古代史ブログ講座
《古代史ブログ講座》一之宮貫前神社・富岡製糸場・龍光寺
出典:歴史学講座「創世」 小嶋 秋彦
《貫前ぬきさき)神社:豊木入日子命[豊城入彦尊]と毛野国》
1.先代旧事本紀巻十國造本紀
『上毛野國造』瑞籬朝,皇子豐城入彥命孫-彥狹島命,初治平東方十二國,為封.
瑞籬の帝[崇神天皇]の御世に皇子の
豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の孫の
彦狭島命(ひこさしまのみこと)が初めて東方十二国を
平定されたとき封ぜられた。
『下毛野國造』難波高津朝御世,元毛野國分為上下.
豐城命四世孫-奈良別,初定賜國造.
難波高津の帝[仁徳天皇]の御世に
元は毛野国を分けて上と下とにした。
豊城命の四世の孫の奈良別(ならわけ)を
初めて国造に定められた。
2.古事記"崇神天皇"
御眞木入日子印惠命、坐師木水垣宮、治天下也。
此天皇、娶木國造、名荒河刀辨之女【刀辨二字以音】遠津年魚目目微比賣、
生御子、豊木入日子命。次、豊鉏入日賣命。【二柱】
…略…
次、豊木入日子命者【上毛野君、下毛野君等之祖也。】
妹豊鉏比賣命【拜祭伊勢大神之宮也。】
…略…
3.日本書紀"御間城入彦五十瓊殖天皇 崇神天皇"
元年春正月…略…二月辛亥朔…略…又妃紀伊國荒河戸畔女遠津年魚眼眼妙媛
【一云 大海宿禰女八坂振天某邊】 生豊城入彦命 豊鍬入姫命
…略…以豊城命令治東 是上毛野君 下毛野君之始祖也
4.「和名類聚抄」上野国
甘楽郡 貫前(奴支乃左岐)…略…、抜(金+大+十)(ヌキホコ)[郷名]
◎日本書紀"崇神天皇"
四八年春正月…略…天皇勅豊城命 活目尊曰…略…朕以夢占之
…略…各得夢也 會明 兄豊城命以夢辭奏于天皇曰 自登御諸山向東
而八廻弄槍 八廻撃刀…略…則天皇相夢 謂二子曰 兄則一片向東
當治東國 …略…
(1)貫前「ぬきさき」:八廻弄槍
"貫":「つらぬく」または「抜」<"寿"(広辞苑)もちあそぶ、いじる
"前"「サキ」(Sk.)śakti 槍、竿、刀
「ぬきさき」"寿槍"に同じ
(2)抜(金+大+十)(ヌキホコ)
"抜"「貫」と同義
"金+大+十"「鉾」に同じ:両刃の刀
抜(金+大+十)「ヌキホコ」"撃刀"と同義
※「貫前」「抜(金+大+十)」は豊木入日子命[豊城入彦]の関係名称
5.豊木入日子命[豊城入彦]の後裔
「新撰姓氏録」より
左京 皇別 下毛野朝臣 朝臣 崇神天皇皇子豊城入彦命之後也
左京 皇別 上毛野朝臣 朝臣 下毛野朝臣同祖
豊城入彦命五世孫多奇波世君之後也
大泊瀬幼武天皇[謚雄略。]御世。
努賀君男百尊。為阿女産向聟家犯夜而帰。於応神天皇御陵辺。
逢騎馬人相共話語。換馬而別。明日看所換馬。是土馬也。
因負姓陵辺君。百尊男徳尊。孫斯羅。謚皇極御世。賜河内山下田。
以解文書。為田辺史。宝字称徳孝謙皇帝天平勝宝二年。改賜上毛野公。
今上弘仁元年。改賜朝臣姓
6.「延喜式」神名帳 甘楽(カンラ)郡:2座大1小1
貫前神社[ヌキサキ](名神大)
一之宮貫前神社[いちのみやぬきさき]「經津主神」
女神一座があったと伝わる。
本来は[貫前][抜鉾]の二神二社であった。
この神々にかかわる山、神社の方位にも複雑な関係がある。
この地域は半島からの渡来人が多く、
彼らによって六世紀には成立しており、祭神は女神であり、
水の神、織物の神、財の神であり、
小舟神社-貫前神社-荒船山につながり、
そこへ磯部君=物部氏に統率される
男神・武神の抜鉾が合わさったものである。
(日本の神々11田島桂男氏より)
一之宮貫前神社
上野国一宮、元国幣中社、一之宮貫前神社、群馬県富岡市一ノ宮鎮座。
「一番はじめは一ノ宮」と古くからわらべ歌にうたわれている通り、
一之宮貫前神社 は上野国の一宮で、経津主神と姫大神を祀り、
開運、治安、農耕、機織、縁結び、安 産の神として県内はもとより、
