2014年7月28日月曜日

日本語の特異性-「はじめ」と「おわり」-

 浦和レッズレディース
 古代史ブログ講座

 《古代史ブログ講座》古代日本語の成立過程

  講師:歴史研究家「金原 政敏」

  日本語の特異性-「はじめ」と「おわり」-

 <初>、<始>、<一>、<甫>、<創>などの漢字は、

 <ショ>、<シ>、<イチ>、<ホ>、<ソウ>などが原音なのに、

 日本語では全部「ハジメ」と「統一して読む」。

 それは文章が、ものごとの「はじめ」を意味しているからだから、

 訓読(和訓・日本読み)とは「翻訳した日本語の発音」なのである。

 同じ「はじめ」にもいろいろな種類があるので、

 中国語はそれを文字を変えて表現しているのに、

 日本語には「はじめ」だけしかないので、

 別の言葉をつけ加えて補っている。

 ① 国のはじめ   統治政権の誕生 found

 ② 事はじめ    年頭の儀式 open

 ③ はじめて見た  初見 first

 ④ はじめてみたが 開始したものの…どうも start

 ⑤ ○○はじめ   似たものの羅列 and

 ⑥ はじめまして  初対面の挨拶 I'am glad to see you.

 などは発音は全部同じ「はじめ」だが、内容は全部ちがう。

 中国語とは全く異なった発想の言語であることか簡単にわかるが、

 英語をみると、中国語同様の専用語がある。

 そしてこれは印欧語なのだから、

 もちろんインドの原語にもそれに対応する言葉がある。

 日本語のルーツにギリシャやインド語があるというは怪しく見え、

 孤立語だという説のほうが正しいように思える。

 なぜ?日本語は、こんなに特異な言葉なのか?…。

 「言語の土着性」の結果なのである。

 人が次々に移住してきても、土着している人の数が多いと、

 少数の外来者は、その土地の言葉を習って使い、

 次の世代になると親の言葉は話さずに

 周囲の土着している言葉を常用するようになる。

 世代が重なれば、土着者と外来者の言葉に差がなくなってしまうのは、

 今も世界中で普通に見るも無数の実例に満ちた動かぬ原則なのである。

 しかしこれは移住者の数が少ない場合に限られる。

 集団移住、または呼び寄せ、

 または縁故を頼って次々に移住者がやってくる場合などは、

 故郷の言葉はなくならず移住地でも使い続けられる。

 また土着者の文化が低くて語彙が少ない場合は、

 外来者が教えた新しい言葉が新たに加わって土着語に仲間入りする。

 またその外来文化が宗教のような指導力をもったものの場合は、

 その用語として逆に新しい言葉が教えこまれる。

 今、南九州語に濃厚にみられるパーリ語型の言語は、

 南九州の住民が全てパーリ語人だったわけではなく、

 渡来者の数は少なかったが、

 それが<仏教用語>だったために尊重され、

 教養として習熟していった結果、

 広く普及したと考える以外にない。

 これは現在のテレビという名などの、

 外来語と同じだと考えればよくわかるはずである。

 テレビという名は、それが普及した結果、

 それ以前は別の名で何と呼ばれていたのか、皆、忘れてしまっている。

 これと同じことが古代にもあったとすれば、

 ここで今問題にしている主題=「はじめ」が、

 なぜ?日本語ではいろいろに多用されて、印欧語や中国語と、

 なぜ?まるで異なった言語のように見えるのか、

 その理由もまた明かになる。

 それは、テレビという言葉が「便利なために」、

 他の名詞を征服してしまったのをみればわかるように、

 「はじめ」が新しくて便利な言葉だったからであって、

 決して土着していた先住民の言葉だったからではない。

 なぜ?便利だったか?

 それは出身地を問わず聞く者は意味がすぐわかったからである。

 多くの国々からの移住者が混住していたからテレビのような、

 どこの言葉でもない新しい共通語が求められた。

 「はじめ」という日本語が生まれたのは、

 そうした環境が出来上がっていた時代だとしないと、

 生まれる理由がみつからない。

 ではそれはいつか?

