2014年7月31日木曜日

大量の日本語誕生時代


 浦和レッズレディース
 古代史ブログ講座

 《古代史ブログ講座》古代日本語の成立過程

  講師:歴史研究家「金原 政敏」
 
 ◎大量の日本語誕生時代

 <一大>は<壱岐>に対して国名として用いられた。

 在来説はこの<大>を<支>という字の間違いだと、

 いとも簡単に片づけてしまっているが、

 それは無知も甚だしいのである。

 中国音を借るまでもなく<キ>は沖縄音で<チ>である。」
 
 その<チ>は<津>を意味し、<都>を意味する。

 <大>の字は<チ>に対する<ティ>か、

 <都>に対する<タ>に当てられたもので決して誤りではないのである。

 なぜなら<伊都国>は厳格な稜威(いつ)の国であり、

 違反者と違反物を検察する関所でもあった。

 だからこそ先に通過した厳木(きゅうらぎ)が

 「厳城(いつき)」であり、また一大国がある。

 固定した無意味な国名ではなく

 <イツ>の国という機関の職名であったから時と共に位置を変え、

 方言差によって、魏人の耳には別の国名と聞こえたのである。

 この<伊都>、<一大>の語源もまたマレー語であり、

 それの語源であるインド諸語である。

 私たちが「行っておいで」という所を、

 鹿児島では「行たい来やい」という。

 この<イタイ>はマレー語の

 「行く。出発する。来る。着く」という語に一致する。

 行くと来るでは全く逆でおかしく思われるであろうが、

 これは出発点を強く意識して、

 行くということは結局無事に帰るということという、

 祈りと願望を伴なわないと口(くち)に出せない。

 という所からきている。

 これは日本語が多くの方言でも

 結局「行って」「おいで」型になっているのと、

 全く同じものなのである。

 その<イタイ>はサンスクリットでは<イター>となり

 「ここから」とやはり出発点を意味する。

 マレー語化しても日本語化しても常に出発点が強く意識されるのである。

 これはパーり語では<イト>になる。

 そして同じ語で<ソチ>は<平安>、<安泰>、<幸福>を意味する。

 日本語の<サチ>と非常に近いことはすぐおわかりになったと思うが、

 さらにこの語は<シバ>という語と全く同意なのである

 <イト>・<ソチ>というパーリ語で呼ばれ、

 これに対する当て字によって、

 後世人は意味のない漢字に意味を錯覚して、

 <葦津>、<足津>、<牛津>の同意化が起った。

 ということになる。

 一方魏人は、その発音の類似と、卑弥呼の宗教のイメージから、
 
 これを<一大率>と当て字して疑がうことをしなかった。

 ということになる。

 邪馬臺国時代は、

 まだまだ他にも多くの日本語を

 生み出した時代であったことがわかっている。

 それは多民族の混成が生み出した当然の帰結であったが、

 このことが日本人の思考と思想に与えた影響は大きなものがる。

 『言霊(ことだま)のさきはふ国』という表現や、

 カナ文字の考案もこれを意味しているのである。

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 

  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

0 件のコメント:

コメントを投稿