2011年12月18日日曜日

絹の道(倭錦):エリュトゥラー海案内記・『第5節・第6節』



ブログ:古代史ブログ講座「古代メソポタミアから大化の改新まで」

出典:PERIPLUS MARIS ERYTHBAEI
エリュトゥラー海案内記
エジプト生まれの商人がギリシヤ語で書いたA.D.1世紀
村川堅太郎:訳注 中央公論新社103~105&155~159頁

『第5節』

また約800スタディオン距てて別の非常に深い湾があり、

その入口の右手には多量の砂の堆積があって、

その中の深い処に埋もれてその地方のみに産するオプシアノス石が見出される。

これらの地方はモスコパゴイ〔のところ〕から別のバルバロイの地方まで

ゾースカレースという王が支配しており、 

彼はその財産に関してかったりしており、それを殖やすことに努めているが、

その他の点では上品でギリシアの文物も解っている。

※注釈

「非常に深い湾」

今日の Howakil 湾。

オプシアノス石

Plinius N.H.XXXVI 67§196 sq. には Obsianum として見え、

普通非常に黒く、宝石としてのほか立象用に用いられ

インドにもイタリアのサムニウムにもイスパニアにも産したと記している。

英語の Obsidian (黒曜石、十勝石)はこれと同一らしい。

「別のバルバロイの地方」

『第2節』に見えるバルバリケー地方に対す。

「ゾースカレース」Zoskales

アビシニア年代記中の Za Hakale に比定されている。

Salt はその在位に従い紀元76~79年としたが同年代記は遥か後世の作で信頼し難く、

この王の在位年代により本書の成立年代を決定することは不可能である。

Schoff p.9;66-67.

『第6節』

これらの場処にはエジプト産のバルバロイ向きの晒していない上衣、

アルシノエー産の婦人服と混紡で色染めの兵士用外套と亜麻布と二重縁付きの外套と

ガラス及び別のディオスポリス産の「瑠璃製品」の数種、

また装飾として、或いは切り刻んで貨幣の代わりに用いられる真鍮、

また料理道具や、切り刻んで一部の婦人の腕環や足環に用いるられる銅塊、

また象やその他の野獣の狩猟及び戦争に使われる槍の材料としての鉄が輸入される。

同様に小斧や手斧や短刀や円形で大型の銅製飯器や

在留者のための少数のデーナーリウス貨幣やラーオディナイケイアー産

並びにイタリア産の葡萄酒少量と少量のオリーヴ油とが輸入される。

王にはその地方特有の形に造られた銀器や金器や、

衣服では本物であるが大した価格ではない軍人外套と皮衣とが輸入される。

同じくアリーアケーの内地からインドの鉄や銅鉄や、

やや広幅のインド産木綿でモナケーと呼ばれるものやサグマトゲーナイや

帯や皮衣やモロキナや少量の上質綿布や着色のラックも輸入される。

これらの土地からは象牙と亀甲と犀角とが輸出される。

エジプトからの輸出品は大部分、1月から9月の間に、

即ちテュービの月からトートゥの月までに、この取引処に運ばれるが、

9月頃にエジプトを出航するのが適当の時期である。

※注釈

「アルシノエー」Arsinoe

今日のスエズ湾の入り口のスエズ付近にプトレマイオス二世が建設し、

王の姉で王妃となったアルシノエーに因んで命名した。

王はこの市と Nile 河の Pelusion 河口との間に運河を設けたので、

商港として、また隊商路の集中点として大いに繁栄した。

Strabo N.H. XXII c.804;Plinius N.H.VI33§166 sq.;Diodrus I 33.

しかし本書の頃には商港としては昔日の重要性はなかった。

「ガラス」Plinius N.H. XXXVI 65§191 によればガラスは

フェニキア海岸で偶然に発明されたことになっているが、

実は古くエジプト人の発明にかかり、世紀前1世紀の末頃

アレクサンドリアで「ガラス吹き」の技術が発見され、

本書の時代には新製法によるガラス器が南方原住人の好奇心を満たしていた。

「ディオスポリス」Diospolis

この名を帯びた町はナイル河に沿うて数個あったが、

その一つの「大ディオスポリス」(Diospolis Magna)即ち有名な古都テーバイであろうか

(Fabriciuys, Schoff)

