖と為れり」

 と記されていることからも窺われますが、

 我が日本の国土や神々 、そして「青人草」たる人間も、

 すべては「祖」たる伊邪那岐神・伊邪那美神の二神が

 ムスビの神の霊力に拠ってお生みになられたものであります。

 また、当神社のご祭神は大国主命であり、

 この大神は世に幸いを賜る神であると共に、

 氏子・崇敬者の「幽界」を司る神でもあるといわれております。

 このように当久伊豆神社の祖霊社は、ご祭神大国主命のご神徳を賜り、

 広く氏子・崇敬者の皆様方の

 「敬神崇祖」に寄与するものと確信しております。

 「敬神崇祖
  
 「青人草

 「" title="久伊豆神社(越谷市東越谷)">久伊豆神社(越谷市東越谷)
  
 『参考』
 古代史獺祭
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虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(6)


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 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)〔さいじんさま〕
  埼玉県越谷市越ヶ谷1700(越ヶ谷町花田)小林(東小林)

 出典:武蔵国越谷郷久伊豆神社略記

 虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(6)

 久伊豆神社摂社五前神社と星祭・旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿

 『摂社五前神社と星祭』

 久伊豆神社には境内摂社として

  五前神社、

  諏訪神社、

  稲荷神社、

  八坂神社、

  天満宮、

  御嶽神社、

  三峯神社などがあります。

 五前神社には

  久久能遅神(木)、

  軻突智神(火)、

  埴安神(土)、

  金山彦神(金)、

  罔象女神(水)が祀られ、

 それが陰陽五行思想と習合して、男女吉凶相性を守護し、

 また建築土木の安全を守護する神として古来信仰・尊崇されてきました。

 二月の星祭の期間には厄除や方位除を本社に祈願すると共に、

 この五前神社にも多数の人々が参詣し、祈願をなさいます。


 『旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿』

 南洋神社は、南洋群島の中心地。

 パラオ(現。パラオ共和国のコロール島)に

 昭和十五年二月十一日、皇紀一一六○○年に際して、

 昭和天皇の格別の思し召しにより創立された神社であります。

 その御祭神を「皇祖天照大神」一座とする官幣大社であり、

 我々神社人が「本宗」と仰ぐ

 伊勢の神宮の「南洋における分社」ともいうべき神社であります。

 その後、昭和二十年八月の終戦によって、御社殿は御焚き上げとなり、

 神社の祭化は終結、社殿跡地が残るのみとなりました。

 しかしながら、創立以来、南洋の地で開拓・入植に励んだ方々が、

 また戦時下、アジアの解放と大東亜共栄圏の実現を信じて、

 遥か遠く故郷を離れて南方の戦地へと赴いた部隊・兵士たちが

 篤い祈りと誓いを棒げられた事実は永遠に消滅するものではありません。

 伊勢の神宮と旧南洋神社との御神縁・御神慮を拝し、

 神宮当局の御指導・御協カを賜って平成十六年四月十一日、

 久伊豆神社境内に「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿」を建立いたしました。

 この遥拝殿は、氏子・崇敬者共々遥かに、

 幾多の兵士の最期の祈りと誓いをお受けになった大神様の御霊を和め、

 遠く故国を離れた南洋の地に散華された英霊への

 感謝と慰霊・鎮魂、功績顕彰の誠を致す御殿であります。

 「五前神社と星祭

 「旧官幣大社南洋神社鎮座跡地遥拝殿
  
 「久伊豆神社(越谷市東越谷)
 『参考』
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 古代史獺祭

  

2014年3月29日土曜日

虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(5)


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 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)〔さいじんさま〕
  埼玉県越谷市越ヶ谷1700(越ヶ谷町花田)小林(東小林)

 出典:武蔵国越谷郷久伊豆神社略記

 虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(5)

