2014年10月28日火曜日

文明とは文化である


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 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 歴史研究家「小嶋 秋彦」:2014/09/25

 ≪文明とは文化である≫

 国民国家=市民国家:日本の市民はいつ育ったか

  文明とは文化である。

  つまり日常的な生活感を基礎としている。

  Culture(文明) is culture(文化).

  Civilization(文明)とは「市民化」「国民化」した人々の文化である。

  実際法治の下、秩序を遵守して職業に務む人々の構成する集団が

 存在する事実によって与えられる用語である。

  よって Chinese culture あっても Chinese civilization は

 未だありえないのである。

  「人民」とは people でただの「万民」「人々」「蒼生」の語義で、

 構成員である「個人」は「市民」・civil/citizen とは

 なっていないのである。

  サミエル・ハンチントンの「文明の衝突」とは

 すなわち「文化の衝突」ということである。

  また「生活感の衝突」でもある。

  日本においては16世紀末から徳川幕府の間、

 戦国時代は動的な国家・国民改革を、

 徳川時代には静的な(読み、書き、そろばん)改革を行い、

 市民を育んできた。

  よって明治維新においては

 支配機構の変革が最重要課題であって、

 市民(国民)のあり方についての変更を

 主題とするものではなかった。

 すでに幕末に至る時、

 日本国民は法の下に安定した生活ができる

 社会制度を獲得していたのである。
 
  といっても武士を政治的支配者とする封建制度である限り

 一般民は表面立った政治参加は許されていなかったが、

 村落における行政は庄屋を先頭にかなり許され、

 各藩[国]の自治は藩主の名において許されていたのである。

  幕府が監視している状況ではあったが、

 いちいち幕府に伺いを立てる項目は決められており、

 それ以外は自己採決采配ができたのである。

  その面を考慮すると

 17世紀・18世紀にはヨーロッパ諸国よりも

 社会的文化度は高かったとさえ言えるのである。

  選挙による政治参加はないが、

 すでに市民化が進められていたのである。

  市民が選挙によって政治に参加する社会を近代国家とすれば、

 明治維新後、「五ヶ条の御誓文」を無視した

 岩倉具視、三條実美などの公家、

 木戸光允、伊藤博文、大久保利通など

 藩閥政治を維持したい勢力の政変による権力掌握は、

 さらに天皇を「皇帝」に改造したいがために、

 市民が政治に参加できる制度への移行は民権運動という

 反国威拡張勢力への反発を経て

 民選議会の創設でその初めとなった。

  ここに政治支配面における近代国家は始まったというべきだが、

 しかし、日本の市民国家はすでに17世紀に始まっていたのである。

 それに比べ21世紀の初頭においても

 中国・朝鮮は人民の国に留まり、

 未だ市民国家を成立させ得ないでいる。

  孫文が「三民主義」で説いた

 「中国人がいちばん崇拝するのは家族主義と宗族主義とである。

  それで中国には家族主義と宗族主義があるだけで、

  国家主義はありません」

 と言った状態は今も変わっていないのである。

 唯一台湾だけが「国家」を成立させた。

  台湾においては日本の統治時代における政治・教育などにより

 市民が育ってきていたからである。

  人民革命を繰返している限り市民国家は誕生し得ない。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
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2014年10月27日月曜日

