2015年7月17日金曜日

黄帝の祖族は「彝族」

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた― 

  (6)黄帝の祖族は「彝族」

   史記五帝本紀第一の「黄帝」には「名は軒轅と曰ふ」とある。

  この「軒轅」を漢字の字義で

  その真義を解釈しようとしてはいけない。

  この漢語の発音は〔xuān-yuān〕となるが、

  これは氏族語の〔gai,ge〕〔hea,kea〕の漢語への音写で、

  その語義は「星」である。

  「大戴禮・帝繋」に「黄帝、軒轅之丘に居る」、

  また「淮南子・墬形訓」

  ※(地形訓とも。「墬」は「地」に同じ、「墜」や「堕」とは別字)※

  に「軒轅丘西方に在り」とある。

  軒轅が「星」であるから「軒轅の丘」は「星の丘」の語義で、

  ここが黄帝の宮殿のあるところである。

  その宮を「合宮」という。

  「合」は〔ge〕の発音で、前述の通り「星」で「星の宮」となる。

   この「星の丘」を語義とする遺跡が四川省にはある。

  成都市の北わずかの地広漢市の西方約7キロの南

  興鎮真武村にある「三星堆」遺跡がそれである。

  「堆」は「土でできた台地」の意味で「星堆」は「星丘」と同じである。

  「三」字が付されているのは、

  遺跡の地域が三つの台地で構成されているからにすぎない。

  1929年の最初の小規模発掘から

  1986年の調査まで発掘が重ねられ、大量の遺物が出土した。

  それらのうちに商周時代の青銅器類もあったが、

  大多数は黄河流域(中原という)の文化とは

  全く異なった青銅製の遺物であった。

  それら遺物の製作年代は古くは今から4千年まで遡り、

  商(殷)時代より古いものとみられる。

  しかもその範疇に入る遺物が大多数である。

  遺物の内容をここで詳説するのは適しくないが、

  まかでも金箔を顔面に付着させた人頭像が数点あるほか

  女人頭像も数点ある。

  他に御面の型の人面具を含め人頭像が数多く出土している。

  これらの諸像は四川盆地に独自に成立した政治権勢の象徴といえる。

  その諸像の顔の特徴の一つは

  「目」が顔面の半分を占めるほどの大きさである。

  また「縦目」といって「目玉:瞼(瞳)」が突立っているものもある。

  「華陽國志」には周の時代のこととして

  蜀(四川省)の王侯に「蠶(蚕)叢」という者があって、

  その目が縦であったといい、

  その王が亡くなった時、彼を石棺に納め埋葬したが、

  その塚を「縦目人塚」と称したとあり、

  「目」「縦目」は同地方の王族の象徴だったとの証拠となっている。

  つまり三星堆遺跡は「目族:姫氏」の遺跡であり、

  金箔を付着させた人頭像は「黄帝」であったといえる。

  次の「黄帝の正妃嫘祖」の説明を確認してもらえれば

   因みに、三星堆遺跡所在の広漢市名の「広」 は

  概述の〔gai,ge〕あるいは〔hea,kea〕の漢語の音写で「星」を表わし、

  また「漢」は漢語のうちにも「天ノ川」の意味とされているように、

  その実態は。〔hun〕が「雲」で、「星の雲」=「星雲」となり、

  「広漢」はその「星雲」の語義である。

  四川省地域は「北の雲」の省で、雲南省名に対応する。

  また参考資料として引用した「華陽國志」の「華陽」もまた