 『招福除災・八方除の祈願と信仰』

 久伊豆神社の崇敬者は埼玉県内や東京を中心とした関東一円はいうに及ばず、

 北は北海道から南は沖縄まで広く全国に及んでおります。

 年間を通じて多数の方々が祈願・参詣のため当神社を訪れ、

 生活の折り目・節目としての「久伊豆詣で」によって

 久伊豆大明神の御神威と御加護を蒙って充実した生活を送っておられます。

 当神社は、

 俗に出雲の神様といわれる大国さまと恵美須さまの父子神のほか

 御一族の三柱の神々をお祀りしており、

 その御神威は古来「招福際災」、

 すなわち四方八方から侵し来る様々な災いを追い祓い、

 幸福と平安をもたらす「八方除」の信仰に表れております。

 このように当神社は特にその

 「八方除」の御神威の霊験あらたかなことによって

 近世には「正一位久伊豆大明神」の御神号を賜わり、

 招福祈願及び除災祈願の神として武士や庶民の深い信仰を集めてきましたが、

 その御神徳は現代に生きる和たちにも大きな恵みと

 御加護をお与えになっています。

 招福祈願

     家運繁栄、営業繁昌、五穀豊穣、

     人生儀礼(結婚、安産、初宮、帯解、七五三、入学、就職、開業、

          還暦、古稀、喜寿、米寿、白寿等)、

     縁結び、上棟祭等の諸祈願。

 除災祈願

     方災除(転居、旅行、普請、造作、建築、土木)、

     厄除け、星祭、念霊除、
 
     縁切り、地鎮祭、病気平癒、交通安全、家相、地相、

     家出帰宅、足止、虫封じ等の祈願。

 これらの諸祈願を神札、

 授与品をご神前にお供えして大神さまにご祈待中し上げます。

 撤下した神札・授与品はご家庭にて奉斎していただき、

 大神さまの御神徳が日々蒙られるようお祀り下さい。


 『特殊神事』

 一、 藤祭太々神楽講(四月ニ十九日)

   氏子中の神明神楽の講員が御神楽を奉納し、

   営業繁栄や家内安全の祈祷をした後、

   参集殿にて直会しながら境内の県指定天然記念物の藤の花を

   愛でるという優雅風流な神事です。

   以前は五月九日が祭日でしたが、

   藤の開花時期が早まったため四月二十九日に変更して実施されています。

 一、 御燎祭(旧暦十月末日)

   昔から十月は「神無月」といわれ、

   全国の神々が出雲へおでましになるという信仰が

   古来広く普及しています。

   当神社では、神様が末日の夜には神社にお帰りになるという信仰から

   この御燎祭を斎行し、

   境内にて篝火を焚き神様をお迎えし、

   あわせて氏子・崇敬者にこれより一年間火の災いのないようにと

   祈願祭を執行いたします。

   当夜は古神札や古熊手などを持参した多数の参拝者が

   篝火にてお焚き上げをしますが、

   この火に当たると風邪にかからないといわれています。

   晩秋を彩る当神社ならではの神事です。

   なお、出雲ではこの十月を「神在月」といい、

   出雲大社の諸神事は現在でも旧暦によって行われています。

   そのため当社でもこの神事を旧暦十月末日にて斎行いたします。 

   (現在の暦を基準に考えますと、お祭りの日が毎年変わーます。

    ご注意下さい。)

 一、 縁起市(十ニ月十五日)

   師走半ばの十五日には境内で縁起物の熊手を売る露店が立ち並び、

   多くの参拝者が良縁を起こし(縁喜)、

   久伊豆大明神との結縁を祈願する姿が見られます。

   元来、竹製の熊手は収穫物を掻き取ることから

   縁起のよい道具として農民に尊崇されてきましたが、

   これが普及し、当神社でも縁起市という神事となったのです

 「招福除災・八方除の祈願と信仰
  

 「久伊豆神社(越谷市東越谷)

 「久伊豆神社(越谷市東越谷)」 

 『参考』
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2014年3月22日土曜日

虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(3)


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 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(3)

 久伊豆神社(越谷市東越谷):「信仰」

 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)〔さいじんさま〕
  埼玉県越谷市越ヶ谷1700(越ヶ谷町花田)小林(東小林)

