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『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦
第1章 倭人と東夷の原像
―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―
黄帝の正妃は「嫘祖」は和夷〔倭人〕の祖
四川盆地は古代「蜀国」であった。
「蜀」字は甲骨文字〔亀甲番号6861~6866、40774〕
などに「※甲骨文字絵」とあって
「目」に尾ヒレを付けた形で描かれている。
これは「蠶」〔蚕は代用〕を表わし、「おかいこ」を意味する。
「蜀」字は後になってその「※蜀から虫を取り去った字」に
「虫」字を加えたものである。
つまり四川盆地は「おかいこ」に深い係わりがある
「絹」の生産地だったのである。
ところで、黄帝の正妃は「嫘祖」という。
前にも引いた「大載禮記・帝繁」は
「黄帝居軒轅之丘、娶于西陵異氏之子謂之嫘祖氏」とあり、
史記五帝」本紀もこれを引いて
「黄帝居軒轅之丘、而娶於西陵氏之女、
是爲嫘祖、嫘祖爲黄帝正妃」とある。
このように「嫘祖」は黄帝の正妃である。
その出自「西陵」は漢書に
「蠶陵縣、郡北二百二十里、本蠶叢邑也、漢武元鼎中開爲縣」
とある「蠶陵」である。
その地は現在の成都市・広漢市の西北
珉江の松潘市の南方に当たる。
つまり、三星堆遺跡からはそう遠くない。
この地域は書経「禹貢」のいう「和夷」の住む所である。
「西」「蠶」の関係だが、哈尼語によると「蠶」は〔tsha〕といい、
漢語の「西〔xi:シ〕」とほとんど同じで、音写である。
同音はまた「蜀〔su〕」や、
また成都市の「成:セイ」ともなっており、
この地が養蚕の地であることを示している。
さらなる重要点は「嫘祖」の「嫘」が哈尼語簡志で〔tcha〕とあり、
これも〔tsha〕にほとんど同音で「蠶」を指している。
「累」の漢語義は「まとめる、重ねる」で「繭」に相当される。
「女」が付されているのは「正妃」だからである。
「嫘祖」とは「繭の祖先」で
「世本」が「爲黄帝元妃嫘祖、教民養蠶」というのを初め
「嫘祖開蠶」とか「嫘祖始蠶」というように「養蚕の祖」と解釈される。
そこで「和夷」の「和」、哈尼族の「哈」との関連をみると、
これらの元語は同じで「虫」の語義であるUHがそれである。
「おかいこ:蠶」は虫である。
その傍証、現在同族は北方勢力に圧迫され四川省南部、
雲南省へと移住しているが、一部はタイ国内地域まで南下し、
そこでは「アカ族」と呼ばれており、
その「アカ」がAHでまた「虫」を表わしていることである。
同族を「阿尼族」と「ア」を呼称するのもこの用語AHに依る。
つまり和人〔和夷〕はシナ大陸で最初に養蚕技法〔野蚕〕を
見出し拡大させた人々だったのであり、
それは古代の当時では衣料や祭祀用の重要な産品を
もたらした先端技術だったのである。
あの三星堆遺跡では燃やされて灰となった絹が
多量に出土している。
「蠶:おかいこ」の食するのは「桑」であるが、
この漢字の元になった文字も甲骨文字〔6959〕にあり、
商(殷)に対して従ったり反叛(反攻)したりしたシナ周辺の
小国の名称でもある(甲骨文字簡明詞典)。
桑は広葉樹類に属することからすると四川省以南、
揚子江沿いの植物でいわゆる温帯亜熱帯のもので、
この桑の繁殖できる地域のみ養蚕は可能である。
「脱文解字」には「蠶所食葉木」とある。
よって、紀元後1世紀には蠶と桑との関係が
漢人にも知られるようになっておいたことを示している。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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