2015年12月11日金曜日

武蔵国足立郡①


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 ≪武蔵国足立郡≫

 「延喜式」神名帳 武蔵国足立郡「アタチ」

 足立神社「アシタチ」 asi-立「剣-立」
           剣持(太刀持ち)=太刀持

 埼玉郡 前玉神社二座「サイタマノ」行田市埼玉

  "サキタマ" śakti-mat「剣-立」
   (Sk.)śaktimat 刀、槍を持つ、インドラ神の称

 足立神社:さいたま市浦和区上木崎5丁目

  社伝:開化天皇御代創立。
     延喜式内足立神社と口碑に伝承されている。
     又古来高塙明神社とも云い、
     古く当地方を高塙(高鼻)郷と称したことに
     因ると云われる。

     近世上木崎、下木崎、北袋、瀬ケ崎、針ヶ谷五村の
     鎮守の神として崇拝される。

  (現)祭神 猿田彦神、天鈿女命、天照皇大神他

  木崎【中世】木崎郷、戦国期にみえる郷村名。足立郡のうち

    :切っ先(剣、太刀の先端)

   上木崎遺跡(古墳時代中期)

   ※(電話帳)浦和区の東部に「小島」性の住民が多い。
    特に上木崎4、5、6、7丁目、本太、領家、太田窪など
    に安達、足立姓もあるが木崎には全くない。
    大宮区にも小島姓は多い。
    
    「コシマ」(Sk.) koti-mat 先端-持/剣持
         <島根県斐川町神庭宇夜谷など>

  「新編武蔵風土記稿」足立之九木崎領上木崎村

   高塙明神社 祭神猿田彦命當村及上木崎北袋瀬ケ崎針ヶ谷
         五村ノ鎮守ナリ境内=観音堂アリコレハ村民持

  猿田彦神"サルタ"
   (Heb.),סהַלִַיתִ,ShLYT,shalaiyti 支配者、領主、統治者、君主
  佐田彦神"サタ"
   (Heb.),סַתַ־,, sata- インドラ神の称名に与えられた表現
          (Sk.) śata-koti indra神の雷電など
   〇猿田彦神、佐田彦神の神妃は天鈿女神であり、
    双方が集合していることが解る。
        (鈿ウズ:(Sk.)usu 笑い、哄笑)

  前地:まえち(浦和区)本太(もとぶと)の小字名であった。
   「サキチ」(Sk.)śakti 剣、槍、刀
   太"フト"(Heb.),הָד,HD,hod 剣の切っ先、尖端」

 浦和(旧市名、地区名)〔三重県伊勢市浦口、猿田彦神社が鎮座〕
 「ウラカ」(Grk.)ξιψ-ουρος〔ksiphis-uragos〕刀鍛冶
  ουροςが浦和の祖語。
  ξιψ:ξιψος〔ksiphos〕剣:
   両刃で剣先の尖った直刀で長さは60cmほどのもの
   ξιψος:櫛引町(旧大宮市の町名)

 加茂神社(さいたま市大宮区宮原町)
  (Heb.),כַוֻר,KVR,kavur 溶鉱炉、かまど、
     鍛治公園(大宮区宮原町4丁目、鍛治遺構)

  芝(川口市西部で旧浦和市に接している)
  「シベ」(Heb.),סַיִה,SYF,sayif 剣、刀、サーベル
 
  羽窯(羽参呂)神社(川口市芝)「新編武蔵」"羽曾呂社"
  「ハソロ」(Heb.),כה(צה)ִסהֶל,KhShL,kh(ch)ishel
 (金属を)熱してハンマーでたたく、鍛えて形作る:鍛造=刀鍛冶
   
  伊刈力神社(川口市伊刈)
  (Heb.),ֶישַל לַהַו,HYXL LHV,eyxal lahav 「神殿ー剣の刃」
      HYXL 神殿、宮殿、殿堂
   LHV 剣の刃、炎、火炎

 木曽呂(川口市)
  「キソロ」(Heb.),כהִסהֶל,KhShl,khishel
  (金属を)熱してハンマーでたたく、鍛えて形作る:鍛造=刀鍛冶
  朝日神社(川口市木曽呂)(Heb.),סה,ASh,aesh 火災、炎

  前川(川口市)
   (Heb.),מַפֻכה,MPVKh,mapukh 鞴(ふいご)、送風器〔マエカ〕

  足立神社(旧大宮市飯田)
  ※氏子のお婆ちゃんがある本の報告の中で、
   木崎の方から移って来たと聞いている。(小島姓)


2015年12月8日火曜日

稲荷山古墳の鉄剣&前玉神社


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 ≪稲荷山古墳の鉄剣&前玉神社≫

 《稲荷山古墳の鉄剣》

  1978年、1968年出土していた鉄剣から銘文が発見された。

   ※金錯銘鉄剣(金象嵌されていた)