 「信仰」

 主祭神は大国主命・事代主の命の二柱で、

 配祀神は、溝咋姫命・天穂日命・高照命の三柱である。

 当社は、氏子から「さいじん様」と呼ばれ、厚く信仰されている。

 特に近年は、方災除け・八方除けの御利益で知られるようになり、

 埼玉・東京・千葉を中心にして、全国に崇敬者が広がっている。

 本社の年中の祭礼行事の主なものとしては、

 歳旦祭、一月十四・十五日のどんと焼、節分の星祭厄除析願、

 二月十九日の祈年祭、

 五月九日の藤祭太々神楽講、

 六月三十日の夏越大祓式

 九月二十八日の例祭、

 十月三十一日御燎祭、

 十一月二十五日新穀感謝祭、

 十二月十五日の縁喜市、大晦日の師走大祓式などがある。

 このうち例祭は、献幣使が参向の上、宮司以下神職が奉仕をする。

 直会(なおらい)は参集殿で開かれる。

 また、隔年を基本として神輿の渡御がある。

 これは、例祭後の土曜日にお仮屋に向けて発輿し、

 翌日の日曜日に還御するものである。

 渡御のある年は「本祭り」、ない年は「陰祭り」と呼ばれる。

 また、各町からは山車(だし)が知かれ大変にぎわい、

 かつては「越ケ谷のばか祭り」といわれるほど、大騒ぎしたものである。

 このほか、毎月一日・十五日には月次踏祭が行われる。

 また、末社の祭りには、節分の五前神社の星祭り、

 二月の埼玉(さきたま)稲荷神社・稲荷神社両社の初午祭、

 四月八日の三峰神社の例祭、

 七月十四・十五日の八坂神社の天王様がある。

 拝殿軒下にある一対の狛大には「足止め」の信仰がある。

 これは、家出中の者や悪所通いをする者が家族にいる時、

 狛犬の足に麻を結んで家庭に帰るように願うものである。

 「久伊豆神社(越谷市東越谷)」 

 『参考』
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2014年3月21日金曜日

虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(2)


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 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(2)

 久伊豆神社(越谷市東越谷):「氏子」

 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)〔さいじんさま〕
  埼玉県越谷市越ヶ谷1700(越ヶ谷町花田)小林(東小林)