冊封:封建


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 ≪冊封:封建≫

 ※出典:日本経済新聞・2013年(平成25年)2月11日

 『新紛争地図』

   「中国・モンゴル、越境放牧巡り溝」

   「カシミヤヤギ、草原を荒らす」

  高級な天然素材、カシミヤウールの生産を巡り

 中国とモンゴルの摩擦が高まっている。

 両国の国境地帯は世界最大のカシミヤ原産地。

 かっては白毛の中国ヤギ、茶毛のモンゴルヤギが

 国境を挟んで共存していたが、中国のヤギが増えすぎ、

 無断で国境を越えてモンゴル側の草を

 食べ始めたことから緊張関係に変った。

  「こちらに入れてはいけない!」。

 馬に乗ったモンゴル国境警備隊が

 カシミヤヤギを連れた中国の農家に向って叫ぶ。

  万里の長城の建設に象徴されるように、

 中国とモンゴルの国境は有史以来、常に火種を抱えてきたが、

 いま国境警備隊の最大の任務は越境する家畜の取り締まりだ。

  カシミヤヤギは「草原のハイヒール集団」と呼ばれるほど

 ひづめが鋭く、群れが通った後の草原は荒れ地同然。

 草の食べ方も荒い。

 ラクダが草の上部だけを優しく噛(か)むのに対し、

 カシミヤヤギは根こそぎむさぼる。

  中国北部の内モンゴル自治区は世界シェア50%のトップ生産地。

 常にイタリアのバイヤーでにぎわう。

 ヤギが増えすぎ、

 上空をヘリで飛ぶと、

 緑色のモンゴルと茶色の中国が対照をなすようになった。

  「中国カシミヤの最も深刻な課題は砂漠化だ」と

 業界団体、中国食品土畜輸出入商会の田泓主任はいう。

 中国政府は放牧禁止地区を設置するなど

 年々規制を強めている。

 国境地帯に壁や柵はなく、

 中国で放牧できなくなった農家はすきさえあれば

 ヤギを連れて越境しモンゴルで放牧する。

  モンゴル側の危機感は強い。

 国土の90%が乾燥地帯で、

 国土管理を間違えば砂漠化が待っている。

 モンゴル政府は土地荒廃を防ぐため監視を強化したり、

 家畜税を導入したりしているが、
 
 中国からの越境放牧はこうした努力の効果を薄めかねない。

  かってモンゴルは中国からの越境を容認していた。

 「ヤギや牛を2~3日単位で受け入れていた」と

 モンゴル国境警備隊事務局の当局者は語る。

  だが利益率の良さにひかれ、

 カシミヤヤギを飼う農家がモンゴル側でも相次ぎ、

  中国のカシミヤ輸出は年間1千億円を上回る。

 ヤギに十分な草を与えられなければウールの品質は落ちる。
 
 中国農家も真剣だ。

 モンゴルの国境警備隊と中国のカシミヤヤギとのにらみ合いは続く。

 (北京=森安健)

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
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2014年10月26日日曜日

文明の衝突②


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 《参考:年表・資料》

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 ≪サミエル・ハンチントン「文明の衝突」の"日本文明"と"中国文明"≫
 