  「辛亥ノ年七月」
 
  乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居

  其児名多加披次獲居、

  其児名多沙鬼獲居其児名半弖比其児名加差披余

  世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左

  治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也

  〇辛亥ノ年 471年、531年の二説、前者が有力

  〇獲加多支鹵大王「ワカタケル」雄略天皇、大長谷若建命

  〇利刀:良く切れる鋭利な刀。利田(行田市の地名。カガタ)

  〇杖刀人の首「杖刀」は「刀を持つ、刀を立てる」の

    意と理解する。  

   刀を持って王に仕えた:太刀持/剣持

    ※大相撲横綱土俵入りの太刀持ちが象徴している。

   この氏族は剣持を役目としたので、その守護神として
 
    śakti-mat (剣持)である前玉神社を奉祭したのである。

  (1)意富比垝「オホヒコ」

   「意富」は太、飫富、於保とも表記された。

   『古事記』は「意富斗能地神:妹大斗乃辨神」

   『古事記』崇神天皇条

    「大毘古命を高志道に遣わし、其の子建沼河別命をば、

     東の方で十二道に遣はして、

     其の麻都漏波奴(まつろはめ)人等を

     和平さしめたまひき。」(四道将軍の一人)

    「オホ、ヲフ」(Sk.) aha 日、太陽、昼。

  (2)多加利足尼「オホカリ・スクネ」

    加利「カリ」(Sk.) cari 太陽

    足尼・宿禰に同じ。役職を表わす。

  (3)弖已加利獲居「テシカリワケ」
 
    獲居「ワケ」は別(わけ)

    「テシカリ」(Sk.) tejo-kara 光輝のもの。太陽を表わす。

  (4)多加披次「多のカワジ」

    埼玉郡川里村の「川」に係わるものと考える。

    村内の地区名「広田(ひろた)」の祖語を

    「コウダ/コウチ」とすることができる。
  
    大和国高市郡などと祖語を同じくするとみられる。

  (5)多沙貴獲居「多のサキ別」

    「サキ」前玉の「カキ」に係わる。

    北埼玉郡騎西町の上崎、下崎や武蔵七党のうちの

    「私(さき)党」名に係わり、

    この辺に屋敷などの関連があったのではないか。

  (6)半弖比「ハテイ」
  
    「ハテイ」(Sk.) patayati「飛ばす」pataya「太陽、鳥」

    「和名類聚抄」足立郡法度(はっと)郷、
 
    鎌倉時代「鳩井」、鳩=「ハト」、半弖比一族の開拓地

  (7)加差披余「カサハラ」「余」「尓」"子"の字義「本字爾」
    
    「カサハラ」は「笠原」で

    (現)鴻巣市と比企郡小川町のその地名がある。

    安閑天皇の時代(6世紀半頃)

    武蔵国造の地位をその同族の小杵と争った。
  
    笠原使主の名称として登場する。

    和名類聚抄には「埼玉郡笠原郷」と載る。

  (8)乎獲居「乎獲別臣」「オワケ」

    「オワケ」(Sk.) avarha 剣 

    この字義は「サキタマ」「杖刀人」に合致する。

 「前玉神社

  〇埼玉郡

   「和名類聚抄」の訓「佐伊太末」「佐以多萬」

   「万葉集」の東歌「佐去多萬」

   「山背国計帳」

    (正倉院文書の神亀3年<726>)「武蔵国埼玉郡」

    「サキタマ」が「サイタマ」に先んじていた。

    「サキタマ」本居宣長「幸魂・さきみたま」と説いた。

   〇「延喜式」神名帳 武蔵国埼玉郡「前玉神社二座」

    鎮座地(現)埼玉県行田市埼玉
  
     祭神:(現)前玉彦命、前玉姫命の二神

    忍(おし)【中世~】 asi (Sk.) 剣、刀

    長野(ながの)「オサノ」(Sk.) āsani

    須加 (Sk.) śuci(śucyah):雷光、雷電、雷電神社

    「サキタマ」(Sk.) śakti-mat

     「剣(刀)を持つ」:「剣持」「太刀持ち」:インドラ神

     śakti:力、技能、能力>刀、剣、槍、戈

     -mat(vat):持つ、見える

     「雷石」京都市伏見区の稲荷山のお山にある。

      またの名を「劔石」と称された。    

      インドラ神の武器、電光はまた「剣」と解釈された。

    佐谷田(さやだ)熊谷市佐谷田:「サコタ」śakti

    持田(もちだ)行田市持田:mat 、剣神社が鎮座

     ※佐谷田-持田 śakti-mat

      〔sam-kramana sam-k 寒川町、-krama- 倉見

       sa-k-ma- 相模さがみ<神奈川県>〕

    行田(ぎょうだ):幸田:「サキタ」śakti 剣、刀

     ※桜井市幸田の「幸田」

2015年12月6日日曜日

延喜式神名帳&和名類聚抄(足立郡・埼玉郡)