 「氏子」

 『風土記稿』 四町野村の項には、

 「当村及び越ケ谷宿・大沢町・瓦曾根村・神明下村・谷中村・

  花田村七ケ所の総鎮守とす」

 と記されている。

 この「七ケ所の総鎮守」とされた由緒から、

 明治六年には郷社に列せられた。

 その後、市町村制や町名変更の施行を経て、

 現在の氏子区域は、宮本町(旧四町野村、四丁野村とも書く)・

 越ケ谷・越ケ谷本町・中町・御殿町・柳町・宮前一丁目・花田・弥生町・

 赤山町・新明町(旧神明下村)・谷中町・瓦曾根・東越谷の一部である。

 このうち、越ケ谷本町は、本町二-三丁目・元御殿・四丁野道に、

 越ケ谷は、新石一-三丁目・袋町・音和町・新道、

 更に宮前・東宮前の各一部に、

 中町は、本町一丁目・中町に、

 宮前一丁目が宮前・東宮前の各一部に区分される。

 なお、東越谷の一部は宮前に含まれる。

 氏子の役員には、総代と世話人がある。

 総代は各地区から一名ずつ、合計二三名が選ばれ、

 このうち四名が責任役員となる。

 世話人は、地区ごとに一-三名が互選され、現在は三九名である。

 ほかに、例祭の本祭りの折の年番がある。

 表町と称される本町一-三丁目・中町・新石一-三丁目・弥生町の八地区が

 順番で務め、

 渡御にかかわる一切を取り仕切る。

 なお、表町はそれぞれ山車を所有しており、町内を巡行する。

 各山車には大きな人形が飾られ、地区ごとの自慢となっている。

 それを示すと、

 本町一丁目「竜神」、

 同二丁目「楠木正成」、

 同三丁目「素戔鳴尊」、

 中町「鍾馗」、

 新石一丁目「神武天皇」、

 同二丁目「鍾馗」、

 同三丁目「弁慶」、

 弥生町「日本武尊」である。

 また、神輿を担いだり、神宝・威儀の物を奉持するのは、

 昔から宮本町(旧四町野村)の氏子の役となっている。

 ほかにも「しめぶち」呼ばれる、

 年末の神社の注連縄(しめなわ)の張り替えを行うなど、

 神社との結び付きが最も強い地区である。

 これは、

 江戸期に当社の別当であった迎摂院の所在地であることによるという。

 神宮の第六十一回式年遷宮の折、当社は内宮の旧板垣南御門を拝領した。

 その奉祝のため、

 平成七年、拝領古材を氏子・崇敬者に披露する

 「越谷お木曳き祭」が盛大に催された。

 この行事に当たっては、神宮から奉曳車一台を借り受け、

 また、伊勢神宮奉仕会の全面的な協力を得た。

 その後、中心を担った当行事実行委員会と百人委員会が基盤となり、

 同八年に「久伊豆神社奉仕会」が結成された。

 当会の目的は、祭典・行事の折の奉仕活動、神宮初穂曳への参加、

 伊勢神宮奉仕会との交流、会員相互の親睦会や勉強会の開催などである。

 当地ゆかりの江戸期の学者に平田篤胤と越谷吾山がいる。

 このうち篤胤は国学者で、

 文政三年(1820)、当社に「天岩戸」の絵馬を奉納している。

 また、境内には、篤胤の仮寓跡とされる「松声庵」がある。

 当地の門人に、山崎長右衛門篤利がおり、

 経済的に援助をすると共に、養女を後妻に入れた。

 山崎家には、篤胤に関する多数の書状や、著書の版木が残されている。

 更に、県の天然記念物に指定されている藤も

 門人の川鍋国蔵が移植したものと伝えられている。

 吾山は、新町(現新石)の名主会田家の出身で、

 方言学の始祖といわれ、

 特に『諸国方言物類称呼』の書は著名である。

 俳人でもあり、境内に嘉永二年(一八四九)の句碑が残っている。

 当社では、昭和六十二年より、月に一回、「小教院」を開講している。

 これは、氏子・崇敬者を対象に、『古事記』を中心に学ぶもので、

 国学院大学の阪本是丸教授を講師に招いている。

 《Key Word》

 『参考』 『諸国方言物類称呼』

 「越谷吾山」

 「注連縄(しめなわ)」
 
 「久伊豆神社(越谷市東越谷)」
 

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虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(1)


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 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦

 虫追い〔松明まつり〕と稲作の神(1)

 久伊豆神社(越谷市東越谷):「歴史」

 久伊豆神社(ひさいずじんじゃ)〔さいじんさま〕
  埼玉県越谷市越ヶ谷1700(越ヶ谷町花田)小林(東小林)

 「歴史」

 久伊豆神社が、元荒川流域の南北に分布していることはよく知られている。

 そして、この範囲は、

 平安末期の武士団、武蔵七党野与(のよ)党・私市(きさい)党の勢力域と

 ほぼ一致する。

 特に、当社周辺には、

 野与党である越ケ谷郷古志賀谷氏、大相模郷の大相模氏、

 八条郷町渋江氏の三氏族がおり、

 当社の創建に野与党がかかわっていたことが推測できる。

 鎌倉期には、崎西(きさい)郡・足立(あだち)郡に及ぶ領域に

 大河戸御厨(みくりや)があった。

 これは、源頼朝が伊勢の神宮に寄進した神領で、

 現在の松伏(まつぶし)町大川戸の辺りが中心地であったと考えられている。

 『吾妻鏡』の 建久五年(1194)六月三十日条に、

 「於武蔵国。大河戸御厨久伊豆宮神人(じにん)等喧嘩出来之由有其聞」とある。

 この「久伊豆宮」がどの社に当たるか不明であるが、

 当社はその有力な候補の一社に挙げられている。

 なお、創建について、『風土記稿』 四町野(しちょうの)村の項には、

 「久伊豆社天文四年(1535)の勧請と云」と記されている。

 江戸期を通して、

 真言宗越谷山神宮寺迎摂院(こうしょういん)が当社の別当を務めていた。

 この寺は、天正十九年(1591)に、

 徳川家康から五石の朱印地を寄進されている。

 しかし、文化七年(1810)の「四町野村除地書上」に

 「御朱印高五石迎摂院、正一位久伊豆大明神、

  右御朱印之内、同院」と記載され、

 この朱印地が当社に対してのものであったことを示唆している。

 当社の神紋は「立葵」である。

 当時、葵紋を用いることは、一般には禁じられていた。

 その使用に当たっては、徳川将軍家との関係が考えられる。

 参道入口前を流れる元荒川対岸に、越ケ谷御殿と呼ばれる館があり、

 家康・秀忠らが鷹狩りなどの折に、休息所・宿所としていた。

 記録は残らないものの、

 恐らく将軍が参拝した際にこの紋を奉納したものであろう。

 また、社蔵の文書に、享保十八年(1733)の宗源宣旨(せんじ)がある。

 これは、京都の神祇管領吉田兼雄から正一位の神位を授かった時のものである。

 本殿は、三間社流造りの壮麗なものである。

 棟札から、寛政元年(1789)に再建されたことが分かる。

 当社の社頭は、昭和三十年代以降目覚ましく隆盛の一途をたどっている。

 このことは境内施設の充実に如実に表れている。

 その主なものには、

 昭和三十九年の幣殿・拝殿の建設、

 同四十九年の旧社務所、

 同五十五年の外拝殿、

 同五十八年の参集殿、

 平成二年の新社務所、

 また、今上天皇の即位記念事業として、

 同三年の待殿二棟、回廊の新築がある。

 特筆すべきは、

 神宮の第六十一回式年遷宮の折に拝領した内宮の旧板垣南御門を、

 平成七年に第三鳥居として建立したことである。

 祀職は、明治期以後、池田氏が染之助・吉兵衛・悦太郎・正和と四代続き、

 戦後は小林茂・一朗と続いている。

 『参考』
 前人未到の道を行く - 邪馬台国・奇跡の解法 - Gooブログ
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2014年3月20日木曜日