  「星」の語義で「華陽國」は「星国」であり、「軒轅」と係わる。

  ここは黄帝の国である。

  なお同資料は

  漢時代に四川省についての地理や産業・鉱物について書かれたもの。

2015年7月16日木曜日

「和氏」及び「羲氏」

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた― 

  (5)「和氏」及び「羲氏」

   ここでは前記した「彝族」「哈尼族」の古代を考察する。

  ここで確認しておきたい重要な点は

  「彝語」あるいは「哈尼語」の語圏は漢語系とは

  全く異なった発祥と展開を経てきたということである。

  「哈尼族」は実は書経「禹貢」の「梁州」に

  「和夷底績」と記述される「和夷」の後裔である。

  因みに「梁州」とは四川省の四川盆地地方である。

  書経は孔子が纏めたいわれるくらいだから

  紀元前5世紀以前のシナにおける書物で、

  そのうちの「禹貢」はシナにおける「山海経」より古い

  最初の地理書で揚子江・黄河流域を九つの州に分け、

  夏王朝の開祖「禹」がその各地を治めたという内容になっている。

  新釈漢文大系の「書経」はその通釈で

  「和夷の住む地が遂に治まった」といっており、

  「和夷」とはそういう人々がいたと解釈している。

  しかもその住む地が梁州、つまり四川盆地だといっている。

  「哈尼族簡志」では

  「漢文史籍中の歴史名称は和夷、和蛮、和泥、禾泥、和泥、俄泥、

   阿泥、哈尼~有り」といっており、

  彼等の祖族が「和夷」であるとしている「尼」「泥」は

  哈尼語、彝語で「人」を表わし、当該族は「和人」となる。

   この「和人」について書経「堯典」に興味ある記述がある。

  第二節に「堯四岳を任命し暦を作る」に依る(新釈漢文大系)

   乃ち羲和に欽んで昊天に若って、日月星辰を暦象し、

  敬んで民の時を授へんことを命ず。

  分けて羲仲に嵎夷に宅を命じて曰く、

  「晹谷に出日を寅賓し、東作を平秩せよ。

   日は中にして星を鳥にて、以って仲春を殷せ。

   厥の民は折れ、鳥獣は孳尾せん」と。

  申ねて羲叔に南交に宅子を命じて〔曰く〕、

  「南訛を平秩せよ。日は永く星は火にて、以って仲夏を正せ。

   厥の民は因し、鳥獣は希革せん」と。

  分けて和仲に西に宅子を命じて曰く、

  「味谷に納日を寅餞し、西成を平釈せよ。

   宵は中にして星は虚にて、以って仲秋を殷せ。

   厥の民は夷り、鳥獣は毛せん」と。

  申ねて和叔に朔方に宅子を命じて曰く、

  「朔易を平在せよ。日は短く星は昴にて、以って仲冬を正せ。

   厥の民は隩し、鳥獣は氄毛せん」と。

  帝曰く

  「咨、汝羲および和、朞は三百有六旬有六日にし、

   閏月を以って、四時を定めて、歲を成せ」。

 ※出典:『尚書』虞書・堯典 第一

 乃命羲和,欽若昊天,歷象日月星辰,敬授人時。

 分命羲仲,宅嵎夷,曰暘谷。寅賓出日,平秩東作。

 日中,星鳥,以殷仲春。

 厥民析,鳥獸孳尾。 

 申命羲叔,宅南交。

 平秩南訛,敬致。

 日永,星火,以正仲夏。

 厥民因,鳥獸希革。

 分命和仲,宅西,曰昧谷。

 寅餞納日,平秩西成。

 宵中,星虛,以殷仲秋。

 厥民夷,鳥獸毛毨。

 申命和叔,宅朔方,曰幽都。

 平在朔易。

 日短,星昴,以正仲冬。

 厥民隩,鳥獸氄毛。

 帝曰:

