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『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―
「和人〔倭人〕の祖語哈尼族〔阿尼族〕の信仰は多神教」
≪哈尼族・阿尼族≫
哈尼[ハニ] 族
哈尼族の祖先は、南下した古代羌族だといわれる。
哀牢山などの山地に住み、見事な階段状の棚田を築きあげ、
農暦一○月または六月に迎える正月にはモチをつく。
西双版納の哈尼族は、有名な普洱茶を栽培している。
《哈尼族の生活地域》
哈尼族は人口一○五万八八三六(一九八二年の統計)、
雲南省中南部に居住し、
哀牢山と無量山の間の広々とした山地に集中的に分布している。
哀牢山にある元江、墨江、紅河、緑春、金平、元陽、江城などの県は
哈尼族が特に集中している地区で、
その数約七七万人、哈尼族全体の七六パーセントを占める。
無量山区の哈尼族は一○数万人で、
そのうち瀾滄に四万人、西双版納(シツソンバンナ)に
一○万一○○○余人が分布し、
その他の県にはあまり分布していない。
哈尼族は多くの自称をもち、
「哈尼(ハニ)」「卡多(カトウ)」「豪尼(ホニ)」「碧約(ピーヨー)」
「布都(プトオ)」「白宏(ポホ)」などを
自称する七つの集団の人数が比較的多い。
中国の史籍にみられる歴史的名称には、「和夷(ホイ)」「和蛮(ホマン)」
「和泥(ホニ)」「窩泥(ウオニ)」「阿尼(アニ)」「哈尼(ハニ)」等々がある。
新中国成立後は哈尼族に呼び名が統一された。
哈尼族の居住する山地は気候が温和で降水量も多く、
多種類の農作物の栽培に適している。
農作物は稲を中心とし、トウモロコシ、豆類、ソバ、小麦、粟などの
雑穀の栽培もひろくおこなわれている。
商品作物には茶、落花生、サトウキビ、棉花、藍、紫梗などがある。
そのうち墨江の紫腰(シエラツク)(寄生虫が分泌する一種の樹脂)と
西双版納南糯(ナンノウ)山に産する茶は、
国内外から高い評判を博している。
《哈尼族の歴史》
哈尼族の歴史は古く、他の彝語支の民族同様、
中国古代人を祖先としている。
史籍の記載によると、氐(てい)・羌(きょう)族は
もともとチべット高原で遊牧をおこなっていたが、
のちにだんだんと南へ移住して四川西南部や雲南北部などの
広大な地域に散らばり、
前三世紀頃になって哈尼族の祖先たちが
二つのルートに分かれて南へ向かった。
一つは昔の「和夷(ホイ)」であり、
四川西南部から昆明一帯を経て南へ向かい、
雲南東南部の六詔山地区にいたった。
もう一つは雲南西北部から南へ向かい、
大理湖岸の盆地を経て哀牢山地区と無量山地区に分かれて南下した。
唐・宋代、雲南東南部の六詔山地区に、
「和蛮(ホマン)」の集落があらわれ、
まず「南詔(なんしよう)」、ついで「大理」政権のもとに統轄された。
一三世紀中葉、
元王朝が「大理」政権を滅ぼし、諸「部」を統一して雲南行省を設置した。
元の憲宗六年(一二五六年)、阿棘 (アボ)万戸府をたて、
「県二、千戸一、州三を領し」、
現在の紅河州の大部分と文山州の一部を統轄した。
その後、今度は羅甸(らでん)に元江万戸府、思陀に和泥路を設置して
和泥(ホニ)の首領を土官(巻末注参照)とし、
それぞれ雲南行省に直属させた。
明のはじめ、雲南行中書省を雲南布政使司と改め、
少数民族の集居地区に宣慰司、宣撫司、按撫司、御夷州を設置した。
哀牢山和泥地区には相ついで各部長官司を設立し、
多くは土官がその任についた。
清王朝は改土帰流
(少数民族の土官を廃し、中央政府派遣の流官に改めること。巻末注参照)
を実行し、