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 ≪延喜式神名帳&和名類聚抄(足立郡・埼玉郡)≫

 「延喜式」神名帳

 足立郡 4座(大1座・小3座)

  神名帳①

   社 名:足立神社

   読 み:アダチノ

   格  :小

   付 記:

  比定社

  社 名:足立神社

  所在地:さいたま市大宮区飯田・浦和区上木崎

  備 考:小嶋比定


 神名帳②

  社 名:氷川神社

  読 み:ヒカハノ

  格  :名神大

  付 記:月次新嘗

 比定社

  社 名:氷川神社

  所在地:さいたま市大宮区高鼻町

  備 考:埼玉県 武蔵国三宮のち一宮


  神名帳③

  社 名:調神社 

  読 み:ツキノ

  格  :小

  付 記:

 比定社

  社 名:調神社 

  所在地:埼玉県さいたま市浦和区岸町

  備 考:


 神名帳④

  社 名:多気比売神社   

  読 み:タケヒメノ

  格  :小

  付 記:

 比定社(1)

  社 名:城山神社/滝の城・本郷城

  所在地:所沢市城

  備 考:小嶋比定

 比定社(2)

  社 名:多気比売神社

  所在地:桶川市篠津

  備 考:小嶋比定


 埼玉郡 4座(並小)

 神名帳①

   社 名:前玉神社   

   読 み:サイタマノ

   格  :小

   付 記:

  比定社

  社 名:前玉神社

  所在地:埼玉県行田市埼玉

  備 考:


 神名帳②

  社 名:玉敷神社

  読 み:タマシキノ

  格  :小

  付 記:

 比定社

  社 名:玉敷神社

  所在地:埼玉県加須市騎西

  備 考:


  神名帳③

  社 名:宮目神社

  読 み:ミヤメノ

  格  :小

  付 記:

 比定社

  社 名:宮目神社:玉敷神社摂社同名

  所在地:埼玉県加須市騎西

  備 考:小嶋比定

 『和名類聚抄名抄東海道郡名一覧
 
  国名 郡名 記載郡名訓 推定郡名訓 備考

  武蔵 久良 くらき くらき
 
  武蔵 都筑 つゝき つつき  

  武蔵 多磨 たば たば 国府

  武蔵 橘樹 たちはな たちはな

  武蔵 荏原 えはら えはら

  武蔵 豊島 としま としま  

  武蔵 足立 あたち あたち  

  武蔵 新座 にひくら にひくら  

  武蔵 入間 いるま いるま  

  武蔵 高麗 こま こま  

  武蔵 比企 ひき ひき  

  武蔵 横見 よこみ よこみ 今吉見と称す

  武蔵 埼玉 さいたま さいたま  

  武蔵 大里 おほさと おほさと

  武蔵 男衾 をふすま をふすま
 
  武蔵 幡羅 (原) はら
  
  武蔵 榛沢 はむさは はむさは  

  武蔵 那珂 ― なか  

  武蔵 児玉 こたま こたま  

  武蔵 賀美 (上) かみ  

  武蔵 秩父 ちゝふ ちちふ


2015年12月4日金曜日

大倭神社と埼玉の神社


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 ≪大倭神社と埼玉の神社≫

 〇大倭神社(大宮区三橋)

