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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
第1章 倭人と東夷の原像
―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―
(6)黄帝の祖族は「彝族」
史記五帝本紀第一の「黄帝」には「名は軒轅と曰ふ」とある。
この「軒轅」を漢字の字義で
その真義を解釈しようとしてはいけない。
この漢語の発音は〔xuān-yuān〕となるが、
これは氏族語の〔gai,ge〕〔hea,kea〕の漢語への音写で、
その語義は「星」である。
「大戴禮・帝繋」に「黄帝、軒轅之丘に居る」、
また「淮南子・墬形訓」
※(地形訓とも。「墬」は「地」に同じ、「墜」や「堕」とは別字)※
に「軒轅丘西方に在り」とある。
軒轅が「星」であるから「軒轅の丘」は「星の丘」の語義で、
ここが黄帝の宮殿のあるところである。
その宮を「合宮」という。
「合」は〔ge〕の発音で、前述の通り「星」で「星の宮」となる。
この「星の丘」を語義とする遺跡が四川省にはある。
成都市の北わずかの地広漢市の西方約7キロの南
興鎮真武村にある「三星堆」遺跡がそれである。
「堆」は「土でできた台地」の意味で「星堆」は「星丘」と同じである。
「三」字が付されているのは、
遺跡の地域が三つの台地で構成されているからにすぎない。
1929年の最初の小規模発掘から
1986年の調査まで発掘が重ねられ、大量の遺物が出土した。
それらのうちに商周時代の青銅器類もあったが、
大多数は黄河流域(中原という)の文化とは
全く異なった青銅製の遺物であった。
それら遺物の製作年代は古くは今から4千年まで遡り、
商(殷)時代より古いものとみられる。
しかもその範疇に入る遺物が大多数である。
遺物の内容をここで詳説するのは適しくないが、
まかでも金箔を顔面に付着させた人頭像が数点あるほか
女人頭像も数点ある。
他に御面の型の人面具を含め人頭像が数多く出土している。
これらの諸像は四川盆地に独自に成立した政治権勢の象徴といえる。
その諸像の顔の特徴の一つは
「目」が顔面の半分を占めるほどの大きさである。
また「縦目」といって「目玉:瞼(瞳)」が突立っているものもある。
「華陽國志」には周の時代のこととして
蜀(四川省)の王侯に「蠶(蚕)叢」という者があって、
その目が縦であったといい、
その王が亡くなった時、彼を石棺に納め埋葬したが、
その塚を「縦目人塚」と称したとあり、
「目」「縦目」は同地方の王族の象徴だったとの証拠となっている。
つまり三星堆遺跡は「目族:姫氏」の遺跡であり、
金箔を付着させた人頭像は「黄帝」であったといえる。
次の「黄帝の正妃嫘祖」の説明を確認してもらえれば
因みに、三星堆遺跡所在の広漢市名の「広」 は
概述の〔gai,ge〕あるいは〔hea,kea〕の漢語の音写で「星」を表わし、
また「漢」は漢語のうちにも「天ノ川」の意味とされているように、
その実態は。〔hun〕が「雲」で、「星の雲」=「星雲」となり、
「広漢」はその「星雲」の語義である。
四川省地域は「北の雲」の省で、雲南省名に対応する。
また参考資料として引用した「華陽國志」の「華陽」もまた
「星」の語義で「華陽國」は「星国」であり、「軒轅」と係わる。
ここは黄帝の国である。
なお同資料は
漢時代に四川省についての地理や産業・鉱物について書かれたもの。
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