高皇産霊尊・神皇産霊尊(16)


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 《参考:年表・資料》

 出典:加治木義博

 高皇産霊尊・神皇産霊尊(16)

 『天の稚彦物語』の名詞もパーリ語

 卑弥呼がソナカと結婚して、

 ソナカが早死にした歴史の別伝である

 『天の稚彦』の部分はどうなっているか?。

 『日本書紀』から見ていこう。

 パーリ語で書かれていた登場者名 その他

 高皇産霊尊 別名高木の神    パーリ語 takketi     タッケチ  思索・選択・信じる
      高木 (タカの大隈語はタケ。キは沖縄・大隅語でチ→武内)


 穂日の命     ほひ   パーリ語 hohi    ホヒ    繁栄せよ

 大己貴の神    なむち  パーリ語 namuci    ナムチ   悪魔 → (大悪魔)

 大脊飯の三熊の大人うさはん パーリ語  ussaha    ウッサーハ 勇猛、能力者 +ン

   武 三熊の大人さんくま パーリ語  sankhuba  サンクバ  動揺、振動

 顕        うつし  パーリ語  utu       ウツ    時、季節 +シ=之

 国玉       くんたま パーリ語  kuntani   クンタニ  雉 → 無名雉

 下        した   パーリ語  sita      シタ    微笑

 下        くだ   マレー語  kuda      クダ    馬

 照姫       てり   パーリ語  their     チリ    長老尼

 無名       ななし  パーリ語  nana   ナーナ      知恵

 雉        キジ   パーリ語  kitti   キッチー    名声、賞賛

 雉        (キジ   パーリ語  kuntani   クンタニ    雉 → 国玉)

 湯津杜木     ゆちかつらパーリ語  yuthika   ユーチカー  ジャスミン・素馨木

 探女       さがしめ パーリ語  sagameyya サガメイヤ  同郷の、同村の

 疾風       はやて  パーリ語  hayati  ハヤチ      馬、速力

 疾風       はやて  パーリ語  harati  ハラチ      運ぶ、持ってくる

 大葉刈      うばかり パーリ語  upakarin ウパカリン  援助者、堡塁

 剣        つるぎ  パーリ語  tharu   ツァルゥ    剣(ツルギは剣王(ギ)

 鳴女       なき   パーリ語  nati    ナーチ      親族(ナチ→ナキ)

 《Key Word》

 高皇産霊尊・神皇産霊尊
 高皇産霊尊・神皇産霊尊

 『参考』
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2014年3月19日水曜日

高皇産霊尊・神皇産霊尊(15)


 「古代史ブログ講座」開講にあたって
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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 出典:加治木義博

 高皇産霊尊・神皇産霊尊(15)

 『最初の高塚古墳記録はソナカ(天の椎彦)の喪山』

 古墳時代は、卑弥呼の大冢からでなく、

 ソナカたちの渡来時に始まっていたことも間違いない。

 ソナカの別伝である『天の稚彦』の死を弔った話の、

 彼の遺体を収めた「喪山」という名は、

 彼の墓が山に似た形の高塚古墳だったことを

 明確に記録しているのである。

 その要点を『日本書紀』から抜き書きしてみよう。

 稚彦が高皇産霊尊に報告しないので、

 その様子を見に派遣した雉(キジ)を稚彦が射殺する。

 その矢は高皇産霊尊のところまで飛んでいく。

 高皇産霊尊がその矢を投げ返すと稚彦の胸をつらぬき、

 稚彦は即死する。

 稚彦の父は喪屋(もや)を建てて、殊(もがり)をした。

 稚彦の葦原中国の友人・

 味耜高彦根(アレクサンドロス)の神が弔問に訪れたが、

 彼は稚彦によく似ていたので家族は稚彦が生き返ったと喜ぶ。

 味耜高彦根は

 「死人と間違えるとは何たる無礼」と怒って喪屋を斬り倒す、

 喪屋は天から崩れ落ちて地上の山になった。

 いま美濃の国の藍見川の上流にある喪山がそれだという話である。

 この昔話では「喪山」は天の上から「美濃」に落ちたと書いてある。

 しかし若い卑弥呼の夫の墓が今の岐阜県の美濃にあるはずがない。

 またソナカは仲哀天皇であり彼は九州で熊襲と戦って死んだ。

 はっきり九州だと書いてあるし、

 熊襲が岐阜県にいるはずもないからこの熊襲のいる美濃は、

 のちの女王国の旁国『弥奴(ミノ)』以外にはありえない。

 《Key Word》

 高皇産霊尊・神皇産霊尊
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2014年3月18日火曜日

高皇産霊尊・神皇産霊尊(14)