遠近の人々に信仰され親しまれている。
神社は、鏑川の清流に臨み北に妙義、南に稲含、秩父の連山、
西に神津荒船の連山を 仰ぐ景勝の地にあり、小高い丘陵を登り、
見上げるような丹塗の大鳥居をくぐり、
北 斜面の下り参道をおりて参詣するという
全国でも珍らしい形態を持ち総漆塗極彩色の
社殿が鬱蒼と繁った杜に囲まれ巧に配置散在する様は、
恰も日光の東照宮を見るような華かなもので、
小日光と呼ばれている。
御祭神
経津主神、姫大神。
経津主神は磐筒男、磐筒女二神の御子で、
天孫瓊瓊杵尊がわが国においでになる前に
天祖の命令で武甕槌命と共に出雲国(島根県)の大国主命と協議して、
天孫のためにその国土を奉らしめた剛毅な神で、
一名斎主命ともいい建国の祖神である。
姫大神は祭神不詳で、
恐らく綾女庄(一ノ宮地方の古称)の養蚕機織の守護神と考えられる。
由緒
社伝によれば、碓氷郡東横野村鷺宮に物部姓磯部氏が奉斎、
次で、南方鏑川沿岸に至 り蓬ケ丘綾女谷に居を定めお祀りしたのが
安閑天皇元年三月十五日である、
天武天皇 白鳳二年三月十五日初度の奉幣があり、
清和天皇の貞観元年に宸筆の額を賜り、
神位の昇る毎に書き改めて今に残っているものに
正一位勲五等抜鉾神社とあり、
即ち勅額 で楽翁公の集古十種に記されている。
醍醐天皇の御代、延喜の制には名神大社に列し、
上野国一ノ宮として朝野の崇敬を衆め、武家時代に至って、
武家、地方豪族が格別に崇拝して数々の献品をなし、
奥方連中からも奉納品等があって女神様の信仰も篤かったことが知られる。
明治四年国幣中社に列格、
昭和二十一年、社格制度の廃止により一之宮貫前神社と称し現在に至る。
この間御修理に御下賜金、皇族方の御寄進或は御親拝(昭和九年)
皇族方の御参拝等 御神威彌彌高く農耕、殖産、開運の神として
神徳四方に遍く一朝国家有事の際は賽者踵を接する。
社殿と境内
現在の社殿は徳川三代将軍家光の命により改築したもので、
寛永十二年(約三百三十年前)の造営である。
元祿十一年、五代将軍綱吉が大修理をした、
江戸初期の総漆塗 精巧華麗な建造物というだけでなく、
その構造が、いわゆる貫前造と称する特異な点から
重要文化財(旧国宝)に指定されている。
拝殿、楼門及び東西両廻廊は同時代の建築である、
実に徳川家の抱え大工が日光廟という
世界的美術建造物を完成する道程の中にあるものといえる。
境内は約二万六千坪、北斜面の森林で、
本殿裏に樹令約千二百年の杉の御神木があり 、
一名藤太杉とも云う、
その昔、藤原秀郷(俵藤太秀郷)が戦勝祈願をこめて年令の数
即ち三十六本を植えたと称するもので、
現在はこの御神木一本だけが残っている。
西の門内は式年遷宮祭の御仮殿敷地、
東の門内は往時神仏習合時代の僧堂敷地で、
観音堂跡、三重塔跡、鐘楼跡等がある、
不明門内にある鳥居は勅額鳥居と称え
昔は遥か南方正面田島字鳥居の地にあったと伝えている。
宝物
総て四百点余、鏡、武具をはじめとして、
御神衣、古文書、神楽面等古来の崇敬信仰 を語るに足る諸品を蔵している。
鏡、百数十面、奈良、平安、鎌倉、室町、吉野、桃山、江戸の
各時代を通じて大観し得るものとして金工美術上珍重されている、
内重文に指定されているものは次の通り。
白銅月宮鑑、唐鏡、約二千年位前の作。
約三百六十年程前文禄三年頃小幡竹千代の乳母奉納、
梅雀文様銅鏡、約七百六十年前、鎌倉時代、
竹虎文様銅鏡、約五百年前、室町時代。
御神衣、六十余領残存、元和九年以来遷宮毎に新調奉納。
群馬県富岡市一之宮1535 神社公式 出典:玄松子の記憶
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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