 「咨!汝羲暨和。

  朞三百有六旬有六日,以閏月定四時,成歲。

  允釐百工,庶績咸熙。」

 羲氏と和氏に、暦と季節を調査させた。

 羲仲は東で、春の発生を調べた。

 羲叔は南で、夏の生長を調べた。

 和中は西で、秋の成熟を調べた。

 和叔は北で、冬の蓄積を調べた。

 それぞれの季節で、すべきことを定めた。

 帝堯はいう。

 「羲氏と和氏の兄弟たちよ。

  1年を366日として、閏月でズレを補正せよ。

  1年の行事を定めよ」と。

 暦と行事が整備された。※

   当記述にある羲和とは「羲氏」と「和氏」である。

  つまり黄帝から第5代の「帝堯」が

  羲氏と和氏の両族に命じて東西南北に彼等を配置し、

  「暦」つまり「歳」ごとの人々の生活様式を

  整えさせたというのである。

  ここに登場する「和氏」は「和人」にして「哈尼族」の祖先であろう。

  まさに「和人」及び「羲人」が

  シナ大陸を最初に開化させてとの趣旨である。
  
  「和」字の語義をみると同字の「咊」で「こゑを合わせる」が由来であり、

  歌をコーラスで奏する際の声が合う、

  調えられている様子をいう。

   さて、「羲氏」であるが、これは「彝族」の別称である。

  同族の呼称を「彝語簡志」は〔no-su〕という。

  この表音はすでに述べた通り「石・目」の合成で「瞳」を表わす。

  つまり彝族は「目族」なのである。

  「彝羲」と合成すると、これまた IGI で「目」の意義である。

  シナの古来からの姓名を一字で表わす慣習から

  「イ」「キ」と分けられたと考えられる。

  「目族」はまた前述のように「姫氏」でもある。

2015年7月15日水曜日

娰氏〔姫氏〕

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた― 

  (4)姒氏〔姫氏〕

   これに対し「姒氏」についてはどうか。

  その発音は[ssu]は「姫氏」の「姫:シ」に由来するとみられる。

  「姫」字も甲骨文字(亀甲文字20815)にある。

  同字の「臣」は「亀甲文字:目」が元で

  これは「亀甲文字:目」をタテにしたものである。

  現在「臣下」のように使われているが、

  本来「目を上に向ける」語柄で、

  「臣下」は「王ないし皇帝を見上げ崇める」の語義となる。

  殷(商)時代に多くみられる「臣」字の意義はそれである。

  しかし、その背後には「目を上げて天に向く」、

  つまり「神」に対する崇拝の態度を表現する語柄がある。

  この語性は「夷」字に係わる用語として

  白川静が「字通」で指摘した「尸」字の語義「祭司」に相当し、

  男性の「巫」を表わす。

  そこに「女」が付され「姫」となれば

  「神を崇拝する(神を司る)女」で「巫女」を表わすこととなる。

  日本語ではこれを「ヒメ」と訓むのはPA・ME〔呼ぶ‐神託〕で

  「神に呼び掛ける役目の女」に依っている。

  よって「姫氏」とは「天神を崇拝する人々」となる。

  「見」は「見上げる人:目+人」の語義で、

  「視」を「シ」と表現するように「臣」は「シン」というより

  本来「シ」で「姒〔ssu〕」に近い。

  「目」を「シ」と表現することをここで確定している理由は、

  シナの西南部四川省あるいは雲南省にいる

  少数民族「彝族」「哈尼族」あるいは「納西族」の

  言葉によっているからである。

  1985年の「彝語簡志」は「眼清:瞳」を〔no-dzi〕〔na-du〕、

  また同じ頃の「哈尼語簡志」は「眼清」を〔nia,matsi,natsj〕とし、

  明治期に日本の民俗学者鳥井龍蔵が収集した「目」に当たる用語は

  「中国の少数民族地帯をゆく」によると

  〔nitt,nisu,nes,ness〕などとある。

  このうち〔n-〕語は本来「石」、

  〔dzj,du,ja,tsi,ts〕〔-tt,-s,-su〕が

  「目」の語義を表わしている。

  「眼清」あるいは〔n-dzi〕はつまり「目の石」で「瞳」をいう。

  〔ma-,m-〕は日本語で当該部分を「メ」というのに同じで、

  鳥井龍蔵の収集語のうちに〔med〕とあり同語が混在している。

  それは「マツ」で日本語の「目の毛」である「マツ毛」に相当する。

  いずれにしても

  同族類では「目」を「シ」あるいは「ツィ」と表現している。

  これらの用語収集は19世紀のことである。

  彝族の用語に「夷」を〔zi〕といっているのも参考になる。

  本書が検討しているのは現在あるいは鳥井龍蔵の時より

  2千年以上3千年も前の古い時代である。

  その間の転訛などの変化を考慮しなければならないし、

  地域差も加味しなければならない。

  しかし、

  「姫」は「シ」にして「姫氏」は「シ氏」にして「眼族」と解釈される。

  つまり、黄帝から夏王朝の始祖禹までは姒族にして「姫氏」で、

  姬族とは全く別系の人々であることが判明してくる

  その夏王朝の「夏」は哈尼語にze,je,ja,彝語でsiと

  現在でも表音されるように正に「シ:眼」と同意にして

  姫氏の出であることを示している。

   史記の五帝本紀には司馬遷かあるいはその一族の意図か、

  双方をあえて同族とみなそうとする企図がある。

  図1 帝から始まる「帝」の系譜[史記] 