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 高皇産霊尊・神皇産霊尊(14)

 重要な建国記録『天の若日子物語』の「ホヒ」

 その登場がなぜ問題かというと、このホヒという「命令詞」が、

 卑弥呼が結婚したソナカの前任者だった

 「人物」として登場するからである。

 このおかしさは翻訳者の未熟のせいだとしか判断できないが、

 「それで済ませてしまってはいけない」という例として最適なので、

 ここで少し念入りにお話ししておく。

 大学講義録23ではそれを訳文の原文に忠実に

 「繁栄皇子」として扱ったが、

 それでは在来のものより、

 僅かに進歩したというだけで、

 真の史実の復元にはならないという点を、

 特にご直視いただきたいと思う。

 『日本書紀』「神代 下」「天孫降臨」章の冒頭 

 [高皇産霊尊が、天孫に治めさせたい豊葦原瑞穂の国を、

  前もって平定しておくには、

  誰を派遣したらいいかと神々に尋ねると、

  神々は皆、異口同音に

  「天穂日命(アマノ ホヒ ノ ミコト)がいちばん傑出しています。

   彼をお試しになってみては……」と答えたので、

  それに従って彼を派遣したが、

  穂日の命は皇葦原瑞穂の国の

  大己貴(オオナムチの神に丸めこまれて戦わず、

  3年たっても報告もしない]。

 ここではホヒは名詞のように扱われているが、

 パーリ語のホヒは

 「居れ・居よ」「人々を善導する尊尼たれ」

 という意味の命令詞である。

 「ホヒ」とはこの命令を受けた人物の「代名詞」であり、

 その性は「尊尼」すなわち「女性」なのだとわかるのである。

 《Key Word》

 高皇産霊尊・神皇産霊尊
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2014年3月17日月曜日

高皇産霊尊・神皇産霊尊(13)


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 高皇産霊尊・神皇産霊尊(13)

 仲哀は孝霊時代人。『仲哀紀』の異様な時代配置

 A 高皇産霊の尊は神代の神ではなく、仲哀天皇を殺した熊襲である。

   その時間帯はソナカの妻・卑弥呼の若い時の事件だから、

   倭迩迩日百襲姫の父・孝霊天皇の時代である。

   詳細は今後の研究が必要だが、

   淡海三船がつけた漢風諡号が意味をもつとすれば、

   孝霊は「高=皇+霊]を暗示しているから、

   高皇産霊尊は孝霊天皇だった可能性が高い。
 
 B これが違っていたとしても、

   仲哀天皇がその「孝霊天皇と同時代の人」であることには

   変わりはない。

   前記のソナカ関連の記事全部と『仲哀天皇紀』はすべて、

   『孝霊天皇紀』と併記しなければウソになるのである。

 C するとソナカが崇神天皇の時に来て、

   垂仁天皇のときに帰ったというのもウソになる。

   崇神天皇は孝霊天皇の曾孫になっているからだ。

 D 『記・紀』は、

   その仲哀天皇を、崇神天皇のそのまた曾孫・成務天皇の皇子だと書く。

   なぜ?『仲哀天皇紀』は、そんなに後へ行ってしまったのだろうか?。

   それはご存じの通り卑弥呼と壹與の2人の事跡を、

   1人の神功皇后にダブらせて

   編集してしまったので、

   後世に大活躍した<壹與>の印象が強くて、垂仁天皇より後へ

   もって行かれたのである。

 《Key Word》

 高皇産霊尊・神皇産霊尊
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高皇産霊尊・神皇産霊尊(12)


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 高皇産霊尊・神皇産霊尊(12)