 都合のいいことに、この言葉にはちょうど反対の「逆語」がある。

 「はじめ」の逆語は「おわり」である。

 さらに都合のいいことに、

 この「おわり」はすでに、いつ、どこで、どんなにして生まれたか、」

 私(加治木義博)の他の著書で触れている。

 「おわり」の語源は「倭」である。

 卑弥呼当時の「倭」の字の発音は「ウワイ」である。

 それがこれまで、間違って「ワ」と発音されてきたのは、

 漢字の発音が唐代に「ワ」に変わった事実を、

 在来の日本史関係者が全然知らなかったからで、

 そんなことでは、倭人の謎が解けるはずがないことはご存じの通りである。

 「おわり」の語源もこのウワイにある。

 倭の正しい発音はウワイだという証拠は、

 7世紀に倭国が全面崩壊して「日本」に国号を変えた当時、

 倭が残した「二大遺跡=二つの飛鳥」のうち、

 大阪府下にある遠津飛鳥のほうにも残っている。

 『倭名類聚鈔』によるとそこは安宿郡と書かれ、

 これを安須加部(あすかべ)と発音するという説明がついている。

 アスカがアソカ王の名に因(ちな)んだ地名だということも、

 蘇我氏がそのアソカ氏であり、

 聖徳太子らを出した倭国天皇家だったが、

 大化改新後はアソカのアを取り去って

 ソカにされてしまったこともよくご存じだから、

 それがどういう意味で行なわれたのかをお話ししよう。

 アソカはパーリ語で、

 a ア は「不・無・反」などにあたる否定詞である。

 Soka ソカ は、「憂い、憂鬱、心配」だから、

 仏典では「無憂王」と訳してある。

 その、「無」を取れば、

 「憂鬱、心配」という縁起でもない悪い姓になる。

 蘇我氏は敗者の烙(やき)印を押されたのである。

 安宿郡は「賀美(かみ)」「尾張(おわり)」「資母(しも)」の

 3村に分けてある。

 かみは上、しもは下とすぐわかるから、

 そこをアソカ王の都として見ると、

 上は「お上」すなわち貴族や官僚の居住地域、

 下は下々(しもじも)の居住地域とすぐわかる。

 東京の山の手と下町だからである。

 すると真ん中の「尾張」は何を意味するのだろう?