  図2 古代資料ににる「姫」「姬」

2015年7月14日火曜日

商と周〔姬氏〕

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた― 

  (3)商と周〔姬氏〕

   この五帝本紀を新釈漢文大系の作図に従い、

  シナの祖とする「黄帝」からの系譜を考察する。

  引用文の初めにある「黄帝より舜・禹に至るまで同姓なり」とある

  「同姓」とは「姒氏」にして「シ氏」族であるのに対して、

  商(殷)族は子氏、周族は姬氏とあり、

  黄帝から禹までの族類とは別系の人々であることを明白にしている。

  つまり、シナのほとんどの史書が「黄帝」を

  商周の人々の元祖としているが、それは誤りとなる。

  ちなみに「姬」字と「姫」字は別字である。

  現在の状況ではあるが北京語においては「姬」字しかない。

  これに対し日本では「姫」字のみが使われている。

   紀元前1世紀の辞典『脱文解字』に早くも

  「黄帝居姬水以爲姓」とあり、6世紀前半の「玉篇」もそれを引いて

  「黄帝居姬水以爲姓」と同文を記す。

  この「姬」字は図2(23頁)の通り、殷(商)時代亀甲に刻まれた

  甲骨文字や青銅器に刻印された金文のうちにかなり多くみられる。

  また「姬水」は現在「(氵+圣)河」と称される陝西省の内蒙古に

  近い西北端の「姫(土+原)」を最北の水源とする水系で

  甘粛省の東端慶陽あるいは平源周辺の水を集めて南方へ流れ、

  長武で陝西省に入り、徐々に南東へ下って西安の北側で

  渭河に合流する。

  「(氵+圣)」は「姬」の代用字である。

  「字通」がいう「𦣝」は「乳房」で金文にある

  甲骨文字「」によって納得できる。

  それに「女」字が付されており、正確には「女性(雌)」を表わし、

  「胸乳」を表象したものである。

  これを「キ」とするのはこの文字に依る。

   また「姬氏」を「姫水」で解釈できる歴史的事実は、

  周の族類が内蒙古・甘粛省から北流する黄河の向う

  〔オルドス〕方面から入来してきた人々であるとすることによる。

  さらにその北方アルタイ山脈の東山麓が故郷とみられる。

  なぜならば、その蒙古地域に広がる砂漠を「ゴビ」というが、

  この祖語は GAB で「胸」を表わすからである。

  『史記』「周本紀」にいう周の元妃「姜原」の「姜」は

  「雌(女)の羊」の語義で、彼等が本来「羊飼い」〔寒冷地帯型〕で

  あったことを示す。

  「周」字の甲骨文字は「甲骨文字」でこれは「胸当て」と解釈されている。

  また周の表音は[zhou]でオルドスに散在する地名用語

  「朔[shou]」「(月+生)[she]」と同様 

  SHAU で「雌羊を飼う」が語源と考えられる。

  周の族類の本拠が(氵+圣)(姬)河辺より

  北方にあったことは明らかである。

   また「商」の本拠も渭河(水)の南側湖北省との境界一帯の

  陝西省商県市を中心とする商洛郡が故郷であったとされる。

  「商国」が興ったのはずっと東方の河南省の東端「商丘」であるが、

  同表現は「商洛」の語義によっている。

  「洛:ラク」は夏王朝に係わる人々の用語で「丘・山」であるし、

  同地は高原地帯である。

  『史記』「殷本紀」の始母「簡狄」の「狄」は「北狄」というように

  北方から入来した族類で、商周とも北方から渭河流域に

  渡来定住した人々であった。

  図1 帝から始まる「帝」の系譜[史記] 
     

  図2 古代資料ににる「姫」「姬」
     


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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (3)商と周〔姫氏〕

   図1 黄帝から始まる「帝」の系譜[史記] 


          ┌─玄囂─「蟜極」─
 ①黄帝      │
  │       │
  ├─(姫姓)───┤
  │       │
  嫘祖      │
  (黄帝正妃)   │   
          └─昌意─②帝顓頊─