 ※出典:文明の衝突・サミエル・ハンチントン・集英社59~63頁

  さて、西欧文明にはヨーロッパや北アメリカのほかに

 オーストラリアやニュージランドなど

 ヨーロッパからの移住者からなる国が含まれる。

 しかし、西欧文明を構成する二大要素である

 ヨーロッパとアメリカの相互関係は、

 時代の流れとともに変化してきた。

 アメリカ人はその歴史の大半を通じて、

 自分達の社会をヨーロッパとは反対のものと定義してきた。

 アメリカの土地には自由と平等がと機会と未来があった。

 ヨーロッパは抑圧と階級闘争、階層、退化の象徴であった。

 アメリカの文明は独特だという議論さえあった。

 アメリカとヨーロッパを対極におく考え方が生まれたのは、

 少なくとも19世紀末以前のアメリカは

 非西欧文明との接触がごくかぎられていたためである。

 ところが合衆国が世界の舞台に立つようになると、

 ヨーロッパとのより幅広い一体感が新たに生まれた。
 
 19世紀には、アメリカはみずからをヨーロッパと異なり、

 対峙していると定義していたが、20世紀になると、

 アメリカはみずからをヨーロッパを含む
 
 西欧という広範なまとまりの一部であるとし、
 
 じつにそのリーダーとみずからを定義するようになった。

  「西洋」という言葉はいまや多用され、

 西側キリスト教圏と呼ばれてい世界をさすようになった。

 したがって、

 西洋文明は特定の民族や宗教あるいは地理的な場所の名前ではなく、

 羅針盤の方位で認識される唯一のぶんめいである。

 この認識のしかたによって、

 西洋文明はその歴史的、地理的、文化的な背後関係と

 切り離されている。

 歴史的に見れば、西洋文明はヨーロッパ文明である。

 近代では西洋文明と言えば欧米あるいは北大西洋文明である。

 ヨーロッパ、アメリカ、北大西洋は地図に存在するが、

 西洋という場所は見つからない。

 「西洋」という呼び方から「洋風化」という概念が生まれ、

 洋風化と近代化を混同させて誤解を招くようになった。

 日本が「洋風化」とするほうが「欧米化」するよりも想像しやすい。

 しかし、欧米文明は一般に西洋文明と呼ばれるので、

 重大な欠点はあるが、

 本書では西洋文明という言葉を使うことにする

 (訳注-日本では一般に西洋よりも西欧がよく使われており、

  この文明の起源をあらわすにも適切だと考えられるので、

  本書では西欧と統一した)。
 
 『アフリカ文明』(存在すると考えた場合)

  ブローデルを例外として、

 主要な文明研究者のほとんどは 

 明確なアフリカ文明というものを認めていない。

 アフリカ大陸の北部と

 その東岸はイスラム文明に属している。

 歴史的には、エチオピアが独自の文明を構成していた。

 それ以外の場所には、

 ヨーロッパの帝国主義と植民地政策によって、
 
 西欧文明の要素がもたらされた。

 南アフリカでは、オランダ人とフランス人、

 やがてイギリス人の入植者が

 非常に断片的なヨーロッパ文化をつくりだした。

 最も重要なのは、ヨーロッパの帝国主義が

 大陸のサハラ以南のほとんどの地域に

 キリスト教をもたらしたことである。

 アフリカ中で部族ごとの

 強烈なアイデンティティが幅を利かせているが、

 アフリカ人としてのアイデンティティも次第に発達しつつあり、

 おそらくは南アフリカを中核国家として

 サハラ以南のアフリカが固有の文明に

 まとまる可能性が考えられる。

  宗教は文明を規定する中心的な特徴でであり、

 クリストファー・ドーソンが言うように、

 「偉大な宗教は偉大な文明を支える基礎である」。

 ウェーバーの言う5つの「世界的な宗教」のうち、

 4つ―キリスト教、イスラム教、シンドゥー教、儒教―

 は主な文明と結びついている。

 5番目の仏教はそうではない。

 なぜだろうか?

 イスラム教やキリスト教と同じように、

 仏教は初期の段階で大きく2つに分かれた。

 そして、キリスト教と同じように、

 それは発祥の地では生き延びることができなかった。

 西暦1世紀に始まった大乗仏教は中国へ伝えられ、

 ついで朝鮮、ヴェトナム、日本へと伝えられた。

 これらの社会ではさまざまに適応し、

 その土地の文化(たとえば、中国では儒教や道教)に同化して、

 抑圧された。

 そのため、

 これらの社会は仏教を文化の重要な

 構成要素としているにもかかわらず、

 仏教文明に属さないし、

 みずからその一部だと認識しようとしない。

 しかし、小乗仏教文明と言っても間違いないものが

 スリランカ、ミャンマー、タイ、ラオス、カンボジアには

 存在している。

 さらにチベットやモンゴル、ブータンの住民の歴史を見ると

 大乗仏教の一派であるラマ教を信じてきた。

 これらの社会は仏教文明の第二地域をなしている。

 だが全般的に、インドで仏教がほとんど滅びていることや、

 中国や日本では既存の文化に順応して

 組み込まれていることなどから、

 仏教は主要…以下略…

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハラフ期の土器について
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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年10月22日水曜日

文明の衝突①


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 ≪サミエル・ハンチントン「文明の衝突」の"日本文明"と"中国文明"≫
 