 『俀(ダイ)国と大黒と大国の登場人物の凄い一致』

 また先に不明の「多・弗・利」を「タフトイ」に対する当て字としたが、

 それがここでは「経津(フツ)(これは賦都)」=弗として出てくる。

 フト・フツは布屠(フト)で仏(フツ)である。

 これだけ完全に揃えば、

 この部分が『隋書』中の俀国の記事だということは、

 直ぐわかるはずである。

 この熯速日神の子が武甕(みか)槌の神(武御雷(ミカヅチ)男神)だから、

 泉蓋蘇文(イリガスミ)=入鹿に殺された建武王であり、

 武甕槌が最も有名なのは、

 高皇産霊尊の命令で出雲の五十田狭の小汀で、

 大国主に国譲りを迫ったことである。

 するとこの建と、速日の速は、

 素戔鳴の尊の名乗りについた建・速に一致するから、

 さらに真相が見えてくる。

 国譲りは太古の事件記録ではなく、

 俀国の入鹿太子を巡る事件の記録だったのである。

 ダイコクが大黒になったのであり、

 それにはさらにもう一つの意味が重なっている。

 それは高句麗が五彩圏の「黒の国=クロアチア」で、

 その王は当時の習慣で大黒と略称されたからである。

 こうわかると大国主をめぐる様々な別名は、

 出鱈目に呼ばれたものではなく、

 それぞれに深い意味と史実があり、それらは多くの人々が、

 深い関心をもって語って聞かせ、語り継ぎ、記録に残した。

 「史実」に使われていた名詞群だったことがわかる。

 そしてこれによって、

 今の主題である「大国主」の実体が、

 明確に姿を現わしてくることが期待できる。

 《Key Word》

 高皇産霊尊・神皇産霊尊
 高皇産霊尊・神皇産霊尊

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2014年3月16日日曜日

高皇産霊尊・神皇産霊尊(11)


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 高皇産霊尊・神皇産霊尊(11)

 パーリ語版『古事記』『天の若日子物語』

 『日本書紀』の『天の稚彦物語』と

 『古事記』の『天の若日子物語』とを比較してみると、

 同じ物語りなのに根本的な違いがある。

 その違いに注意しながら見てもいこう。

 まず神の名の当て字が異なる。

 高御産巣日の神(高皇産霊尊)と

 天照大御神(『日本書紀』にはいない)とが諸神に、

 「葦原中国に行かせた天の菩比(ホヒ)の神(穂日の命 繁栄王子)が

 久しく報告しない。次は維がいいか?」ときくと、

 思金の神(takketi 思索・選択=武内宿祢=『日本書紀』にはない)が

 「天の若日子がいい」と答えたので降らせたが、

 彼もまた大国主の娘・下照比売と結婚して

 王になるつもりで8年間も報告しない。

 そこで雉(kitti キッチー 名声、賞賛)の

 鳴女(nati ナーチ 親族 ナチ→ナキ +女)に、

 「若日子に葦原国の荒(あら)神を説得にやったのに

  報告もしないのはなぜかと問え」と命じた。

 鳴女が門前のの湯津楓(カエデ)からそれを告げると、

 佐具女(sagameyya サガメイヤ 同郷の 十女)が聞いて若日子に

 「嫌な声の鳥を殺して」と頼み、若日子は鳴女を射殺した。

 胸を射抜いた矢は天の安河にいた

 高木(タケチ)神(高御産巣日の神)のところまで飛んで行った。

 高木神は「着いた血が敵を射た血なら若日子に当たるな。

 命令に背いた血なら麻賀礼(禍(まが)あれ)」といって、

 矢があけた穴から落とすと若日子の高胸坂に命中した。

 これが「還(かえ)し矢」のたとえのもとだ。

 《Key Word》

 高皇産霊尊・神皇産霊尊
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高皇産霊尊・神皇産霊尊(10)


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 高皇産霊尊・神皇産霊尊(10)

