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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
第1章 倭人と東夷の原像
―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―
(2)夷
三国志の「東夷」また「准夷」の「夷」は
歴史上極めて特徴ある用語である。
一般にその語義は「東方の人」あるいは「人々」と解釈される。
三国志魏書より古い「後漢書」にも「東夷伝」があり、
「東方白夷」とあり、シナの東方を「夷という」とある。
そしてそこに住む人々として「夷有九種」といい、
「畎夷于夷方夷黄夷白夷赤夷玄夷風夷陽夷」を上げる。
さらにこれは紀元前前漢時代に記された
「竹書紀年」の后祖2年の「黄夷」、7年「于夷」、小康即位年の「方夷」に
従ったものである。
これらの記述にみられる「東夷」の地は山海経「海内北経」のいう
「倭」地域と同じとみることができる。
「東夷」には同時代の歴史を記した
「春秋左氏伝」に極めて興味ある記事がある。
「杞国」に係わるものである。
「杞国」は「史記」夏本紀の終末で殷(商)の
「湯王夏の後を封ず」とあって、
夏王朝の王族に殷成立後王侯としいて土地を与えたといっている。
それに続く夏王朝を建てた「禹」の後裔の姓のうちに杞氏を記している。
杞は江南省の杞県に当たり、
丁度黄河が西方から流れてきて北東へ曲折する地点の南方にある。
まず「杞氏」が夏王朝族の後裔であることに注意すべきで
重要な点である。
次に「春秋左氏伝」のうちから「杞」「夷」とある記述をひろってみる。
僖公(紀元前659-627) 廿有3年11月杞の成公卒す。
書して子(し)と言曰ふは杞、夷なればなり。
〇杞は伯爵であるのに子(子爵)と書いてあるのは、
杞伯がえびすの礼を行なっているからである。
廿有7年春杞の桓公来朝す。
夷の礼を用ふ。故に子と曰ふ。杞を卑しむ。杞不恭なればなり。
〇杞の桓公が魯に来朝したが、えびすの礼儀作法を用いたので、
その爵位を貶して「子」といったのである。
魯の僖公が杞をいやしんだのは、杞がえびすの礼をもちいて
つつしみがなかったからである。
襄公(紀元前572-543) 廿有9年 杞は夏の餘なり。
東夷の即く。〇杞は夏の後裔であり東夷について
(東夷の作法に従って)夷礼を行っている。
これらの記述から夏王朝が「夷」族の人々が成した王朝であり、
殷(商)や周の人々とは全くの異族であったことを証明している。
つまり今日の表現でいえば、「夷族」は全く漢族ではなかった。
史記の第6「陳・杞世家」においては以下のようになる。
杞の東僂公は夏公禹の苗裔なり。殷の時或は封ぜられ、或は絶ゆ。
周の武王殷紐に克ち、禹の後を求め、東僂公を得、之を杞に封じ、
以て夏后氏の祀を奉ぜしむ〔禹の後は周の武王之を杞に封ず〕。
これらの記述から夏王朝が「夷」族の人々が成した王朝であり、
殷(商)や周の人々とは全くの異族であったことを証明している。
つまり今日の表現でいえば、「夷族」は全く漢族ではなかった。
史記の第6「陳・杞世家」においては以下のようになる。
杞の東僂公は夏公禹の苗裔なり。殷の時或は封ぜられ、或は絶ゆ。
周の武王殷紐に克ち、禹の後を求め、東僂公を得、之を杞に封じ、
以て夏后氏の祀を奉ぜしむ〔禹の後は周の武王之を杞に封ず〕。
さて「夷」字は古代のシナではどう発音されたのだろうか。
白川静の「字通」に従えば[jiei]で、これは「夷」の初文(字)である
「尸」[sjiei]の頭音[s]の脱落したものだという。
「尸」の語義は「つかさどる」で「祭祀を司ことを尸という」とある。
[sjiei]は興味深い。
「史記」五帝本紀が「帝禹を夏后と爲す。而して氏を別って姓を姒氏」
とある「姒」とはほとんど同音である。
その語義は「あね」で「姉」と同義である。
「娰」の発音は[ssu]である。
新釈漢文大系より五帝本紀の当該部分を転記する。
黄帝より舜・禹に至るまで皆同姓なり。
而して其國號を異にして、以て明徳を章かにす。
故に黄帝を有熊と爲し、帝顓頊を高陽と爲し、
帝嚳を高辛と爲し、帝堯を陶唐と爲し、
帝舜を有虞と爲し、帝禹を夏后と爲す。
而して氏を別かって、姓は姒氏。
契を商と爲す。姓は子氏。
弃を周と爲す。姓は姫氏。
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