 ※出典:文明の衝突・サミエル・ハンチントン・集英社59~63頁
 
 『中国文明』

 すべての学者が認めていることだが、

 さかのぼること少なくとも紀元前1500年に、

 そしておそらくはその1000年前から

 1つの明確な中国文明が存在していたか、

 あるいは2つの文明があって、

 西暦の最初の数世紀のあいだに

 片方がもう一方を継承したと考えられている。

 『フォーリン・アフェアーズ』誌の論文で、

 私はこの文明を儒教文明と名付けた。

 しかし、

 中華文明といういう言葉を使うほうがもっと正確ではある。

 儒教は中国文明の重要な要素ではあるが、

 中国文明の要素は儒教だけにとどまらないし、

 政治的なまとまりとしての中国を超越している。

 中華文明という言葉は大勢の学者によって使われてきたが、

 これは中国はもちろん、

 東南アジアなど中国以外の土地の中国人社会の共通文化、

 さらにはヴェトナムや朝鮮の関連する文化を適切に表現している。

 『日本文明』

 一部の学者は日本の文化と中国の文化を

 極東文明という見出しでひとくくりにしている。

 だが、ほとんどの学者はそうせずに、

 日本を固有の文明と認識し、

 中国文明から派生して西暦100年ないし400年の時期に

 あらわれたと見ている。

 『ヒンドゥー文明』

 インド亜大陸には少なくとも紀元前1500年ごろから

 1つまたはそれ以上の文明が存在したと広く認められている。

 それらは一般にインド文明もしくはヒンドゥー文明と言われ、

 最近の文明をさす場合にはヒンドゥーという言葉が使われている。

 紀元前2000年以降、

 ヒンドゥー教はいろいろなかたちで亜大陸の文化の中心だった。

 「宗教あるいは社会の制度にとどまらず、

  それはインド文明の核である」。

 ヒンドゥー教は近代以降もずっとその役割を担いつづけてきたが、

 インド自体には強固なイスラム社会や小さな文化的少数グループなどが

 いくつも根をおろしている。

 中華文明と同じように、

 ヒンドゥーという言葉も文明の名称を

 その中核国家の名称と切り離すことができ、

 この2つの例のようにその文明に属する文化が

 広がっている場合には適切である。

 『イスラム文明』

 主要な学者はみな固有のイスラム文明の存在を認めている。

 西暦7世紀にアラビア半島に端を発して、

 イスラム教は急速に北アフリカ、イベリア半島、

 さらには東の中央アジア、インド亜大陸、東南アジアへと広がっていった。

 その結果、イスラム文明のなかには、アラビア、トルコ、ペルシア、

 マレーなど数多くの異なる文化、すなわち下位文明が存在する。

 『西欧文明』

 西欧文明はふつう西暦700年ないし800にあらわれたとされる。

 一般に学者たちは、そこにヨーロッパ、北アメリカ、ラテンアメリカの

 3つの主要な構成要素があると見ている。

 『ロシア正教会文明』

 一部の学者は、ロシアを中心とし、

 ビザンティン文明を親とする正教会文明を

 西欧のキリスト教文明とは異なる別個の文明であると区別している。

 明らかに異なった宗教をもち、

 200年にわたるトルコの支配と官僚専制主義を特徴とするうえ、

 ルネサンス、宗教改革、啓蒙思想など西欧の根幹をなす

 歴史的経験からはごく限られた影響しか受けていないからである。

 『ラテンアメリカ文明』

 ラテンアメリカ文明は西欧文明とははっきり区別される

 独自性をもっている。

 ヨーロッパ文明から生まれたにもかかわらず、

 ラテンアメリカ文明はヨーロッパや北アメリカの文明とは

 異なる道をたどって発展した。

 この文明は協調組合主義的で権威主義的な文化を有するが、

 この特徴はヨーロッパ文明にはあまり見られないし、

 北米にいたってはまったく存在しない。

 ヨーロッパと北アメリカはともに宗教改革の影響を受けて、

 カトリックの文化とプロテスタントの文化を組み合わせてきた。

 今後変わっていく可能性もあるが、

 歴史的に見てラテンアメリカはカトリック一辺倒だった。

 ラテンアメリカ文明は土着の文化と混じりあっているが、

 ヨーロッパには土着文化というものが存在しなかったし、

 北アメリカでは土着文化は事実上抹殺されてしまった。

 ラテンアメリカの場合、

 一方のメキシコ、中央アメリカ、ペルー、ボリビアと、

 もう一方のアルゼンチン、チリでは土着文化の重要性が異なる。

 ラテンアメリカの政治的変化と経済の発展は

