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《調(つき)神社と岸》
「新編武蔵風土記稿」巻之百四十二・足立郡之八
岸(キシ)村
小名 天神臺、十蓮字、元宮、大黒ヶ谷、
虫ヶ谷、御蔵入、岸ノ下、
岸ノ前、宮ノ西、宮ノ東、宮ノ北、
宮ノ後、中道、中丸、
御蔵蹟
(一に蔵山と云、此地に御林六段五畝十二歩あり、)
神社 調神社
本社 石神社、蔵王社、稲荷社、第六天社、
天神社、神明社
「社寺戸籍部、社寺、明2372-2」:別添
調神社~伊勢の大御神の末社なる調御倉社~
「埼玉叢書」第六巻 調神社:別添
"神祇寶典"、"経延考證"、"信友考證"、"覈録"、
"武蔵国式内四十四神社命附"、"巡禮舊神祀記"、
"新記巻四十二"
「角川歴史地名辞典」浦和市小字名:別添
浦和宿〔のうち〕岸の下、重蓮寺、岸、御蔵山、
虫ヶ谷戸、
下宿、大黒ヶ谷戸、元宿、宮前、第六天前、
下木崎村〔のうち〕皇山(クラヤマトホリ)通、
皇山(クラヤマ)
「日本歴史地名大系」埼玉県
下木崎村、皇山町(コウザンチョウ)
○御室社は江戸時代には
三室(みむろ)明神社と称し、
領家村の鎮守であった。
※調神社の七不思議
鳥居がない。
境内に松の木がない。
御手洗池にすむ片目の魚
祭神の使い姫は兎
日蓮上人駒つなぎの欅
蝿がいないの七つ。
意味不明のものも多いが、
鳥居がないのは、
伊勢神宮に奉納する貢物を運び出すのに
邪魔になるから。
また、日蓮上人駒つなぎの欅には
文永八年(1271)上人が佐渡へ流される途中、
難産に苦しむ土地の女性を救うため、
駒をつないで祈ったという謂われがある。
神社のご神木とされている。
「先代舊事本紀」国造本紀
无邪志国造、志賀高穴穂朝世」、
出雲臣祖名二井之宇迦諸忍之神狭命十世孫
兄多毛比命、
定一賜国造
「新撰姓氏録」出雲国神別
出雲臣 同 天穂日命之後也
土師宿禰 天穂日命一四世孫野見宿禰之後也
「古事記」天菩命の子建比良鳥命
此は出雲国造、无邪志国造、
上兎上国造、下兎上国造、
伊自牟国造、津島県直、遠江国造が祖なり
『出雲国造』
┌ 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
│
│ 出雲国造始祖 2世 3世
├ 天穂日命───武夷鳥命─伊佐我命(櫛瓊命)─
天照皇大神─┤
├ 天津彦根命
│
├ 活津彦根命
│
└ 熊野櫲樟日命
天穂日命-武夷鳥命-伊佐我命(櫛瓊命)-津狭命(津佐命)-櫛瓺前命-櫛月命-
櫛瓺鳥海命-櫛田命-知理命-世毛呂須命-阿多命-氏祖命-襲髄命-
来日田維命-三島足奴命-意宇足奴命-国造宮向臣-国造布奈臣-国造布禰臣-
国造意波久臣-国造美許臣-国造叡屋臣-国造帯許臣-国造千国臣-
国造兼遺臣-国造果安臣-国造広島臣-国造弟山臣-国造益方臣-
~43代(OR47代)-
清孝┬孝宗(千家氏)-直国-高国-~
│
└貞孝(北島氏)-資孝-幸孝-~
※「ホヒ」「ボヒ」:穂日・菩卑
BOH(boh):BOUS(bous)の複数形 牛
「ヒナトリ」比良鳥、夷鳥
HNI-TAUROS(hni-tauros)牡牛を駆る。
「ノミ」野見
NOMH(nomi)牧草地、牧草 NOMEUS(nomeus)牧者
「タモイ」兄多毛比
〔兄多毛比命には弟多毛比命という"弟"があった〕
DAMAIS(damais)馬を馴らす者
DAMAS-IPPOS(damas-ippos)
〔馴らす-馬〕馬を馴らす。
※无邪志国造
兄多毛比命の後裔は、浦和・大宮地域を支配した。
氷川神社[さいたま市大宮区高鼻町]の奉祭氏族
西角井家はその後裔
「調」
貢物を朝廷へ呈出語義である。
「租・庸・調」の制は、紀元671年後
律令制度が始められてのものであり、
調神社が伝承として伝える
崇神天皇時代などには無かったものである。
「調」とは朝廷が各地[国]より徴収した「物品」で、
その地方の特産品が多かった。
「続日本紀」巻六。和銅六年(713年)5月 元明天皇
癸酉(十一日)
相模、常陸、上野、武蔵、下野の五国の輸す調、
元来是れ布なり、今より以後、絁、
布並びに進らしむ。
「続日本紀」巻七。霊亀二年(716年)5月 元正天皇
辛卯(十六日) 駿河、甲斐、相模、上総、下総、
常陸、下野の七国の高麗人
千七百九十九人を以って武蔵国に遷し、