 『ソナカ(稚彦)の死とアレクサンドロスの弔問』

 ところが、その矢が『知恵名声王』のからだを貫き、

 通り抜けて『思索帝』(高皇産霊尊)のところまで飛んでいく。 

 『思索帝』はその血ぬられた矢を見て

 「稚彦は戦っている。この矢もいるだろう」と地上へ投げ返す。

 するとその矢は真っ直ぐ元の場所に落ちて、

 食後、横になって寝ていた稚彦の胸をつらぬき、稚彦は死ぬ。

 今「返し矢、恐るべし」という諺があるのは、このことをいうのだ。

 そのとき『微笑む長老尼』(下照姫)がなき悲しむ声が天に届いたので、

 『天の雉王』(天の国玉)は稚彦の死を知り、

 『運び馬』

 (疾風(はやて) hayati 馬、速力 harati 運ぶ、持ってくる)をやって、

 稚彦の死体を天に運ばせ、

 服喪中、死者を入れる喪屋を建てて殯(もがり)をした。

 すると葦原中国の稚彦の友人・アレクサンドロス

 (味耜高彦根神)が弔問に訪れた。

 彼は稚彦によく似ていたので、家族たちは稚彦が帰ってきたと大喜びした。

 アレクサンドロスは

 「友情で遠くまで弔いに来てやったのに、死人と間違えるとは無礼な」と

 かんかんに怒って、

 『援助者(すけっと)』

 (大葉刈 upakarin ウパカーリン 援助者・堡塁)という名の剣で
 喪屋を斬り倒した。

 喪屋は地上に崩れ落ちて山になった。

 今、美濃の藍見(あいみ)川上流にある喪山がそれだ。

 世間では死人に間違われることを忌み嫌う。

 それはこの事件がもとになっているのである。

 《Key Word》

 高皇産霊尊・神皇産霊尊
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2014年3月15日土曜日

高皇産霊尊・神皇産霊尊(9)


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 高皇産霊尊・神皇産霊尊(9)

 パーリ語版『日本書紀』『天の稚彦物語』

 賢明な『思索帝』

  (高皇産霊尊=高木の神takketi思索・選択・信=武内宿祢)が

  葦原中国を平定するため先ず

 『繁栄王子』(天の穂日の命 hohi 繁栄せよ)を

  派遣したが大悪魔(大己貴の神 namuci 悪魔)に味方して、

  三年もたつのに報告もしない。

 そこで『繁栄王子』(穂日の命)の子・『勇猛王子』

 (大背飯の三熊大人=武三熊大人、ussahaウッサーハ+ン勇猛な、能力者)を

 派遣したが、ごれもまた父に従ってしまう。

 そこで今度は『天の雉王』(国玉 kuntani 雉)の

  王子・天の稚彦を派遺したところ、

 葦原中国の『微笑む季節の雉王』

 (顕国玉 utu 時、季節 sita 微笑 kuntani 雉)の

 娘・『微笑む長老尼』(下照姫sita 微笑their チリ長老尼)と結婚して、

  これまた長い間、報告もない。

 そこで『思索帝』(高皇産霊尊)は、

 『知恵名声王』

 (無名雉nanaナーナ 知恵 kittiキッチー名声、賞賛kuntani雉(国玉)を

 状況偵察にやる。

 彼(雉)は、稚彦の門前に生えている

 素馨(そけい)の木

 (湯津杜木 yuthika ユーチカー 索馨・ジャスミンの一種)の陰から

 屋敷内の様子をうかがう。

 すると稚彦と『同郷の女』

 (天の探女 sagameyya サガメイヤ 同郷の、同村の)が

 見つけて「ユーチカーの木に怪しい奴がいます」と警告する。

 そこで稚彦は弓で射て『知恵名声王』を射殺してしまう。

 《Key Word》

 高皇産霊尊・神皇産霊尊
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2014年3月14日金曜日

高皇産霊尊・神皇産霊尊(8)


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 高皇産霊尊・神皇産霊尊(8)

 高・コウ。皇・ク。産・ウ。霊・リ=高句麗

 大国王は絶対に「俀国王」ではないことが決定的になった。

 ダイ国という、そんな国も呼び方も我が国には実存しなかったのである。

 しかし大国主は「ダイコクサマ」と呼ばれる。

 これはなぜなのだろう?。

 これは大黒様と書くので、

 インドの神・マハー(大)・カーラ(黒)=仏教の天部の

 大黒天のことだとすぐわかる。

 鋭く対立している宗教どうしの間では、

 こんなことは絶対に起らないから、

 こんな各で呼ばれた大国主が、仏教系の王だったことは間違いない。

 その仏教はソナカを名乗る王が引き連れた仏教宣布団が、

 弥生時代に我が国まで来て、

 ソナカ王子が卑弥呼と結婚して、

 仲哀天皇と神功皇后とになり、

 その経緯が天の稚彦の物語りとして

 『記・紀』に記録されたこともよく御存知である。

 『日本書紀』は稚彦の死後をこう書いている。

 *『この後、高皇産霊尊は更に諸神を会して、

   葦原中国に派遺する者を選ぶ。

   …経津(これは賦都と発音せよ)三神がよかろう。

   …甕速日神、その子・熯速日神ー」*

 これをよく見ると、

 高皇産霊は 高・コウ。皇・ク。産・ウ。霊・リ=高句麗。と読め、

 速日はソカ=蘇我と読める。

 そして蘇我は助詞ナを省略した当て字で、

 本来は蘇奴我(ソナカ)=息長(ソナカ)・足中(ソナカ)と

 同じ発音のソナカに対する

 当て字だったことは、もうよく御存知のことである。

 《Key Word》

 高皇産霊尊・神皇産霊尊
 高皇産霊尊・神皇産霊尊