 北大西洋諸国に共通するパターンと大きく異なっている。

 主観的に見た場合、ラテンアメリカ人自身の自己認識はさまざまである。

 「そう、われわれは西欧の一部です」と言う人もいれば、

 「いや、われわれには独自の文化がある」と主張する人もいて、

 ラテンアメリカ人や北アメリカ人が著した膨大な文献には、

 彼我の文化のちがいがことこまかに記されている。

 ラテンアメリカ文明は西欧文明の下位文明とも考えられるし、

 あるいは西欧と密接にかかわる別個の文明だとも考えられ、

 西欧に属するかどうかが判断の分かれところである。

 一方でラテンアメリカとの関係、

 また一方で北アメリカやヨーロッパとの関係を含めて、

 文明のもつ国際政治上の意味あいに焦点をしぼった分析には、

 後者の考え方のほうが適切で便利である。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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 Tell Arpachiyah (Iraq)
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 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
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2014年10月19日日曜日

五穀の起原・保食神の死


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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 ≪古事記≫五穀の起原

 ※出典:≪古事記≫天照大神と須佐之男命5五穀の起原

 (原文)

 又食物乞大氣都比賣神 

 爾大氣都比賣 自鼻口及尻 種種味物取出而

 種種作具而進時 速須佐之男命立伺其態 

 爲穢汚而奉進 乃殺其大宜津比賣神 

 故所殺神於身生物者 於頭生蠶

 於二目生稻種 於二耳生粟

 於鼻生小豆 於陰生麥 

 於尻生大豆 

 故是神産巣日御祖命 令取茲 成種

 (読み下し文)

 又、食物(くらいもの)を大氣都比賣(おおげつひめ)の神に乞いき。

 爾くして大氣都比賣、鼻、口、と尻より

 種種(くさぐさ)の味物(うましもの)を取り出だして、

 種種に作り具えて進(たてまつ)る時に、

 速須佐之男の命、其の態(わざ)を立ち伺い、

 穢汚(けが)して奉進(たてまつ)ると爲(おも)いて

 乃ち其の大宜津比賣の神を殺しき。

 故、殺されし神の身に生りし物は、頭に蠶(こ)生(な)り、

 二つの目には稻種(いなだね)生り、二つの耳には粟(あわ)生り、

 鼻に小豆(あづき)生り、陰(ほと)に麥(むぎ)生り、

 尻に大豆(まめ)生りき。

 故、是に神産巣日御祖(かむむすひみおや)の命、

 茲(こ)の成れる種を取らしめき。

 
 ≪日本書紀≫保食神の死

 ※出典:【日本書紀 卷第一 第五段 一書第十一 原文】

 (原文)

 一書曰

 伊奘諾尊

 勅任三子曰

 天照大神者 可以御高天之原也 

 月夜見尊者 可以配日而知天事也

 素戔嗚尊者 可以御滄海之原也

 既而天照大神 在於天上曰

 聞葦原中國有保食神 宜爾月夜見尊 就候之 

 月夜見尊 受勅而降 已到于保食神許

 保食神 乃廻首嚮國 則自口出飯 

 又嚮海 則鰭廣鰭狹亦自口出 

 又嚮山 則毛麁毛柔亦自口出

 夫品物悉備 貯之百机而饗之 

 是時 月夜見尊 忿然作色曰

 穢哉 鄙矣 寧可以口吐之物 敢養我乎

 廼抜劒撃殺 然後 復命 具言其事 

 時天照大神 怒甚之曰

 汝是惡神 不須相見

 乃與月夜見尊 一日一夜 隔離而住

 是後 天照大神 復遣天熊人往看之 

 是時 保食神實已死矣

 唯有其神之頂 

 化爲牛馬 

 顱上生粟 

 眉上生 

 眼中生稗 

 腹中生稻 

 陰生麥及大小豆 

 天熊人悉取持去而奉進之

 于時 天照大神喜之曰

 是物者 則顯見蒼生 可食而活之也

 乃以粟稗麥豆 爲陸田種子 以稻爲水田種子

 又因定天邑君

 即以其稻種 始殖于天狹田長田

 其秋垂穎 八握莫莫然 甚快也

 又口裏含 便得抽絲

 自此始有養蠶之道焉

 保食神 

 此云宇氣母知能加微 

 顯見蒼生 

 此云宇都志枳阿烏比等久佐

 (読み下し文)

