2011年11月26日土曜日

種子島・広田遺跡について:天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫



ブログ:古代史ブログ講座「古代メソポタミアから大化の改新まで」

ジャンル:考古学・遺跡

タイトル:種子島・広田遺跡について


 4.天武天皇は仙境を求めてやってきた除福の子孫※出典:加治木義博著・YAMATO

ハ行とカ行の関係が理解できると、

この「ホ」の国と、それをめぐる国々の国名が、

何から生まれて、どう分裂して増えていったかが完全にわかる。

沖縄語の「ク」は本土語の「コ」だとわかるから、

高麗は「コマ=コ国(マ)」で、やはり同じ国だとわかる。

この高麗は本来「コーライ・コーレイ・コーリー」などとと呼ばれていた。

それはこの地方が3000年前には、

古代世界で最大の貝貨幣・宝貝の産地で供給国だったが、

そのため宝貝は今でも

インド語で「コーリー」、学名も英語も「カウリー」と呼ぶ。

産物の名の多くは、その生産地の地名と同じになるから、

これは「高麗」が世界を代表する産地だったことを記録しているのである。

学名と英語の「カウリー」は、実は沖縄語なのだ。

那覇(なは)と反対側の中城湾(なかぐすくわん)には

高離島」という島があって土地の人は

それを「カウリー・ジマ」と呼んでいるのである。

それは沖縄発音で、もとは「コーライ」だったことがわかる。

なぜならすぐ隣りにある台湾は、

秦の始皇帝のころから「蓬莱=ホーライ」島と呼ばれているからである。

「ホ」と「コ」が入れかわっているだけであることは、ご説明しなくてもいいと思う。

では「蓬莱」という漢字のついた台湾は中国領だったのだろうか?

始皇帝はその島を神仙の住む別世界の仙境と信じて、

真人」になるために神薬を授かりに徐福らをその島へ派遣したのである。

この「蓬莱」を徐福らの作り話だとする者が多いが、それは間違っている。

それは実在し、徐福は場所も知っていた。

彼は野蛮な独裁者・始皇帝の力を逆に利用して無事に中国を脱出する唯一の手段として、

また万一の場合に備える「保険=人質」として、

始皇帝の第三女ら多数の少年少女を連れて移住したのである。

その子孫が首都を沖縄に移して大琉球と称し、台湾は小琉球になった。

さらに種子島に移って女王国家「ホの国」を建国、南種子町の広田遺跡の墓

「山字文」の貝製装身具を残した。

豊玉姫の伝統は弥生時代からのものだったのである。

その後の足取りは、大隅の「襲(ソ)」という別名と「徐(ソ)」は同じ発音だから、

そこが「徐の国」だったことがわかり、

日本書紀』と『三国史記』の記事で、さらに多数の証拠が見つかる。

写真の「天慧甗(テンエゲン)」もそこに伝えられて実在する。

天武天皇はその子孫の一人だったから、あれほどまでに「ヤマト=仙=山人」にこだわり、

それを国教にし、国名にしたのである。

では元の名の「ホーライ」とは何だったのか?

それは台湾の先住民・ギリシャ人の神話に出てくる大神ゼウスの娘で三人姉妹の

季節の女神(ホーライ)」のことである。

台湾はギリシャ以上に温暖な気候と豊富な果物に恵まれた仙境だから、

季節の女神の島と呼ばれたのだ。

徐福が運んできた天慧甗

この徐福の徐は与や邪の字と全く同じ発音で、

与那国がギリシャ人を意味している通り、

イオニア系ギリシャ人だった。

「与ナ」は国をマという人には「邪マ」と書かれた。

邪馬壹国もギリシャ人の国という意味なのである。

その「徐」は「ソ」とも発音する人々がいた。

韓国のソウルも「<徐伐<」と書かれている。

そのソの国は今の大隅地方で、

 そこにこの中国・秦の時代に作られた徐の国製だと銘記された

 銅器が現代まで宝として伝世してきたのである。

 『天孫降臨』の一部にこの「ソの国」を「添」とか「曾堡里」とか当て字しているのは、

内容とは別の史料として重要な意味をもっている。

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