  宗教法人大倭神社

   御祭神:素盞嗚尊、倉稲魂命、應神天皇、

       伊弉諾尊、伊弉冉尊、大日孁貴命、
 
       猿田彦命、建御名方命、市杵嶋姫命、

       保食命、菅原道真公、天照大御神、
 
       奥津比古命、日本武尊、少彦名命
 
  御由緒:当社は古来氷川神社と稱し、

      其由緒に関しては正確な資料は無いが、

      口碑の伝へによると、

      景行天皇の御代日本武尊が東征の途次、

      当地に足を駐め、

      素盞嗚尊を奉祀したと云はれ

      其後徳川時代正徳年間(1711~15)に

      時の地頭安藤治右ヱ門、代官中村左ヱ門、

      祢宜刑部等、力を合せ祠堂を横へ、

      神苑を埋めたりと稱せられ、

      明治六年(1873)四月村社となった。

      明治丗九年(1906)神社合祀令の発布により

      明治四十年地内大字本村無格社稲荷社、

       大字西谷津無格社八雲社境内社三峯社、

       字扇島無格社稲荷社、字下手無格社八幡社、

       字八幡下無格社八幡社、字神明無格社神明社、

       仝庚申社、字西耕地無格社須賀社、

       仝境内社諏訪社、同字無格社嚴島社、

       字花ノ木無格社庚申社、仝稲荷社、

       同村大字側ヶ谷戸字間ノ谷村社天神社、

       仝境内社神明、荒神、御嶽、疱瘡合社、

       仝稲荷社仝三峯社の十七社を合祀。

       明治四十三年(1910)四月氷川社の社号を

       大倭神社と改称す。

  ※石碑神社合祀記
   神社ぐだぐだ参拝録

  大宮市指定有形民俗文化財 大倭神社の庚申塔
 
   所在地 大宮市三橋六-四一一
 
   指 定 昭和四十八年一月五日
 
  この辺りは江戸時代には上下内野村と呼ばれていた地域で、

  ここには村の鎮守である氷川神社が祀られています。

  明治四十年に村内の社を合祀し、

  同四十三年に社名を大倭神社と変更、現在に至っています。
 
  平安時代頃から宮中で行われていた庚申信仰は、

  江戸時代になって庶民の間に広まります。

  六十日に一回の庚申の日に寄り合い信仰を行いますが、

  心づくしの料理を持ち寄っての

  庚申信仰は大きな楽しみでもあったことでしょう。

  この庚申塔は、

  江戸時代中期の享保六年(1721)三月に

  当村上組の人々により造立されたもので、

  二五六cmの高さ、造形美などで市内で最も優れた

    庚申塔です。

  青面金剛像が傘の上に坐し、

  塔身中央には愛らしい二童子が彫られています。
  
  現在は、氏子総代が年末に注連縄を張り替え、

  お守りされています。

  将来にわたり伝えていきたい庚申塔です。
 
  昭和六十三年三月。

 〇氷川神社:埼玉県さいたま市大宮区高鼻町
  由緒:氷川神社は社記によると今から凡そ二千有余年、
     
     第五代孝昭天皇の御代三年四月未の日の御創立と

     伝えられます。

     御祭神、須佐之男命は天照大御神と月読命とともに

     伊弉諾命から生まれた三貴子の一神で、

     八俣大蛇退治など力強く雄々しい神として

             知られております。
    
     大己貴命は須佐之男命の御子に坐して国土を

     天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)に御譲りになられた

     国土経営の神です。

     稲田姫命は須佐之男命の御妃で

             大己貴命の御母神です。

     この御三神をここにお祀りされたのは

     国土経営、民福安昌祈願のためであって、

     大和朝廷の威光が東方に及ぶにつれて、

     当神社の地位も重くなったと考えられています。

     神社の鎮座する地は、大宮台地の上にあり、

     その中でも鼻のように高く突き出た位置にある為、

     一帯の地名は高鼻町と呼ばれます。

     かつて神社の東側には見沼と呼ばれる

             広大な湖沼があり、

     豊かな土壌を形成する元となっておりました。

     「神沼」、「御沼」とも呼ばれた見沼は

     正に豊かな恵みを与えて下さる

             神聖な水をたたえた湖沼で、

     江戸時代に開発された見沼溜井は周囲約39キロに及ぶ

     大貯水池でした。

     現在境内にある神池は見沼の名残であるといわれ、

     神域の蛇の池からの湧水が豊富に注がれております。

     地理的な点から見ても、見沼をひかえ土地は肥沃で

     東西南北に交通の便もよく、人々は益々繁栄し

     今日の基をなすに至ったものと思われます。

     第十二代景行天皇の御代、

             日本武尊は当神社に御参拝し

     東夷鎮定の祈願をなされたと伝わっております。

     第十三代成務天皇の御代には出雲族の兄多毛比命が

     朝廷の命により武蔵国造となって氷川神社を奉崇し、

     善政を敷かれてから益々当社の神威は輝き格式を

     高めたと伝わります。

     今から凡そ千二百年前の聖武天皇の御代には

     武蔵一宮と定められ、醍醐天皇の御代に制定された

     延喜式神名帳には名神大社として、

     月次新嘗案上の官幣に預かり、

     又臨時祭にも奉幣に預かる等、

     歴朝の崇敬を殊の外厚く受けてまいりました。

     また武家時代になっては、鎌倉・足利・北条・徳川氏等

     相次いで当社を尊仰し、治承四年源頼朝公が

     土肥次郎実平に命じて社殿を再建、

     文禄五年八月には徳川氏が

             伊奈備前守忠次を奉行として

     社頭残らずを造営せしめ、

     寛文七年三月には阿部豊後守を奉行として

     社殿の建立をしております。

 〇中川・諏訪神社さいたま市見沼区中川

  〇日進神社さいたま市北区日進町

   境内では毎年除夜の鐘が厳寒の空に響きわたるころから、

   「日進餅つき踊り」として市の指定(無形民族文化財)を

   受けている伝統ある餅つき踊りが威勢よく始められる。 

  〇武国(ぶこく)神社さいたま市北区奈良町

  〇南方神社さいたま市北区吉野町

  〇東光神社埼玉県吉見町江和井

  〇八雲神社埼玉県北本市石戸





   

