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古代史ブログ講座
《古代史ブログ講座》古代日本語の成立過程
講師:歴史研究家「金原 政敏」
◎大量の日本語誕生時代
<一大>は<壱岐>に対して国名として用いられた。
在来説はこの<大>を<支>という字の間違いだと、
いとも簡単に片づけてしまっているが、
それは無知も甚だしいのである。
中国音を借るまでもなく<キ>は沖縄音で<チ>である。」
その<チ>は<津>を意味し、<都>を意味する。
<大>の字は<チ>に対する<ティ>か、
<都>に対する<タ>に当てられたもので決して誤りではないのである。
なぜなら<伊都国>は厳格な稜威(いつ)の国であり、
違反者と違反物を検察する関所でもあった。
だからこそ先に通過した厳木(きゅうらぎ)が
「厳城(いつき)」であり、また一大国がある。
固定した無意味な国名ではなく
<イツ>の国という機関の職名であったから時と共に位置を変え、
方言差によって、魏人の耳には別の国名と聞こえたのである。
この<伊都>、<一大>の語源もまたマレー語であり、
それの語源であるインド諸語である。
私たちが「行っておいで」という所を、
鹿児島では「行たい来やい」という。
この<イタイ>はマレー語の
「行く。出発する。来る。着く」という語に一致する。
行くと来るでは全く逆でおかしく思われるであろうが、
これは出発点を強く意識して、
行くということは結局無事に帰るということという、
祈りと願望を伴なわないと口(くち)に出せない。
という所からきている。
これは日本語が多くの方言でも
結局「行って」「おいで」型になっているのと、
全く同じものなのである。
その<イタイ>はサンスクリットでは<イター>となり
「ここから」とやはり出発点を意味する。
マレー語化しても日本語化しても常に出発点が強く意識されるのである。
これはパーり語では<イト>になる。
そして同じ語で<ソチ>は<平安>、<安泰>、<幸福>を意味する。
日本語の<サチ>と非常に近いことはすぐおわかりになったと思うが、
さらにこの語は<シバ>という語と全く同意なのである
<イト>・<ソチ>というパーリ語で呼ばれ、
これに対する当て字によって、
後世人は意味のない漢字に意味を錯覚して、
<葦津>、<足津>、<牛津>の同意化が起った。
ということになる。
一方魏人は、その発音の類似と、卑弥呼の宗教のイメージから、
これを<一大率>と当て字して疑がうことをしなかった。
ということになる。
邪馬臺国時代は、
まだまだ他にも多くの日本語を
生み出した時代であったことがわかっている。
それは多民族の混成が生み出した当然の帰結であったが、
このことが日本人の思考と思想に与えた影響は大きなものがる。
『言霊(ことだま)のさきはふ国』という表現や、
カナ文字の考案もこれを意味しているのである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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