      陳鋒氏の女[一妃]
       │
       ├─放助(⑤帝堯):弟
       │
 「蟜極」─③帝嚳(高辛)
       │
       ├─弃(姬氏)
       │
   (周本紀)│
      姜原(有台氏)[元妃]


    娵訾氏の女[二妃]
     │
     ├──執手(④帝摯)
     │
 ③帝嚳(高辛)
     │
     ├──契
 (殷本紀)│
    簡狄[次妃]


      ┌─窮蝉─敬康─句望─橋午─瞽叟─⑥舜
      │
 ②帝顓頊─┤
      │
      └─鯀─⑦禹




2015年7月12日日曜日

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (2)夷

   三国志の「東夷」また「准夷」の「夷」は

  歴史上極めて特徴ある用語である。

  一般にその語義は「東方の人」あるいは「人々」と解釈される。

  三国志魏書より古い「後漢書」にも「東夷伝」があり、

  「東方白夷」とあり、シナの東方を「夷という」とある。

  そしてそこに住む人々として「夷有九種」といい、

  「畎夷于夷方夷黄夷白夷赤夷玄夷風夷陽夷」を上げる。

  さらにこれは紀元前前漢時代に記された

  「竹書紀年」の后祖2年の「黄夷」、7年「于夷」、小康即位年の「方夷」に

  従ったものである。

  これらの記述にみられる「東夷」の地は山海経「海内北経」のいう

  「倭」地域と同じとみることができる。

   「東夷」には同時代の歴史を記した

  「春秋左氏伝」に極めて興味ある記事がある。

  「杞国」に係わるものである。

  「杞国」は「史記」夏本紀の終末で殷(商)の

  「湯王夏の後を封ず」とあって、

  夏王朝の王族に殷成立後王侯としいて土地を与えたといっている。

  それに続く夏王朝を建てた「禹」の後裔の姓のうちに杞氏を記している。

  杞は江南省の杞県に当たり、

  丁度黄河が西方から流れてきて北東へ曲折する地点の南方にある。

  まず「杞氏」が夏王朝族の後裔であることに注意すべきで

  重要な点である。

  次に「春秋左氏伝」のうちから「杞」「夷」とある記述をひろってみる。


    僖公(紀元前659-627) 廿有3年11月杞の成公卒す。

   書して子(し)と言曰ふは杞、夷なればなり。

   〇杞は伯爵であるのに子(子爵)と書いてあるのは、

   杞伯がえびすの礼を行なっているからである。

    廿有7年春杞の桓公来朝す。

   夷の礼を用ふ。故に子と曰ふ。杞を卑しむ。杞不恭なればなり。

   〇杞の桓公が魯に来朝したが、えびすの礼儀作法を用いたので、

   その爵位を貶して「子」といったのである。

   魯の僖公が杞をいやしんだのは、杞がえびすの礼をもちいて

   つつしみがなかったからである。

    襄公(紀元前572-543) 廿有9年 杞は夏の餘なり。

   東夷の即く。〇杞は夏の後裔であり東夷について

   (東夷の作法に従って)夷礼を行っている。


   これらの記述から夏王朝が「夷」族の人々が成した王朝であり、

  殷(商)や周の人々とは全くの異族であったことを証明している。

  つまり今日の表現でいえば、「夷族」は全く漢族ではなかった。

  史記の第6「陳・杞世家」においては以下のようになる。


   杞の東僂公は夏公禹の苗裔なり。殷の時或は封ぜられ、或は絶ゆ。

   周の武王殷紐に克ち、禹の後を求め、東僂公を得、之を杞に封じ、

   以て夏后氏の祀を奉ぜしむ〔禹の後は周の武王之を杞に封ず〕。


   これらの記述から夏王朝が「夷」族の人々が成した王朝であり、

  殷(商)や周の人々とは全くの異族であったことを証明している。

  つまり今日の表現でいえば、「夷族」は全く漢族ではなかった。

  史記の第6「陳・杞世家」においては以下のようになる。


   杞の東僂公は夏公禹の苗裔なり。殷の時或は封ぜられ、或は絶ゆ。

   周の武王殷紐に克ち、禹の後を求め、東僂公を得、之を杞に封じ、

   以て夏后氏の祀を奉ぜしむ〔禹の後は周の武王之を杞に封ず〕。