大倭神社(日本創世紀)


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」


 ※出典:日本創世記:185・186頁

  (4)ヤマト:「大倭」「倭国」「大和」「倭姫命」「日本」

  前記(3)で紹介した YMYT 〔海人〕が

 また「ヤマト」との表音になっている。

 日本史上の諸資料に「ヤマト」呼称で登場する漢字表記は

 「大倭」「倭国」「大和」「倭姫命」「日本」の5例である。

 前の二者は奈良盆地での呼称用語である。
 
 「大倭」の由来は、本書(日本創世紀)第4章で紹介したように

 本来「オウハ」で abha〔光、光明〕の音写で、

 また、「大和」は「ダイファ」で、

 第6章で「崇神」の語義であることを紹介した。

 両表記とも当て字で、「やまと」とは読めない。

 「ヤマト YMYT:海神」は伊都国の東漸した人々が勢力圏とした

 和歌山県〔紀伊国〕伊都郡(橋本氏など奈良県との境界)に

 入った人々がまた奈良盆地に移住定着して同地を

 「ヤマト」と呼び慣らしたことから始まった用語である。

 伊都郡内にある「久度山」はそこにそういう山名も

 ないことからしても「クドヤマ」はヘブライ語の

 KDYM 音写で「東の、東方」の語義で、当地が「東方の伊都」を表わし、

 九州の伊都国の勢力が東方へ伸張してきたことをすでに示した。

  また『古事記』、『日本書紀』に「海人」の確かな情報が

 「大倭」の由来として記述されている。




 

2015年11月9日月曜日

大倭神社「さいたま市三橋」と櫛引・浦和


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 《大倭神社「さいたま市三橋」と櫛引・浦和》

  ―倭姫命〔伊勢神宮〕で解るその語源と背景―
 
 1.大倭神社「さいたま市大宮区三橋6丁目」

 2.神社境内の案内「古来氷川神社」

  (1)明治43年4月氷川神社の社号を大倭神社と改称
 
  (2)創始伝承(口碑)

   ”景行天皇の御代日本武尊が東征の途次当地に

    足を駐め素盞鳴尊を奉祀”

  (3)祭神(第一祭神)素盞鳴尊、その他

 3.所在地「三橋:みつはし」の由来

 4.倭姫命の本名「千千倭姫命」

  ※「チチツキ」の祖語と語義及び「ミツハシ:三橋」 

  ※『日本書紀』の倭姫命伝承

 5.付近の地名「櫛引」「浦和」

 6.素盞鳴尊〔須佐之男命〕を奉祭した族類
   
 7.氷川神社奉祭を奉祭した一族「兄多毛比命〔武蔵国造〕」

 8.「大倭」「櫛引」「浦和」の祖語と関係

 9.「和名類聚抄」武蔵国足立郡:アダチ「足立」の語義

 10.「和名類聚抄」武蔵国埼玉郡:サキタマ「埼玉」の語義

 11.「ヨノ:与野」の祖語と語義

  このさいたま市三橋に鎮座する神社の呼称「大倭」名は

 周囲の様子に合わず何とも不思議です。

 そこで古代の資料や同社の口伝などを参照して

 その由来を検討してみました。
 
 本来は明治43年に「大倭」と改称したという。

 しかし、

 なぜその時そう改変したのかの理由は明らかでありません。

 考えられるのは同社の氏子たちに元々は「ヤマト」だとの

 思いがあったのだろうということです。

 何しろその創始伝承に

   「日本〔ヤマト〕武尊」がいるのですからね。

 次に注目すべきは氷川神社[高鼻町]の奉祭氏族の有力者

 西角井家の祖兄多毛比命の族類に係わりがあります。
 
 その祖族名に係わるのが「ヨナ:与野」です。

 また「アシ立:足立」や「サキタマ:埼玉」の由来を
 
 正確に理解すれば「クシビキ:櫛引」の理解ができ、

 「ヤマト:大倭」との関係が理解できます。

 ※参考
      Matのジオログ


  