 一書に曰く、

 伊奘諾尊(いざなぎのみこと)、

 三はしらの子(みこ)に勅任(ことよさ)して曰く、

 「天照大神(あまてらすおおみかみ)は、

  以ちて高天之原(たかあまのはら)を御(しら)すべし。

  月夜見尊(つくよみのみこと)は

  以ちて日に配(なら)べて天(あめ)の事を知らすべし。

  素戔嗚尊(すさのおのみこと)は

  以ちて滄海之原(あおあまのはら)を御すべし」。

 既にして天照大神、天(あめ)の上に在りて曰く、

 「葦原中國(あしはらのなかつくに)に

  保食神(うけもちのかみ)有りと聞く。

  爾(いまし)月夜見尊、就(ゆ)きて候(み)るべし」。

 月夜見尊、勅(みことのり)を受けて降り、

 已に保食神の許(もと)に到る。

 保食神、乃(すなわ)ち首(こうべ)を廻(めぐら)して

 國に嚮(むか)わば、則(すなわ)ち口より飯(いい)出(い)ず。

 又、海に嚮わば、則ち鰭廣(はたのひろもの)・鰭狹(はたのさもの)、

 亦、口より出ず。

 又、山に嚮わば、則ち毛麁(けのあらもの)・毛柔(けのにこもの)、

 亦、口より出ず。 夫(そ)の品物(くさぐさのもの)を悉く備えて、

 百机(もものつくえ)に貯えて饗(みあえ)す。

 是の時に、月夜見尊、忿然(いかり)て色を作(な)して曰く、

 「穢哉(きたなきかな)。鄙矣(いやしきかな)。

  寧(いずくに)ぞ口より吐(たぐ)れる物を以ちて、

  敢(あえ)て我を養うべきか」。

 廼(すなわ)ち劒(つるぎ)を抜きて撃ちて殺しき。 

 然(しか)して後に復命(かえりごともう)して、

 具(つぶさ)に其の事を言いき。 

 時に天照大神、甚(はなは)だ怒りて曰く、

 「汝は是(これ)惡しき神なり。相い見るまじ」。

 乃ち月夜見尊と一日(ひとひ)・一夜(ひとよ)を隔て離れて住みき。

 是の後に天照大神、復た天熊人(あめのくまひと)を

 遣(つかわ)して往きて看さしめき。

 是の時に、保食神、實(まこと)に已に死にき。

 唯、其の神の頂(こうべ)に 牛・馬化爲(な)り、

 顱(ひたい)の上に粟(あわ)生(お)い、

 眉の上に(かいこ)生い、

 眼の中に稗(ひえ)生い、

 腹の中に稻生い、

 陰(ほと)に麥及び大小豆(まめあずき)生いて有り。

 天熊人、悉く取り持ち去りて奉進(たてまつ)る。

 時に、天照大神、喜びて曰く、

 「是の物は、則ち顯見蒼生(うつしきあおひとくさ)の

  食(くら)いて活(い)くべき也」。

 乃ち粟・稗・麥・豆を以ちて陸田種子(はたけつもの)と爲し、

 稻を以ちて水田種子(たなつもの)と爲す。

 又、因りて天邑君(あまのむらきみ)を定めき。

 即ち其の稻種(いなだね)を以ちて、

 始めて天狹田・長田(あめのさた・おさだ)に殖えき。

 其の秋の垂穎(たりほ)、八握(やつか)に莫莫然(しな)いて、

 甚だ快(こころよ)し。

 又、口の裏に(かいこ)を含みて、

 便(すなわ)ち絲(いと)抽(ひ)くを得たり。

 此より始めて蠶(こ)を養(か)う道有り。

 『保食神』、

 此を宇(う)氣(け)母(も)知(ち)能(の)加(か)微(み)と云う。

 『顯見蒼生』、

 此を宇(う)都(つ)志(し)枳(き)阿(あ)烏(お)

 比(ひ)等(と)久(く)佐(さ)と云う。

 ≪参考≫

 (古代史獺祭 : こだいし だっさい)