   さて「夷」字は古代のシナではどう発音されたのだろうか。

  白川静の「字通」に従えば[jiei]で、これは「夷」の初文(字)である

  「尸」[sjiei]の頭音[s]の脱落したものだという。

  「尸」の語義は「つかさどる」で「祭祀を司ことを尸という」とある。

  [sjiei]は興味深い。

  「史記」五帝本紀が「帝禹を夏后と爲す。而して氏を別って姓を姒氏」

  とある「姒」とはほとんど同音である。

  その語義は「あね」で「姉」と同義である。

  「娰」の発音は[ssu]である。

  新釈漢文大系より五帝本紀の当該部分を転記する。


   黄帝より舜・禹に至るまで皆同姓なり。

   而して其國號を異にして、以て明徳を章かにす。

   故に黄帝を有熊と爲し、帝顓頊を高陽と爲し、

   帝嚳を高辛と爲し、帝堯を陶唐と爲し、

   帝舜を有虞と爲し、帝禹を夏后と爲す。

   而して氏を別かって、姓は姒氏。

   契を商と爲す。姓は子氏。

   弃を周と爲す。姓は姫氏。

2015年7月10日金曜日

倭人

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (1)倭人

   「倭人」という呼称は日本人には『三国志魏志倭人伝』との

  通称によってよく知られている。

  この三国志とはシナの史書の一つで、紀元後2-3世紀に

  後漢の終末からの覇権争いで登場してきた勢力で、

  3世紀中シナ大陸を3分割して国をなした

  魏(220-265)、呉(222-280)、蜀(221-263)の

  三国の歴史にからむ記録を集めた史書で、

  「三国」とは魏呉蜀国をいう。

  実際はそれぞれ魏書・呉書・蜀書と別々の記述となっている。

  「倭人伝」はそのうちの魏書第三十にあるもので

  「東夷伝」の一節である。

  東夷伝のうちには「韓伝」、「弁辰伝」、「粛慎伝」などあり、

  「倭人在帯方東南大海中」との書き出しで始められている

  「倭」に関する記述で、

  当該部分を「倭人」といいならわしているのである。

  そこには現在の日本列島の一ちほうである「南方」についての

  情報と魏国との交通が記述されている。

   この「倭人」という記述は中国の史料のうちでは初めてではない。

  同東夷伝で引用書としている「魏略」に「倭人」との表記があり、

  三国志記述より古い時期とすることができる。

  さらに「漢書」地理志「燕地」のうちに「楽浪海中有倭人」との記述がある。

  この漢書地理志は紀元1世紀の成立で、三国志より古い時代で、

  日本の古代の呼称を「倭」、そこの人々を「倭人」と呼んだ

  最も古いものとされている。

  「倭」の呼称も魏書「韓伝」に

  「韓在帯方之南東西以海為限南與倭接」とある。

  また大分時代は下がるが、

  唐(紀元618-907)の歴史書である「唐書」には「日本古倭奴也」とあり、

  「倭」とは「日本」を指すことが通念であったことを示している。

  つまり、「倭人」とは「日本の人」の語義となる。

   ところでこの「倭」の表記は「日本」列島対象だけの呼称ではない。

  紀元前2世紀より古くからのシナの地理書「山海経」に

  その用語が表れており、その対象地域が大陸内を指している。

  その第十三巻「海内北経」に

  「蓋国は巨大なる燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」とある。

  紀元前の7世紀後半から

  「燕」は現在の北京市辺りから河北省天津市辺りまでを

  占めた勢力であった。

  「倭」はその南にして、さらに蓋国の南にあったということになる。

  「蓋国」の比定は現在不確かとなっているが、

  「倭」は山東半島から揚子江の河口付近江蘇省の黄海岸に

  あったと考えられる。

  特に准河河岸地帯に後に取上げる「准夷」がおり、

  「倭[wo]」と「准[huai]」は同音に近く

  そこも当該地に含めることができる。

  因みに「倭」はまた[ヰ]とも発音され、

  次に解説する「夷」とも同音である。

2015年7月7日火曜日