 オワリは「終り」なら、村外(はず)れだとも考えられるが、

 それは上や下のほうにあるはずで、

 中心の、それも広い範囲が村外れということはない。

 これは「終り」ではない。

 正しい答は、やはりより高度な言語復元からしか得られない。

 それは倭国の故郷・南九州語の発音知識がなければ理解できないからだ。

 鹿児島語では「尾張」は「オワイ」と発音し、

 大隈語ではオワイは「ウワイ」と発音する。

 尾張と倭はどちらもウワイヘの当て字なのである。

 尾張とは、敗戦までは「倭」そのもの、

 倭王=倭国天皇の「都=宮居(みやこ)」があった地域を意味している。

 このことで『倭名類聚鈔』の当て字は、

 勝った側が文字を変えたものだったことがわかる。

 もとの「倭」の字のままではおきたくなかったので、

 わざわざ尾張に変えたのである。

 このことにはまだ証拠がある。

 それは上を「賀美(かみ)」、

 下を「資母(しも)」と発音していることである。

 大隅では上井(ウワイ)、

 聖徳太子は上宮(ウワノミヤ)で、上をカミとは発音しない。

 尾張をオワリと発音するのも、また倭国側の人たちではない。

 賀美、尾張、資母と当て字したのは日本国側の人たちだと、

 3つとも、はっきり証明しているのである。

 この尾張はご存じの通り愛知県の代表的地名になっている。

 尾張は織田信長、豊臣秀吉を出し、徳川幕府が

 御三家の一つとして尾張家を置いた中世の大国として、

 誰でも知っている国名である。

 言語復原史学が生まれない以前は、

 安宿郡に尾張という地名があるのをみても、

 「愛知県からの移住者があった証拠だ」といって威張っていた。

 しかしそれよりもさらに重要なのは、

 この尾張と「終り」という日本語が、同じ発音だという事実である。

 尾張の北隣りにある美濃の国と合わせて

 「美濃、尾張=身の終り」という

 洒落(しゃれ)言葉があるのでもわかる通り、

 その共通の発音を疑う者はない。

 その一致は、もっと重要な点にもある、

 発音だけでなく、その意味する内容もまた充分な歴史をもっている。

 それは国家が「終り」になったというショッキングな体験である。

 これも洒落ていえば

 「倭が尾張になった=倭国(ウワイ)が終りになった」のである。

 この一致は大隅語の「ウワイ」では本州で使われてきた

 標準的日本語「おわり」にはならないから、

 日本国誕生のときに、初めて生まれた日本語だということになる。

 すると「はじめ」の謎も解ける。

 「はじめ」は古来の土着語でも外来語でもなく、

 東西から移住してきた人たちの全てが、

 互いに使って、すぐ理解できる一種の標準語だから、

 それまで使われてきた

 多くの「はじめ」に当たる言葉を消し去ったのだと以前お話しした。

 それは明治以来の標準語教育で消え去った

 「いわゆる方言」がどれくらい多いか、

 また昔言葉がどれほど消えてしまったか、

 古い『方言辞典』や、『源氏物語』から

 幕未の『世話物小説』、

 明治から昭和前半の『文学本』を見れば一目瞭然である。

 「はじめ」という言葉が生まれた時期は、

 明治維新のような一種の革命によって、

 本州に中央政権が確立してから生まれたとみるのが正しい。

 もう少し考えれば、それは「終り」という、言葉が生まれたとき、

 同時に生まれた「対語」だったことまで理解できる。

 「終り(ゴール)」のあるものには

 必ず「はじめ(スタート)」があるのが鉄則だから、

 「終り」という言葉と、

 「はじめ」という言葉とは

 「同じもの」の出発点と終点から生まれたのでなければ、

 始めと終りという印象づけはできない。

 「終り」という新語を生んだものは「倭」だったのだから、

 「始め」も「倭」から生まれたことは動かないが、

 しかし「倭」は、どんな角度からみても

 「はじめ」という発音はもっていない。

 これは「倭は尾張になってしまった」という点に

 「終り」という意味を受け取った言葉なのだから、

 その「倭の始めは何だったか?」と考える必要があるのである。

 倭もはじめから倭だったのではない。

 「始めは○○○だったが、それが倭になった。

 そして今度は、その倭が終りになった」

 という「常識の裏付け」があったから、

 誰にもわかる新語として使うことができた「洒落言葉」なのだ。

 すると「はじめ」に相当するものが見えてくる。

 それは以前に繰返しお話しした倭人の後身が土師(はじ)氏であり、

 その姓のもとは長谷(はせ)・百済(はせ)だったという事実であり、

 その土師こそ「はじ」だから、

 残る「め」が何か?それを探せばいいことになる。

 「め」には二つ候補がある。

 女王国だったから「女(め)」だったとすれば「土師女」であり、

 「命(め)」だとすれば「長谷命=大長谷若建命=雄略天皇」が、