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2014年10月15日水曜日

謎の西南シルクロード:火把節


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 「和人〔倭人〕の祖語哈尼族〔阿尼族〕の信仰は多神教」

 ≪謎の西南シルクロード:火把節≫

 『火把節』

 (……略)

 ◆ 火把節の夜は、同時に若者の天下である。

   はなやかな服装をした娘たちは、思う存分歌ったり踊ったりする。

   それを機会に、青年たちは一生懸命に目を凝らしている。

   いざ好きな娘を見つけたら、

   その踊りの列に飛び込んでモーションをかけるのである。

   もし男女ともお互いに気に人れば、

   二人は静かで落ち着いた場所に移り、

   そこでアダムとイブの物語を展開させていくことになる。

 ◆ 火把節にはもう一つ、伝統的な行事が行われる。

   ―それは一種の美人コンテストである。

   このような催事は特に、

   西洋工業文明国の独創のように思われているが、

   実は古くから涼山でも続けられてきたのである。

   審査委員会を構成するのは、各部族の信頼できる首領たちである。

   そして審査の基準といったら、

   ドクター課程の試験よりも難しいかと思える。

   容姿にすぐれ、体格美しく、品あり、

   そして優雅でなければならない。

   しかも歌えて、踊り上手。

   さらに応待がうまく、葬族の歴史、伝説、家譜、ことわざに通じる。

   そのほかに、彝族の属する家族や親類の地位も重視される。

   また、人間と霊との精神をつなげる占い師の発言も、

   審査においていっそう大事にされるのである。

 ◆ 勿論、火把節では相撲、闘牛、競馬もやる。

   それら競技の中で、男性の雄々 しい美しさが示される。

   女性の場合は、普段の貯金を全部晴れ着に使ってしまう。

   もしかしたら満足のいく男性を、
 
   夫にするかも知れない胸の高鳴りを秘めて、

   彼女らはいつもより浮き浮きしている。

   グランドの周囲や、地形の高い所に立ち、

   できるだけ人々の目を引くようにする。

   彼女らにとって、

   見物に来るよりむしろ自分を宣伝することが目的である。

   彝族の娘の服装は皆手作りである。

   服装は単に家族の貧富を表現するばかりでなく、

   本人の巧みな技術をも披露できる。

   ただし、後者の方が相手を選ぶ上では、

   かなり重要なウエイトを占めるそうである。

   火把節に参加する娘は、よく黄色い傘をさす。

   その傘は雨を防ぐものではなく、

   また日傘として使用するものでもない。

   実は、異性に暗号を送る道具なのである。

   さし方、まわし方、にぎり方にそれぞれ意味がある。

   ともかく意向表明や、相方に対し、

   自分のイメージを伝えるためのものである。

   いわばコミュニケーションの道具である。
 
   したがって、好みの男性に巡り合わない娘は、

   いつまでも黄色い傘をさしたまま、

   目立っ場所を行ったり来たりしている。

 ◆ 火把節を行う民族は少なくない。

   およそ氏羌部落の子孫となる各民族が、ほとんどこの風習・習慣を守る。

   ところが、その方式も厳かな程度も、

   各地にいる葬族の各支系によって異なる。

   現在の西昌の火把節には

   「原始のにおい」というものがほとんどなくなってしまっている。

   そういえば以前にテレビ局の後援もあって、

   わざわざ組織された普格、楚雄の火把節のありさまも、

   原始的な神秘さに欠けていた。

   そこで今も神秘的な火把節を行っているといわれる部族、

   例えば、涼山彝族の中心部、

   いわゆる「純粋な彝区」といわれる布施圏での火把節を紹介してみよう。

   T字形の長い街道には、周辺の村々から来た人々で満ちている。

   しかし、輪になって酒を飲む男たちが、たまに高い声を出さないかぎり、

   人で一杯に埋まってしまった町全体は、かえってひっそりとしていた。

   もう一つ変わったことがある。

   晴れ着の娘たちは、ぼんやりと街頭にすわるか、

   または、静かに群衆の中に紛れて立ち去る。

   彼女らの歩く姿も不思議に思う。

   上半身と両腕が何とちっとも動かない、顔にも表情一つなく、

   ただ足どりだけが軽快に進む。

   それはあたかも一片の雲が、ふんわりと通りすぎるようである。

   もしくはどこからともなく、茫然とただよう精霊のようでもある。

 (略……)

