2011年11月27日日曜日

種子島・広田遺跡について:中国の殷・周につながる種子島の歴史



ブログ:古代史ブログ講座「古代メソポタミアから大化の改新まで」

ジャンル:考古学・遺跡

タイトル:種子島・広田遺跡について


 6.中国の殷・周につながる種子島の歴史※出典:加治木義博著・JINMU

種子島の人々が朝鮮半島まで拡大したのはいつのことであろうか?

この島が[辰巳国]であることと、

朝鮮半島の辰巳(東南)を占めた国[辰韓]とは無関係か?

それから順を追って考えていこう。

種子島と、あい対している大隅半島も、

邪馬臺国や邪馬壹国のあった隼人町からみると、やはり辰巳にある。

とすれば、古代日本語には<ス>と<ツ>の区別がなかったから

[大=タ][隅=スミ=ツミ]で [タツミ=辰巳]

を意味する当て字だったことになる(加治木義博著『ヒミコ』参照)。

その大隅は

カヤ=鹿屋

カラ=姶良

ヒラ=日羅

シラ=始羅

を生み出し、

それが[白日(しらひ)=福岡]から

朝鮮半島の[斯盧(しろ)~新羅(しらぎ)]とつながっている。

その[斯盧国]は『魏志韓伝』の中の『辰韓』の一国の中に確かに実在している。

3世紀には、朝鮮半島への拡大移住はすでに終わっていたのである。

そしてさらにそれよりはるか以前に、

宝貝通貨によって世界経済を支えていたカリエン人は、

遠く高句麗にまで国を広げていた。

種子島・南種子町の広田遺跡(弥生時代)から殷・周文化である

饕餮(トウテツ)文の流れをくむ文様を彫ったものと、

漢字の[山]の字を彫ったものなどの貝殻製装身具が出土して、

これまでの私たちの考察が単なる想像ではなかったことを物の面からも、

はっきり立証しているのである。

こうみてくると3世紀に南鮮にあった『辰韓』は、

[タツガラ=辰ガ国(ラ)]という日本語への当て字で、

種子島の[タツガラ]国の分国でなければならない。

その[辰]がやがて[シン]と発音が変った。

それを証明するのは新羅時代になると、

同じ[シン]という発音の[新]に文字が変えられたことである。

辰国(シンラ)が 新羅(シンラ)になったのである。

この新羅が中国の正史に初めて登場するのは、

ヒミコ時代よりずっと後の『宋書』からで、

その時期は宋の太祖の元嘉二年(425)。

それも[倭の五王]として有名な[珍]の名乗りの中に初めて出てくる。

そしてちょうどそのころから朝鮮半島に、

日本の古墳の葬制と同じ

曲玉と剣を副葬した高塚古墳が造られはじめる。

ヒミコの大塚造営から2世紀後なのだ。

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