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (10)倭の養蚕の地

   「三國志魏書」倭人伝に

  「種木稲紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜」とあり、

  東洋文庫の解訳には

  「人々は稲や麻を植え、桑を栽培し蚕を飼って糸を緝績ぎ、

   細麻や縑や緜を産出する」とある。

  後漢書にもほとんど同じような文面があるが、

  これは「魏書」に倣って作成されたことが確実との評価である。

  三國志の時代は主に3世紀であるが、

  当時日本列島で養蚕が始まっていたのである。

  この養蚕の担い手も「和人」である

  「倭人」であったことが確実である。

  そしてその対象の地域は九州方面でしかない。

  同地域には哈尼族(あるいは彝族)の言葉による地名など

  養蚕に係わる解釈可能な用語が広くある。

  因みに、近畿方面には養蚕に係わる「倭語」はほとんどない。

   シナ、韓半島、日本に共通した「倭語」の名詞呼称の例は

  前に「黄帝」の別称「軒轅」で解説した「星」である。

  山海経に「列故射」あるいは「故射國」との記述がある。

  その「海内北経」に

  「朝鮮は列島の東の海、北山の南にあり、列陽は燕に属す。

   列故射は海の中にあり、故射國は海中にあり。

   列故射に属し、西南には山をめぐらす」とある。

  「列陽」は現在の山東省山東半島の内奥に「萊陽」市があり、

  いわゆる「萊夷」の地で北方は燕に接していた。

  「列故射」の「列」は倭語の[lug]の漢語音写で

  語義は「山」、「故射」は「コヤ」と訓み倭語の「星」、

  訓音「kea,hea」で当該語は「星山」である。

  その山及び「故射國[星国]」の所在地は、

  「朝鮮在列陽東」とあるように、

  列陽からみて東方に当たり、黄海の向うで、

  「列故射在海河洲中」との記述に習えば、

  いわゆる韓半島で、

  当時[紀元前5世紀以前]は「洲[島]」とみられており、

  そこに「星山」及び「星国」があったと解釈される。

  その当該地は韓半島南部になるが、

  実際に「星山」「星国」は古代から現在に至るまで

  地称と実在している。

  現在の慶尚北道の南道との境界にある

  伽耶山が「星山」で「高霊」が「星国」である。

  同山の北側に星州の町があるが、

  その辺りはかって星山郡であった。

  同地から南方の釜山市へ流れる川を「洛東江」と称すが、

  「洛」は「列」と同根の「山」なので、

  同江の語義は「伽耶山の東を流れる川[河]」となる。

  「三國史記」雑志第三には「康州」のうちに「星山郡」名を載せ、

  後〔紀元11世紀〕に加利県としたとある。

  また「高霊郡」を載せ

  「もと大伽耶国で、

   始祖の伊珍阿豉王より道設智王に至るまで16代520年。

   真興大王が侵略し滅ぼし、その地を大伽耶郡とした」とある。

  滅ぼされたのは562年で、

  紀元後すぐに起った国であったことが解かる。

  その中心勢力が倭人であったことに間違いない。

  「加利県」名は「三國遺事」で「伽落」あるいは「駕洛」などと

  表記された地称と同じで「星山」にして「伽耶山」を指している。

  「韓」を日本で「カラ」と呼称してきたのはこれに由来する。

   長崎県対馬にも「星山」はある。

  「上県」に大星山(峰町)と高野山(上県町)が

  町境を挟んで並立したいる。 

  「高野(こうや)」も「星」である。

  さらに日本列島内をみると、和歌山県伊都郡かつらぎ町に、

  伝承によると天から隕石が落ちてきたことから

  星山、星川の地称ができたという地区がある。

  「星」は「こうや:高野」であり、町名として成った。

  さらに愛知県の「名古屋」市名及び佐賀県呼子町の「名護屋」は

  双方とも語源を同じくし、

  「ナ[名]」は倭語の[ni]の音写で「霊」ないし「神」の呼称、

  「コヤ[古屋・護屋]」は「高野」と同じであり、

  同語は[神・星]で「星神」を表わす。