 「写真」お祭りで松明を手にした彝族の娘

 「写真」歌ったリ踊ったりする若い男女、

     火把節は好きな人と出合える一番いい機会

 ※出典:謎の西南シルクロード
     著者名:鄧廷良 著 王矛・王敏 編訳
     出版元:原書房
     46~47頁
     Ⅳ 古くて神秘的な西南シルクロード

 「謎の西南シルクロード」
 「謎の西南シルクロード」
 「古くて神秘的な西南シルクロード」
 「古くて神秘的な西南シルクロード」
 『火把節』
 『火把節』
 「氏羌部落」
 「氏羌部落」
 「彝族」
 「彝族」
 「西昌の火把節」
 「西昌の火把節」
 「お祭りで松明を手にした彝族の娘」
 「お祭りで松明を手にした彝族の娘」

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 


 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ 

哈尼・阿尼族の祭事:耶枯扎(ye ku zha)


 浦和レッズレディース
 Matのジオログ
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》

 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 「和人〔倭人〕の祖語哈尼族〔阿尼族〕の信仰は多神教」

 ≪哈尼・阿尼族の祭事:耶枯扎(ye ku zha)≫

 出典:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 耶枯扎(ye ku zha)=火把節フォファチェ(huo ba jie):

 「松明まつり」=川崎

   川崎(越谷市北川崎、八潮市南川崎、三郷市花和田)

 「耶枯扎」=耶枯・耶枯阿培楼

  耶枯扎(ye ku zha)
 
   伊草(八潮市)松ノ木=mut(の)火(thi)、松江(草加市)mut-火(huo)

   谷口やぐち(三郷市)栄/酒井・境木:「酒火」(たいまつ)

   矢古田(郷) 江戸時代の北足立郡の郷名

 「耶枯」(ye ku )

   矢古宇(村) 江戸時代の北足立郡の村名
  
   矢古宇郷 鎌倉期からみえる郷名 草加市

   伊興「吾妻鑑」伊古宇氏 足立区北部伊興遺跡(祭祀跡)

 ◎おびしゃ:びしゃ=米酒⇒甘酒

   阿培朱格:祖先崇拝的(の)灵台 新年祭(大年節)

   aあtuまzheさgeけ 

   毘沙 bi sha

 ◎おくんち くんち=洪西洪米祭

   洪:火把(たいまつ)、西=新 たいまつをたいて新しい夜を迎える。

  (夜籠りをする)

   洪:火把、米:夜

 ◎スミスカリ

  「漢書」貨殖伝第六十一

  蜀の卓氏の祖先は趙の人で、鉄の冶金で富裕となった。

  秦が趙を破ったとき、卓氏は蜀へ移住させられた。(略)

  卓氏だけは

  「ここは土地が狭く痩せている。

   岷山の麓の沃野は、土の下に踆鴟があって一生飢えないですみ、

   住民は商売上手で、みな取引をしている。と聞いている」と言って、

  わざわざ遠い所へ移住を希望し、臨邛県に移された。

  彼は大いに喜び、鉄山に拠って鉄を冶金し、

  また、いろいろ工夫を凝らして、滇・蜀の人々と交易し、

  その富は八百人の奴僕を召し使うほどになり、~。

  ※踆鴟=里芋 (注)蹲った鴟(とび)の形に似ているゆえ 


 「火把節」
 「おびしゃ」
  http://www.google.com/search?hl=ja&rlz=1G1GGLQ_JAJP375&q=%E3%81%8A%E3%81%8F%E3%82%93%E3%81%A1%E3%83%BB%E3%81%8A%E4%B9%9D%E6%97%A5&gs_sm=s&gs_upl=0l0l0l816l0l0l0l0l0l0l0l0ll0&um=1&ie=UTF-8&tbm=isch&source=og&sa=N&tab=wi&biw=1024&bih=649" title="「おくんち・お九日」">「おくんち・お九日」
 「漢書:第六十一貨殖伝」
 「漢書:第六十一貨殖伝」
 「踆鴟」

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