Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
古代史獺祭
≪日光泉太郎と東山道≫
○「龍の子太郎」童話 松谷みよこ 絵 田代三善 講談社 1979年
”めぐりあったがかずかずの主人公の中で、
もっとも私の心をひきつけたのは、
信州に伝わる小泉小太郎の伝説だった。
昔、信州にはまんまんと水を湛えた湖があった。
龍の子である小泉小太郎はこの湖の水を落として田んぼを拓こうと、
ある日母龍の背中に乗って山を切り拓き、遠い北の国へ流した。
このとき現れたのが松本・安曇の両平野で、
流れ出た川が犀川だという。”(あとがき)
○「小泉小太郎」:「日本の民話10.信濃・越中扁
<「信濃の民話編集委員会編>昭和51年(1976年)未来社
母の名「犀龍」
(附記)このお話は筑摩の星におさめましたが、
各地にいろいろな形となっている伝説でず。
所によっては白龍太郎とも泉小太郎ともよばれています。
南安曇、北安曇、東筑摩、小県の各部にのこっているお話をまとめ、
小県郡丸子町の黒坂周平先生や塩田町の宮島博敏さんのお話も参考にして、
これを一つの物語にしました。
再話 瀬川拓男
「小太郎、この山をきりひらくことは大変なことです。
母さんは満身の力をこめて、あの山にぶつかります。
しかし、そのために目がくらんで方向をあやまるかもしれない。
お前はしっかり母さんにつかまって、
私の目がくらんだらさしずしておくれ。
それからどんなことがあっても、
途中で泣いたり、やめようなどといってはいけませんよ。」
―
「それでは今夜からはじめます。
山をきりくずすまで何日かかるかしれないけれど、
お前と力をあわせて、
この湖の水を遠い北の国までみちびくのです。」
○「善光寺道名所図会」
豊田利忠(庸園)が天保元年(1830)と翌年に
中山道洗場宿から善光寺町まで
実地に旅行し、踏査を行なった記録を著した。
牛:ゴ (Sk.)go)(牛頭・ゴズ)
そもそも柳当寺<牛伏寺>は、往昔寺号なし。
伝聞人皇十二代景行天皇十二年の頃、湖たりし時、
鉢伏山上の権現化して男子の形を現じ、又法然の薩埵(つた)も化して
女子の形を現じ、終に結婚を成し、琴瑟(きんしつ)の情、
歳を重ねて熊罷に合ひ、男子を誕む。
其成人、天姿操行にして能く農人を憫む。世俗此人を泉の長者といへり。
一説に健南方刀美命或は武南方富命則諏訪大明神の化身なりと。
唯海川水流に自在を得て漂泛たり。
時に七月七日、尾入沢に至り不測の犀龍に逢ふ。
犀龍曰、子若我に乗らは、湖水を北海に能く注かんと。
即犀龍に乗て、水内といふ所の滝を渉る。
七日七夜の中に、湖水を北海に泗(そそ)ぐこと言の如し。
今の犀川、是なり。夫より淑(やは)らぐ田畑を開く。………
○「泉小太郎の伝説」(「牛伏寺」昭和58年)
川合・水内・河内(栃木県日光)
その昔、松本平が一面の湖水であったと伝えられる。
それを切り拓いて沃野としたという伝説の主人公が、泉小太郎である。
父は白龍王・母は犀龍といわれる。
小太郎は鉢伏山で産まれ
(一説には中山地区和泉の産ヶ坂という)成長がしたが、
後に松本城山の放光寺辺で成人したとも伝えられる。
母の犀龍を訪ねて尾入沢という所でまぐり逢う。
そこで母は諏訪明神の化身であったことを知る。
やがて母の犀龍の背に乗り山清路の狭まる所の巨岩を突き破り
水内の峡谷から水を越後の大海に落として沃野、
松本平を造成したという。
その後、小太郎は川合(わたらい)に於いて
白龍王、犀龍と会い仏崎(北安曇郡)の岩穴に入った。
川合(わたらい)神社、仏崎の観音は小太郎を祭るという。
小太郎の父は実は太陽神であったともいう。
また「泉の長者」というのは「善光寺道名所図会」にも見えるが、
小太郎のことであるという。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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