2015年10月13日火曜日

魏書倭人章の諸国地理:不弥国


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 日本創世記

 第2章 魏書倭人伝の諸国地理

     ―邪馬台国時代の国際性―

  (7)不弥国

  奴国(博多湾)から東方へ百里行った処と説明している。

 当該地を抽出するのに役立つ要件は福津市(旧宗像郡福間町)の

 海岸寄りに小さな区域ではあるが、「有弥の里」とあることにある。

 同地は古賀市との境界にあり、

 同市内に続く海岸地は「花見」と称される。 

 「有弥の里」を奴国の「奴」同様サンスクリット語で解釈すると

 ariya-bhumi〔アーリア人の里〕であり、

 「不弥」の「フミ」は bhumi の音写で、

 同地がインドのアーリア人の系の居留地だったとの示しである。

 末廬国などと比して同地には

 船が着くのに適当な岸壁などはないが、広い砂浜があり、

 船はそこに乗り上げるようにして正面から突き上げるのである。

 紀元頃の古代船は現代のような巨大船で、

 砂浜に突込んでも破損するような馬力もなかった。

 風力を頼りに航行する速力の低い規模の小さいものであった。

 「花見」は「カミ」ではあるがまた「ホミ」で bhumi〔里〕の転訛である。

 同地には、

 古賀市内に小鳥神社〔市内久保〕や千鳥との地名があるように

 インドのバラモン教系の「儺:放生会」信仰がうかがわれる。

 古賀市名の「コガ」がサンスクリット語の khaga で「鳥」が源義である。

 倭人章が「千餘戸」と記す通りそう広い領域ではなかった。

 ここで注目しておきたのは、

 日本海玄界灘側にもインド・アーリア人の貿易商人が

 大規模ではないが進出して来ていたことである。

 次いで倭人章が記すのは「南至投馬國水行二十日」である。 

2015年9月19日土曜日

伊都国の背景〔「イト」の語義と由来〕


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 ≪伊都国の背景〔「イト」の語義と由来〕≫

   「伊都国」とは魏志倭人章に記載された国名である。

 本書第2章「(5)伊都国」で述べた国である。

 前節「(6)」旧約聖書イザヤ書の地の果ての島々」に
 
 ヘブライ人が作った居留地〔国〕である。

  「伊都名」は『日本書紀』仲哀天皇8年に

 「伊覩」と表記されて登場している。

 「筑紫の伊覩県主の祖である五十迹手(いそとて)」 

 「~そこで五十迹手をお褒めになられて

  『伊蘇志』と仰せられた。

  そこで時の人は五十迹手の本土を名付けて伊蘇国といった。

  いま伊覩というのは訛ったものである。」

  この「五十迹手」とある

 「イソトテ」は IShT-YT〔差し出す・手〕で

 「(救いの)手を差し延べる」「~を援助する」。

 次の「伊蘇志」は「イソシ」で IZZ の音写で「勇敢、力」ながら、

 ここでは「栄光、誉れ」の語義で「栄誉なことだ」となる。

 また「伊蘇」だけみると YShV (動詞形)は
 
 「入植地を作る」「開拓する」「定住させる」で、

 YShV (名詞形)は「入植地、定住地」となる。

 このように解釈してくると「伊覩・伊都」の「イト」は、

 離散したヘブライ人が各地に形成した

 「共同体」を表す IDH の音写と判断できる。

 しかし、

 その背景にはヘブライ人たちの重要な民族の由来を

 保証するための祈りがある。

 つまり IDH と表音が近似する YD があり、

 それは「記念物、記念碑」にして「証拠」「証左」が

 語義であることに係わる。

 その経緯を物語っているのが「ヨシュア記」で、

 その物語はかなり込み入っているので略記する。

  この「記念物」はヘブライ人の人々がエジプトを脱出し

 カナアン地方などへ入植した後、

 その12支族のうちガド族、マナセ族、ルベン族が

 エルサレムの祭壇とは別に祭壇〔石塚〕を造り、

 他の支族等と争いになりそうになったが、

 最終的にはヨシュアを中心とする他の支族が

 誤解を解いて納得した。
 
 ヨシュアはガド族などに

 「律法と戒め」の記念物を与えたと解釈され、

 ガド族等は

 それは紀元前8世紀のアッシリアへの捕囚や

 その後の放浪の間も彼らの象徴として保持しつづけ、

 「地の果て」のまでもたらし、

 時として石塚〔岩倉・岩山〕を造営したのである。

 その記念は彼等の最高に貴重な、

 しかし隠し通さなければならないものであった。

 
  ヨシュア記
  
  第22章10 ルベンとガドの人々およびマナセの半部族は

   カナンの土地にヨルダン川のゲリロトに着いたとき、

   そこに一つの祭壇を築いた。

   それは目立って大きい祭壇であった。
 
  第22章34 それでルベン族とガド族はその祭壇を

   「まことにこれは私たちの間で主が神で

    あるという証拠だ」と呼んだ。(日本聖書協会)