哀牢山和泥地区では因遠羅必旬長官司を廃し元江州の管轄に属させた。
そして馬龍他郎甸長官司、紐丌(ちゆうごつ)長官司を他郎庁(墨江)と改め、
普洱(プアル)府に隷属させた。
(略……)
《暦と行事》
哈尼族の祝祭日は
伝統的な「十月年(シイユエニエン)」(十月正月)、
「六月年(リユウユエニエン)」(六月正月)のほか、
漢族の習慣にならって春節、端午節、中秋節も祝う。
紅河南岸および内地の吟尼族は一○月を年の始めとしているため、
「十月年」を「大年(ダアニエン)」(正月)と称している。
その期間は約半月だが、具体的な期日は各村落で異なり、前後にずれる。
条件のある人や富裕な家は、みな豚を殺し、
「杷杷(パアパア)」(モチ米などをこねて焼いた餅)をつき、
黄色のおこわを蒸して天地や祖先に供える。
人々は正月には盛装して親戚や友人を訪問し、求婚、婚約をおこなう。
前の年に嫁に行った娘たちが春節の期間もどってきて、
村の外の山林に集まり、
互いに自分たちの新婚生活を打ち明けあうのだが、
それを他の男女が盗み聞きすることは厳禁で、
もし見つかったらみんなから罰を受ける。
西双版納一帯の新年は時期がやや遅く、「夏托帕(ガトパ)」といわれ、
これは年を換えるという意味である。
「六月年」も楽しい祝日で、紅河地区では「苦紮紮(クチャチャ)」、
西双版納では「耶苦紮(イエクチャ)」という。
時期は一般に農暦の六月二四日前後で、期間は四日から六日である。
期間中は村単位で牛を殺して
「秋房(チユウフアン)」(供犠をおこなう場所)をまつり、
牛肉を各家々に分けて祖先をまつる。
青年たちは集いあって一緒にブランコ、レスリングや狩りを楽しみ、
山歌をうたって歌垣をおこなうなど、内容が豊富で多彩である。
西双版納地区では「六月年」の間、既婚未婚にかかわらず、
男女がみな自由に社交活動に参加でき、互いに干渉しない。
その他の地区では、この特殊な古い習俗は酒歌のなかに残されるのみである。
墨江などでは農暦の六月二四日に
火把節(フオパーチェ)(たいまつ祭り)を祝い、
日暮れかた各村々でたいまつを燃やすのだが、
火はめらめらと燃え上がり、空を赤く染める。
たいまつは高さ数丈で、
細く割いた松や竹を干してくくったものを用いるが、
たいまつの太さにはいろいろあり、
最大のものは直径五、六○センチにもなる。
たいまつによっては上に各種の果物をくくり、火が燃えて糸が切れ、
果物が落ちると、みんなで奪いあって遊ぶ。
老若男女がたいまつの周囲をかこみ、太鼓や銅鑼をたたいて伴奏し、
夜を徹して思う存分朝まで歌い、踊りつづける。
(略……)
「写真」“愛尼"の人々は、人が死ぬと、
米一椀、卵一個、茶の葉を持って死者に別れを告げに来る。
死者の家では、小さな豚を殺してその肝臓で占いをし、
大きな豚を殺してその肉を各戸に配り、村人への盛謝をあらわす。
村の男性は山にのぼり木を切って、死者のために棺をつくる。
棺を穴におさめたあと、棺の蓋を開け家族は最後の別れを告げる
《哈尼族の歴史》
「氐(てい)・羌(きょう)族」
「哈尼族の祝祭日」
「山歌をうたって歌垣」
「火把節」
「愛尼族」
「哈尼族・阿尼族」
「哈尼族の祖先は、南下した古代羌族だといわれる」
「哀牢山」
「階段状の棚田」
「西双版納の哈尼族は、有名な普洱茶を栽培している」
「哈尼族の生活地域」
「哀牢山と無量山」
「西双版納南糯(ナンノウ)山」
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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