高麗郡を置く。
※調宮は、和銅6年の朝廷の方針によって施けられた
「調」の物品を集荷・収納しておくための
「倉」「蔵」で」あった。
「延喜式」巻二十四」、主計上
○延喜901~923年(平安時代)
武蔵国 調、緋帛六十丈、紺布六十丈、
黄帛一百丈、紺布九十端、
縹布五十端、黄布卌十端、
自餘-輸絁、布
庸、輸布
★8世紀初頭には全くなかった
朝廷への貢物の「絁」が
平安時代10世紀初頭にはこのように大量の
「絁」・「帛」が送(輸)られるようになった。
◎「調」を「ツキ」と称するのは、
この地〔武蔵〕以外には無い。
无邪志国造 兄多毛比命を粗とする人々の用語
「ツキ」 taksis 割当(量)、査定
※朝廷が徴収する物品の「割当」:「調」
taksos [植物] イチイ
つまり"イチョウ"銀杏を指す。
※調神社境内には銀杏が多い。
「槻」ツキ:「欅」ケヤキの一種
※調神社境内には欅の木が多い。
※調神社の境内・敷地の形状が中仙道側が一番広い。
イチョウの葉の形に似て、奥が狭くなっている。
「ツキ」 theki 容器、箱
apo-theki 倉庫、穀倉
※「ツキ」は「倉」「蔵」を表わす。
「新編武蔵風土記稿」 御蔵入、御蔵蹟[蔵山]:
岸村の小名
「社寺戸籍部・社寺」~調御倉社~
「角川歴史地名大辞典」 御蔵山:浦和宿の小字名
「岸」キシ:カシ[河岸]
<広辞苑>河川の岸の舟から
人または荷物を揚げ降ろす所。
海や湖の岸にも謂う。
「キシ」 öxìthi〔えきし〕高み、川岸、川堤、堀の土手
oxthos〔おきそす〕高み、丘、塚、川岸、陵墓
xoos〔こおす〕積み上げられた土
xow〔こおう〕(塚)を築く
<複数形>xousi〔こおうし〕積み上げる、盛り上げる
※「岸きし」の本来の語義は「蔵」を建てるために
築かれた「丘」、
つまり、「積み上げられた土塁」である。
「角川歴史地名大辞典」の
浦和宿の小字名「御蔵山」の「山」に当たる。
「ヤバ(矢場)」あるいは「弓場」
yupha 〔ゆぱ〕高い所
※(現)浦和公園の区域には、
小高い丘(塚)が築かれ、
その上に「蔵」が建てられていたのである。
同地は大宮大地の南端で、
北、東、南は崖になっていて、
侵入が難しく、安全上適地であった。
この「蔵」は高床式建物とすれば、
建物の支柱を土中に埋めて、
より堅固なものとしたものとも考えられる。
◎下木崎村(旧)の御室社の「室」は「蔵」の別称で、
当地の「皇山」町名の「皇こう」は
上記の xoos、xow の音写で、
ここにも何らかの「蔵」が
建てられていたのであれば、
その土塁である「丘」が「山」と
通称されたものであるし、
調神社の信仰者の地であれば、
その性格を取り入れたものである。
「続日本紀」巻三十一 光仁天皇
宝亀二年(716年)十月
己卯<廿七>。
太政官奏。
武蔵國雖属山道。
兼承海道行使繁多。
ネ+弖供難堪。
東山驛路。
従上野新田驛。
達下野國足利驛。
此便道也。
而枉従上野國邑樂郡。
經五ヶ驛。
到武蔵國事畢去日。
又取同道向下野國。
今東海道者。
従相模國夷参驛。
達下総國。
其間四驛。
往還便近。
而去此就彼損害極多。
臣等商量。
改東山道。
属東海道。
公私得所。
人馬有息。
奏可。
◎掘津郷 「和名類聚抄正」武蔵國足立郡 「発度」
※同郷は当地のこと、
(現)白幡沼、別所沼」と「沼」名になっている
この「系流」はかって荒川へと繋がる「堀」で
あったと推測され、
調神社の根元域に船着場、
つまり「津」が設けられ、
そこから調宮の「蔵」で集荷・収納された
物品「調」が舟によって運ばれた時期が
あったことを示している。
睦神社[浦和区白幡]
「ムツ」「ムツノ」 medoh 支配者、
medou 守護する、支配する
※この神社の地所に「調」を管理監督する役目の
「支配者」が居た
白幡番場、「番場」は「番所」と同義
根岸[浦和区、睦神社の近く、白幡の東隣り]
ネ[根] nau 船、ネ岸 ここに船着場があった
堀津の「津」は、"みなと"つまり「船着場」の語義
※岸町の西方に「西堀」の町名がある。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ
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