   この「証拠」あるいはミルトス社版が

 「証人」としているヘブライ語が ID である。

 この ID:証拠〔YDは証人〕こそ「伊都〔伊覩〕」の祖語であり、

 特にヘブライの12族のうちの

 ルベン族、ガド族 、マナセ族にとっては

 彼等がヘブライ〔イスラエル〕人の

 仲間であるとの証拠にして象徴なのである。

 「祭壇」人がノミを入れた彫み石で組まれたものでない。

 自然の石を積み上げた石塚であった。

 倭人章の伊都国の当該地が現福岡県の糸島市だとは

 すでに述べた。

 その市内西方「神在」の宮地嶽頂上に

 宮地嶽神社が鎮座しているが、

 その神殿の基壇は石組されたもので

 「石塚」を踏襲しているといってよい。

 因みに「宮地」の「ミヤチ」の祖語は MYTV で

 「最高のもの」「最良のもの」を表し、

 「証拠」に係るものがその昔奉祭されていたと解釈できる。

  これらが証明するところは

 「伊都国」がヘブライ人たちの「居留地」だったということである。

 前市名であった「マエバル:前原」は MIBRA の音写で

 「渡し場」つまり「港」を表し、ヘブライ系海洋貿易商船が

 船付けした所となる。

 古代紀元前後の頃は玄界灘からの加布里湾が

 今よりずっと内陸まで入り込んでいて、

 「浦志」とか「泊」辺りまで海で、

 湾内は波も静かで船溜りとして適しい状況であった。

  和歌山県の(現)橋本市辺りは紀伊国の「伊都郡」であるが、

 郡内にある町名「九度山」は

 そのような山(岳)名もないことからしても

 「クドヤマ」はヘブライ語の KDYM の音写で

 「東の、東方の」の語義である。

 つまり当地が「東の伊都」との表れで、

 九州の伊都の勢力が東方へ伸張してきたことを示している。

 ≪参考≫
 
 第2章「(5)伊都国」

  現在の福岡県糸島市の地が中心で、

 奈良時代に「恰土」と表記された地である。

 ここは紀元前2世紀頃から「絹」を求めて渡来した

 ヘブライ商人たちの居留地である。

 さらに倭人章は続けて「東南至奴國~有二萬餘戸」とある。

2015年9月13日日曜日

ガドの子供とその氏族の日本での族性


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 ≪ガドの子供とその氏族の日本での族性≫

  A ○「旧約聖書」創世記第46章

    16 ガドの子らはゼボン、ハギ、シュニ、エヅボン、

      エリ、アロデ、アレリ。

    ○The Holy Bible:King James Version "Genesis"46

     16 And the sons of Gad; Ziph'-on, and Haggi, shuni, and

        Ezbon, Eri, and Ar'odi, and Ar'li.

     ○ヘブライ語聖書〔死海本〕:ベレシート(創世記)46

       ※ヘブライ語略

   16 そしてガドの子はツィフヨンとハギ、シュニとエツボン、

     エリとアロディとアルエリであった。

  B ○「民数記」第26章

   15 ガドの子孫は、その氏族によれば、

    ゼボンびとの氏族が出る、ハギからハギびとの氏族がで、

    シュニからシュニびとの氏族が出、

   16 オズニからオズニびとの氏族が出、

    エリからエリびとの氏族が出、

   17 アロドからアロドびとの氏族が出、

    アレリからアレリびとの氏族が出。

   18 これらはガドの子孫の氏族であって、

    数えられた者は四万五百人であった。

   〔出エジプトの後もモーセによって

    カナンへ渡来した人々の説明の段:民数〕

   ○ The Holy Bible:King James Version "Numbers"26

     15 children of Gad after their families:of Zephon,

        the family of the Ze'phonites:of Haggi,

        the family of the haggites:of Shuni,

        the family of the Shunites:

     16 of Ozni, the family of the Oznites:

        of Eri, the family of the Erites:

     17 of Arod, the family of the Ar'odites:

        of Ar'eli, the family of the Ar'elites.

     18 these are the families of the children of Gad

        acconling to those that were numbered of them,

        fortythousand five handred.

