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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―
司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)
秦①
〔西畤(せいじ)〕
周が、殷に勝って後、14代(12代?)で、
世は益々衰え、礼楽は廃れ、諸侯は勝手な振舞いをし、
幽王(ゆうおう)は犬戎(けんじゅう)に破られて、
周室は東の方雒邑(らくゆう)に移った。
〔その時〕秦の襄公が犬戎を攻めて周を救い、
始めて諸侯の列に加えられた。
秦の襄公は候として西方の辺地にいることになると、
少皥(しょうこう)の神(金天氏、西方の神)を
司るものと自分で考えて、
西畤(西方の神をまつる祭壇)を作って白帝(西天の神)をまつり、
その生贄には、黒いたてがみを持った赤馬・黄牛・牡の羊、
それぞれ一匹を用いたという。
〔鄜畤(ふじ)〕
それから16年(14年?)のち、
秦の文公は東の方へ行き汧水(けんすい)・渭水(いすい)の
辺りで牧狩りをしたとき、
その辺りに定住することの吉凶を占ったところ、吉であった。
文公が夢に、黄色の蛇が空から垂れ下がって地面を這い、
その口が鄜(陝西省の鄜県)の坂道に止まっているのを見た。
文公が史敦(しとん)に意見を求めると、
敦は、
「それは上帝の仮のお姿です。わが君!お祭りをなさいませ!」
と申しあげた。
そこで鄜畤(鄜の祭壇)を作り、三つの生贄(牛・羊・豕)を用いて、
白帝に郊の祭りを捧げた。
〔雍畤(ようじ)〕
その鄜畤を作る前から、雍(陝西省鳳翔県)の辺りには、
もともと呉山の南の武畤(武の祭壇)があり、
雍の東には、好畤(好の祭壇)があった。
いずれも廃れて、祭りは行われなくなっていた。
次のようなことを言う人もいる。
「昔から雍州の産地は、
神が隠れていますのに格好の土地がらゆえ、
祭壇を築き上帝を祀ったもので、
神々を祀る祠(祀りを行う場所)が、
みな集まったものだといわれる」
おそらく黄帝の時に何か行われたことがあり、
そんな言葉が経書に見えるという事実もないので、
有識者は語らないことである。
〔陳宝(ちんぽう)〕
鄜の祭壇を作ってから9年後に、
文公は石のようなものを手に入れ、
陳倉(陝西省宝鶏県の東)の北阪城でそれを祭った。
するとその神は、ある年には、やってこないかと思うと、
またある年には幾たびもやってくる来るのであった。
来るにはいつも夜に乗じてやって来る。
光り輝くものが流星のように東南から来て
祠域(まつりをしている北阪城)に集まると、雄鶏のような姿になり、
鳴き声が響き渡るにつれて、野生の鶏が夜泣きをする。
一牢(牛・羊・豕の三牲)の生贄を供えてまつり、
(この石のようなものを)陳宝(陳倉県の宝物)と名づけた。
〔伏詞〕
それから14年(13年?)後、秦の繆公(ぼくこう)が立った。
病の床について5日間眠りつづけ、
眠りから覚めるとやっと口を開き、
「夢で上帝のお目にかかったところ、
上帝はこのわしに晋(しん)の乱を平らげよとの仰せであった」
と言う。
史官はこのことを書きとめ、記録として内府に閉まっておいたが、
後の世の人たちはみな、
「秦の繆公は天に昇られたたのだ」と
言い伝えたものである。
《参考》
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
(アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている)
牛頭を象った神社建築の棟飾部
本生図と踊子像のある石柱
Tell Arpachiyah (Iraq)
Tell Arpachiyah (Iraq)
ハラフ期の土器について
ハブール川
ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
ARPACHIYAH 1976
高床式神殿
牛頭を象った神社建築の棟飾部
神社のルーツ
鳥居のルーツ