  これらの地名由来は韓半島及び日本列島へ倭人〔和人〕人が渡来し、

  その言葉を定着させた証拠である。
  
  さらに養蚕技法、

  また本書では説明対象としていないものの

  倭人が「水耕稲作」を伝えてきたとの証左になっている。

韓半島の養蚕の地

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (9)韓半島の養蚕の地

  シナ海沿岸地帯まで広まった養蚕は

 大陸内だけに納まっていなかった。

 紀元前後になると韓半島や日本列島へと普及していった。

 韓半島での史料的証拠はまず「後漢書」韓伝(東洋文庫による)に

 「馬韓人は養蚕の知識があり緜布を織ることができる」とある。

 「緜布」は「帛〔絹糸、まわた〕」、織物を表わす。

 馬韓は韓半島西南部で、同地には現在も「青洲」の地名があり、

 山東省の青洲の移転で、

 韓半島の蠶が同地方から移入されたもので、繭の形が俵型である。

 次に「三國史魏書」弁晋伝には

 「蚕を飼い桑を植えることを知っていて、縑布を作り~」とある。

 「縑」は「厚く織った絹の布」である。

 また紀元4世紀に入った「晋書」辰韓伝には

 「その地方は桑を栽培し、蚕を飼うのが盛んであり、

  縑布を上手に作る」と、

 次第に養蚕が拡充している様子が窺われる。

  ただし、養蚕の地は韓半島の南部に限られ、

 「三國志魏書」夫餘傳が

 「国外に出るときは絹織物、繡、綿織、毛織物などを重視する」と

 いうように北方にいた人々は「絹製品」は外から購うものであった。

  韓半島南部へ養蚕を持ち込んだのは「倭人」たちであった。

 彼等が移住植民してことにより「絹」の技術は移転されたのである。

 その記録が「三国史記」にある。

 同書は紀元11世紀に成ったものながら、定かではないが、

 参考となった古い史料があったとされている。

 そのうちの「新羅本紀第一」に「瓢公」という者が登場する。

 彼の出自について(東洋文庫による)

 「瓢公はその出身の氏族名を明らかにしていない。

  彼はもともと倭人で、

  むかし瓢(ひさご)腰にさげ海を渡って〔新羅〕に来た。

  それで瓢公と称したのである」といっている。

 つまり、彼はまさに海の向うから韓半島へ渡来した「倭人」なのである。

 また、第1代「始祖赫居世居西干」について

 「始祖のは朴氏で~」とあり、後段に

 「辰韓では瓢のことを朴という。

 〔始祖が〕地上に始めて現れた時の大卵が瓢のようであったので

 〔始祖の〕姓を朴とした」とある。

 「瓢」「瓠」とも「ひょうたん」のことである。

 シナの少数民族のうちに哈尼族・彝族ばかりでなく広い範囲で

 この「ひょうたん」に係る伝承が、

 各族の始祖伝承として「洪水」を絡めて言い伝えられている。

 その伝承が纏められているのが聞一多の「中国神話」〔東洋文庫〕で、

 45例を収集している。

 そのうちの26例が葫蘆〔瓠、瓢瓜〕瓜とある。
 
 その伝承の物語の大要は、

 大洪水が起こり、兄妹が葫蘆の中に入り水上を漂い、

 洪水が始まった後に夫婦となって子孫を増やすというもので、

 君島久子著「中国の神話」に「生き残った兄妹」の表題で

 ミャオ(苗)族の伝承として物語られていて参考になる。

 つまるところ「瓠」「瓢」は「倭人」の象徴なのである。

 そのことから解釈すれば、

 韓半島南部を最初に開発し開化させたのは「倭人」ということになる。

  既に述べた様に、紀元3世紀にの史料「三國志魏書」韓伝は

 「韓は帯方(郡)の南にあって東西は海をもって境界とし、

  南は倭と(境界)接している」といっている。

 この「倭」は韓半島の内部の地域を指し、

 「倭人」がそこにいたことを明言しているのである。

 「倭」日本列島の内とする解釈は妥当ではない。

 もしそういう概念であれば、その前段であえて

 「東西は海をもって境界とし」ではなく、

 「東西南は海をもって境界とし」というはずである。

 三国史記で「倭」は80数回の記述がある。

 その前半の多くは韓半島内の動きとした方がよいとかと考える。

 「倭人」は韓半島南部で永い間一大勢力であったのである。