  C 日本に渡来したガド族の後裔

  (1)ツィフヨン,תסִfִיָנ,TsFYVN,tsifiyon

      セボン:塩冶族(出雲市塩冶町<旧塩冶郷>神門郡の中心)

  (2)ハギ,כהֶגִי,KhGY,khegiy

      ハギ:物部氏(饒速日命の後裔、銅鏡・銅矛の製造技師集団)

  (3)シュニ,סהֻנִי,ShVNY,shuniy

      シュニ:秦氏(弓月の後裔、太秦<京都府>、洪水をおさめた)

  (4)エツボン:,ֶתסֶבָנ,ATsBN,etsebon

      エヅボン・オズニ:江角氏(出雲市大津町<旧朝山郷>阿須利神社)

  (5)エリ:,ִֶרִי,IRY,ieriy

     エリ:阿利神社(出雲市塩冶町) 、江田、大土神社・平(出雲市平野)

  (6)アロディ,ַרָדִי,ARVDY,arodiy

    アロド:八俣遠呂智族(オロチ)、大呂、原田(佐田町)

  (7)アルエリ,ַרֶֶַלִי,ARALY,areaeliy

      アレリ:オ師子様(久伊豆神社<埼玉県>)、有原町(出雲市有原町)

2015年9月12日土曜日

イスラエルの十二支族及びガド族


 出典:歴史学講座『創世』:歴史研究家「小嶋 秋彦」

 ≪イスラエルの十二支族及びガド族≫

  〔十二支族〕

                                   ┌ルベン Reuben רֶֻבֶנ
  アブラハム             │
    │                       ├シメオン Simeon סִמֶָנ
    イサク─ヤコブ ──┤
           〔イスラエル〕├レビ Lebi לֶבִ
                                  │ 
                                  ├ユダ Judah דַה
                                  │
                                  ├ダン Dan דַנ
                                  │
                                  ├ナフタリ Naph'tarlï נַפהאתַרל
                                  │
                                  ├ガド Gad גַד
                                  │               
                                  ├アセル Asher ַסהֶר
                                  │
                                  ├イッサカル Is'sachar ִסאסַצהַר
                                  │(イサカル)
                                  ├ゼブルン Zeb'ulun זֶבאֻלֻנ
                                  │
                                  ├デナ Dinah דִנַה
                                  │(ディナ)
                                  └ヨセフ Joseph יָסֶפה


   〔ガド Gad גַד 族〕

                                  ┌ゼポン Ziph'ion [TsFVN] זִפהאיָנ
                                  │(ツィフヨン) Σαπων
                     ├ハギ Haggi [KhGY] הַגגִ   
                                  │             Αγγιζ
                     ├シュニ Shuni [ShVNY] סהֻנִ
                     │            Σαυνζ
                                 ├エツボン Ezbon/Ozni [ATsBN]ֶזבָנ 
                    │             Οζνιβον/オズボン
                                 ├エリ Eri [IRY] רִ
                    │            Αηλιζ
                    ├アロデ Arodi [ARVDY] ַרָדִ   
                                  │(アロディ)  Αροηδιζ
                     └アレリ Are'li [ARALY] ַרֶאלִ
                 (アルエリ)  Αρεηλδιζ

    (1)「旧約聖書」創世紀第30章

    「日本聖書教会」

     9 さてレアは自分が子を産むことのやんだのを見たとき、

      つかえめジルバを取り、妻としてヤコブに与えた。

     10 レアのつかえめジルバはヤコブに子を産んだ。

     11 そこでレアは、「幸運がきた」と言って、

       名をガドと名づけた。

   (2)申命記第31章

     30 そしてモーセはイスラエルの全民衆に次の言葉を、

       ことごとく語り聞かせた。

        申命記第33章

     20 ガドについては言った。

       "ガドを大きくする者はほむべきかな。"

      ガドはししのように伏し、

      腕や頭の頂をかきさくであろう。

     21 彼は初穂の地を自分のために選んだ。

       そこには将軍の分も取り置かれていた。

       彼は民のかしらたちと共にきて、

       イスラエルと共に主の正義と審判とを行った。

   (3)The Holy Bible:King James Version "Deuteronomy" 33

        20 And of Gad he said, Blessed be he that ennlargeth

          Gad: he dwelleth as a lion, and teareth the arm

          with the crown of the head.

        21 And he provided the first part for himself,

          because tyere, in a portion of the lawgiver,

          was he seated, and he came with the heads

          of the people, he executed the justice of the Lord,

          and his judgements with Israel.

   (4)「ギリシャ語聖書

    ①創世記第30章

     9 Και συνελαβεζφα η παιδισκη

      Aειαζ, και ετεκε τω Ιακαβυιον.

        10 Καιειπε Aεια, εν Τυλη και

      επενομαδε το ονομα αντον,

           Ταζ.

    ②申命記第33章

     20 Καιτω Γαζειπεν,  ενλογηενοζ

       Ταζ ωζ λεαν.

         21 ενεπανσατο, συντριψαζ

            Bραχονα Και αρχοντα.

            Και ειδεν απαρχην αντον,
 
      οτι εκει εμερισθη ση

            αοχοταν συνηγμενεν αμα

            ανχηγοιζ λαων

            δικαιογυνην Κνριοζ

            εποιησε, Και κρισιν

            μετα Ισραηλ.