2015年6月14日日曜日

書経「禹貢」の養蚕の地

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (8)書経「禹貢」の養蚕の地

   「脱文解字」より古い養蚕を行っていたことを示す記録がある。

  それが書経「禹貢」で四川省から遠く離れたシナ海沿岸に

  紀元前5世紀以前にその技法が定着していたとの情報がある。

  新釈漢文大系から当該部分を転載する。」

   第二節 兗(えん)州

  ◎清河は惟れ兗州。

  九河は既に道し、雷夏は既に澤して濉沮は會同す。

  桑の土は既に蠶し、是に丘を降りて土に宅(お)る。

  〔通釈〕清水と黄河との間が兗州

   (山東・河北省にまたがる)である。

   (黄河の)九(あまた)の支流がすでに通じ、

   雷夏沢がすでに沢となって、

   雍水と沮水は合して(この沢に)同(あつま)った。

   (これによって)桑を植えるに適した土地では既に養蚕が始まり、

   (また洪水を避けて丘にいた人々は)丘から降って

   平地に住むようになった。

  ◎厥の貢は漆絲なり。厥の篚は織文なり。

  〔通釈〕その貢物は漆と生糸とである。その篚(おくり)ものは

   織文(あやおり)である。

   第三節 青洲

  ◎岱の畎は枲(し)・鈆・松・怪石なり。

  萊夷は作て牧し、厥の篚は檿(えん)絲なり。

  〔通釈〕岱山の谷からは、生糸・麻・鉛・松・怪石を出す。

   萊夷が始めて牧畜をするようになり、その篚は山繭である。

  
   第四節 徐洲

  ◎厥の篚は玄繊縞なり。

  〔通釈〕(徐洲の)篚は黒色の細かい繪(きぬ)である。

  〔語釈〕繪とは帛の総名。


   第五節 揚洲

  ◎島夷は卉服す。厥の篚は織貝なり。

  〔通釈〕島夷は卉服(草で織った衣服)を献ずる。

   その篚は錦織である。


   この記録から兗州、青洲(現在の山東省)から徐州(江蘇省)、

  揚州(浙江省)まで、つまり北は山東半島一帯から揚子江の

  シナ海への河口地帯で既に桑があって養蚕がかなり広く行われ、

  当該者が「禹貢」であることからすれば、

  夏王朝の時代に帝の膝下へ絹製品が

  貢物として届け出されていたことを示す。

   古代の養蚕には「西王母」信仰がある。

  「西王母と七夕伝承」〔小南一郎〕にその実態は詳しい。

  西王母は頭に「勝〔本来は「榺」というのが正しい〕」、

  紡織機の滑車付軸の模型を冠のように載いて、

  足下に龍と虎を従えている。

  その多くは漢代に製作されたものらしいが、

  鏡の裏面や「磚」と称される石板に刻まれた画像が

  たくさん見つかっている。

  その多く見つかっている地域が四川盆地と、

  ここに紹介した「禹貢」の絹に係る地域である山東省などである。

  つまり西王母とは「嫘祖」の大衆化した対象とすることができる。

  彼女に従っている「龍」は蠶(おかいこ)の変化した像形で

  四川盆地の「青衣」あるいは「青龍」で、「おかいこ」の桑葉を

  腹に一杯食して大きく生長をした姿がそれで、

  また「黄龍」はその食べた桑葉から生糸になる成分だけを保管し、

  残り滓を糞として排出した後の体が

  蜂蜜のような色合いになった状態をいう。

  「西」は前に述べた蠶を哈尼語で〔tsha〕といったことに始まる

  西○陵、成○都と由来を同じくしており、

  西王母には嫘祖が色濃く修合している。

   西王母信仰の実在がシナ海沿岸にみられることは、

  四川盆地の養蚕技法を持った「和人」が同地方に

  広く定着していたとの証左となる。

  紀元前後の漢時代になってからはいざ知らず、

  紀元前5世紀前かなり古い時代には、

  やたら部外者にその秘法を教えるなどしなかったはずで、

  やはりその技術集団がこの地方へ移ってきたとするのが

  妥当と考える。

   ところで「禹貢」に記述されている養蚕の地

  兗州、青洲、徐州、揚州の地は「山海経」がいう「倭人」のいた

  地域であり、「後漢書」東夷伝の「九種の夷」のいた地域でもある。

  つまるところ「和人」は「倭人」である。

  「哈尼族簡史」に哈尼族の呼称の一つとして「倭泥」というのが

  あるように「和」「倭」も哈尼語においては同類なのである。

  山海経のいう「倭人」は書経「禹貢」のいう和夷にして「和人」である。

  なお、その養蚕の地が山東半島尾一帯という黄海の近くまで

  広がっているのは、温暖な黒潮が北流し当該地を広葉樹も

  育つ気候に変えているからと見られる。

《参考》

 ARPACHI
YAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

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