2015年7月7日火曜日

倭の養蚕の地

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (10)倭の養蚕の地

   「三國志魏書」倭人伝に

  「種木稲紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜」とあり、

  東洋文庫の解訳には

  「人々は稲や麻を植え、桑を栽培し蚕を飼って糸を緝績ぎ、

   細麻や縑や緜を産出する」とある。

  後漢書にもほとんど同じような文面があるが、

  これは「魏書」に倣って作成されたことが確実との評価である。

  三國志の時代は主に3世紀であるが、

  当時日本列島で養蚕が始まっていたのである。

  この養蚕の担い手も「和人」である

  「倭人」であったことが確実である。

  そしてその対象の地域は九州方面でしかない。

  同地域には哈尼族(あるいは彝族)の言葉による地名など

  養蚕に係わる解釈可能な用語が広くある。

  因みに、近畿方面には養蚕に係わる「倭語」はほとんどない。

   シナ、韓半島、日本に共通した「倭語」の名詞呼称の例は

  前に「黄帝」の別称「軒轅」で解説した「星」である。

  山海経に「列故射」あるいは「故射國」との記述がある。

  その「海内北経」に

  「朝鮮は列島の東の海、北山の南にあり、列陽は燕に属す。

   列故射は海の中にあり、故射國は海中にあり。

   列故射に属し、西南には山をめぐらす」とある。

  「列陽」は現在の山東省山東半島の内奥に「萊陽」市があり、

  いわゆる「萊夷」の地で北方は燕に接していた。

  「列故射」の「列」は倭語の[lug]の漢語音写で

  語義は「山」、「故射」は「コヤ」と訓み倭語の「星」、

  訓音「kea,hea」で当該語は「星山」である。

  その山及び「故射國[星国]」の所在地は、

  「朝鮮在列陽東」とあるように、

  列陽からみて東方に当たり、黄海の向うで、

  「列故射在海河洲中」との記述に習えば、

  いわゆる韓半島で、

  当時[紀元前5世紀以前]は「洲[島]」とみられており、

  そこに「星山」及び「星国」があったと解釈される。

  その当該地は韓半島南部になるが、

  実際に「星山」「星国」は古代から現在に至るまで

  地称と実在している。

  現在の慶尚北道の南道との境界にある

  伽耶山が「星山」で「高霊」が「星国」である。

  同山の北側に星州の町があるが、

  その辺りはかって星山郡であった。

  同地から南方の釜山市へ流れる川を「洛東江」と称すが、

  「洛」は「列」と同根の「山」なので、

  同江の語義は「伽耶山の東を流れる川[河]」となる。

  「三國史記」雑志第三には「康州」のうちに「星山郡」名を載せ、

  後〔紀元11世紀〕に加利県としたとある。

  また「高霊郡」を載せ

  「もと大伽耶国で、

   始祖の伊珍阿豉王より道設智王に至るまで16代520年。

   真興大王が侵略し滅ぼし、その地を大伽耶郡とした」とある。

  滅ぼされたのは562年で、

  紀元後すぐに起った国であったことが解かる。

  その中心勢力が倭人であったことに間違いない。

  「加利県」名は「三國遺事」で「伽落」あるいは「駕洛」などと

  表記された地称と同じで「星山」にして「伽耶山」を指している。

  「韓」を日本で「カラ」と呼称してきたのはこれに由来する。

   長崎県対馬にも「星山」はある。

  「上県」に大星山(峰町)と高野山(上県町)が

  町境を挟んで並立したいる。 

  「高野(こうや)」も「星」である。

  さらに日本列島内をみると、和歌山県伊都郡かつらぎ町に、

  伝承によると天から隕石が落ちてきたことから

  星山、星川の地称ができたという地区がある。

  「星」は「こうや:高野」であり、町名として成った。

  さらに愛知県の「名古屋」市名及び佐賀県呼子町の「名護屋」は

  双方とも語源を同じくし、

  「ナ[名]」は倭語の[ni]の音写で「霊」ないし「神」の呼称、

  「コヤ[古屋・護屋]」は「高野」と同じであり、

  同語は[神・星]で「星神」を表わす。

  これらの地名由来は韓半島及び日本列島へ倭人〔和人〕人が渡来し、

  その言葉を定着させた証拠である。
  
  さらに養蚕技法、

  また本書では説明対象としていないものの

  倭人が「水耕稲作」を伝えてきたとの証左になっている。

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