 初めて奈良県高市郡にはいって、

 倭国政権を奈良に築いた天皇=倭王・武に合うが、

 こちらは奈良語では「長谷命=はせめ」だし、「命」は敬語だから、

 雄略天皇を敗れ去った敵倭国政権の、

 憎むべき侵略者だと位置づけしている日本政権が選び、

 認めた言葉ではありえない。

 正解は当時の一般大衆にもよくわかる蔑称(べっ)の「土師女」が、

 「倭国の始祖=始め」だという常識以外にはありえない。

 雄略天皇の草香幡梭(くさかはたひ)姫皇后(仁徳天皇々女)が

 本当の支配者で、

 仏教尼僧だった長谷寺の主を指す「土師女」という人称代名詞が、

 奈良倭国の「はじめ」と一致する「はじめ」の語源だ、ということになる。

 これは奈良の倭国に限定した発想だから、少し狭いとすれば、

 当時は今以上に有名だった天照大御神=卑弥呼も

 また百済倭国の始祖として、「はじめ」と呼ばれるのに適している。

 この語源問題に答える当時の記録文献が見つからない限り、

 どちらとも決めかねるから、

 この両者のどちらかに「はじめ」の語源があるとしておくしかないが、

 それは細部にわたる第二義の疑問であって、

 語源を確定する仕事としては、

 「はじめ」と「おわり」という日本語は

 「倭国の始めと終り」から生まれたと、

 充分立証されていて崩れることはない。

 こんなことは、歴史の探求とは無関係で、

 それは言語学の仕事だと思い込んでいたのが、

 過去の史学界の常識だった。

 それは言語史料がなにものにも勝る史実を蓄えた

 文化財であることに全く気づかなかったからである。

 また仮に幾らか気づいたとしても、

 漢字音の時代差、言語の移動コース、

 それによる発音の変化、原語をつきとめるシステムなどに無知では、

 何の成果も挙がらないから、

 それ以上、深入りしようとする者がいなかったのである。

 こうして「はじめ」と「おわり」という、

 ありきたりの日本語の形容詞でさえ、

 研究すればこんなに重要な史実を、綿密に証言するものだとわかった。

 だとすれば、これまで多くの地名が、

 その原語から語源、それを運んできた人々のコース、時代、

 その移動の動機や原因などまで、

 詳しく教えてくれたのは当然だったのである。

 だとすれば、その研究はさらに精密化する必要がある。

 それはどんなことか?

 たとえば古代天皇たちの名乗りは、

 その勢力がどこで発生してどう進んできたか、

 という消長を物語る。

 それは複数の国名が、

 「過去」に発生した時から「その天皇の現在」に至る

 「歴史」をもっているからである。

 それは歴史の差によって次のような「証拠」を残す。

 ① 移動または逃亡 その地名は、元の土地には、そのままでは残らない。

 ② 分裂      その地名は、元の土地にも残り、

           別の土地にも同じ地名が分布する。

 ③ 拡大発展    その地名は、

           元の土地と連続した地域全域の名に拡大する。

 ④ 拡大移動    その地名は、元の土地にも残るが、

           移動先で大きくなる。

 ⑤ 大国化     その地名は、さらに大国化が進むと、

           その地名に文字が美化したりする。

            その支配下、に入った土地に、同じ地名がつけられる。
 などである。

 さらに精密にみると、

 ⑤の「大国化」では、同一地名が広範囲に分布する理由が加わる。

 それは地方官庁(代官所)の所在地に支配者の国名が使われるからである。

 この場合単一の統一国家しかなければ、その国名は同一になるか、

 わざわざ書く必要がないから省略される。

 国名によって支配権を示す手法がとられている場合には、

 独立・封建を問わず複数の国家が分立していたことの証拠として、

 重要な役割果たす。

 こう考えると、これまで個人の姓や、

 単なる地名として見向きもされず、放置されていたものにも、

 私たちの祖先の真の記録があることがわかる。

 それらの「歴史と共に働いた遺物である地名」を見つけ出し、

 さらにその地名分布の「流れ」の方向牲や、地名の「変形」の様子、

 またその変形に「法則性」はないか、

 といった科学的な観察と分析が必要である。

 こうしたことを実地に検討して始めて、

 地名から確実に史実が復元できるのである。

  ※ 出典:言語復原史学会・加治木義博:大学講義録26:17~26頁

 《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq) 
 Tell Arpachiyah (Iraq)     
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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