「瑠璃製品」

これは本物の瑠璃ではなくて、

エジプトフェニキアで多く造られたガラス製の模造品らしい。

ゆえに「別の」と付け加えてある。

本物の瑠璃については 『第49節』の註「縞瑪瑙と瑪瑙」を看よ。

「料理道具や」ει τε εψησιν「煮るための義」。

Fabricius「鋳溶かすため」の義にとっているが一般の訳に従った。

「銅塊」

μελιεψθα χαλχα μελιεψθοζの字は本書以外の古典には見えぬ。

蜂蜜製菓子の形をした銅板(Muller,Schoff)とか、

蜂蜜色の銅塊(Fabriciuys)などと推定されている。

「デーナーリウス貨幣」

ローマのDenarius金銀貨。

帝政初期から本書の頃まで金貨(denarius aureus)は40分の1ローマポンド

即ち8グラム余、純分96%以上。

銀貨はその約半分の重みで純分98%以上の良貨であった

(Mommsen,Gesch.d.romischen Munzwesens.1860 S.750-760)。

但し Mommsen がインドに輸出されたアウグストゥスの貨幣は

殆ど総て金、銀を被せたものだったとしている。

(S.726;760)のは今日の出土品から観て訂正を要する。

詳しくは『第49節』の註「ローマ貨幣について」を看よ。

「ラーオディナイケイアー」Laodikeia

シリアの有名な港市。

セレウコス一世の建設にかかり、その母の名に因んで命名された。

Strabo XVI c.752 によるとこの市の背後の山は頂上まで葡萄が栽培され、

葡萄酒の名産地であったが、その大部分はアレキサンドリアに向け輸出されていた。

実は同市を経て紅海岸、インドにまで輸出されたことは本節及び『第49節』が示している。

「イタリア産の葡萄酒」

本書に見える貿易品中でイタリア半島の産物と明らかに記された唯一の品。

この頃のイタリア半島は貿易の上では明らかに輸入超過の状態に在ったが、

ぶどう栽培のみはすこぶる盛んであったことがは、

1世紀後半のドミティアーヌス帝が穀物生産の不足を憂いて、

イタリアに於ける葡萄園新設を禁じたのでも明らかである。

もっとも帝はこの勅令を励行しなかった。(suetonius Domitianus.7,2;14,2)、

本書『第49節』によればイタリアの葡萄酒はインドのバリュガサでも多量に輸入されている。

「皮衣」γανναχαι χανναχαι

恐らくペルシア系の言葉(Frisk p.43)。

ペルシア、バビロニア産の毛皮外套或いは羊毛製のその模造品。

「アリーアケー」

『第41節』の註「アリーアケー」を看よ。

インド西北部で今日の Cutch, Kathiawar, Gujarrat Cutch, Kathiawar, Gujarrat辺。

「インドの鉄や銅鉄」Plinius N.H.XXXIV 41§145 には東方貿易品としての鉄では

「セーレスの送る鉄が最も優れ、バルティアーのがこれに次ぐ」とある。

セーレスは絹を産する人々でシナ西北部を指したと一般的に解されているが

Schoff p.172 はこれをインド西南部と解している。

但しかく解しても本節の「アリーアケーの内地」というのには合わない。

インドの鉄が帝政期にローマ帝国に送られたことは

Digesta XXXIX 4,16,7の東方貿易の課税品目に挙げられていることで明らかである。

「インド産木綿」

οθονιον Ινδιχον οθονιον は一般に織布を指す。

次のモナケー、サグマトゲーナイ、モロキナについては

Lassen III S.24 ff. はモナケーは再優良綿布、サグマトゲーナイは最劣等品、

モロキナは中等品と解している。

「上質綿布」σινδοναι(写本)。

一般の校訂者は σινδονεζ に改めている。

この字は本来ヘブライ語の Shadin、アッシリア語の Sindu からの借用語で

Lassen III S.23 ff. その他梵語の Sindhu に由来すると解して

「インド織」の義にとった者もあったが今日は認められない。

Shadin、Sindu は上等の亜麻布を意味したが本書では

この字は常に綿布の意味で使われている。

なおLassen  a.a.O. はこれを特にありふれた綿布を指したと解したが、

本書『第48節』、『第51節』、『第62節』の用法から推すと

これはむしろ誤のようである。

ゆえに本訳ではすべて「上質綿布」と訳した。

「着色のラック」

文字通りには「着色のラック」であるが Lassen III S.31 も Fabricius も

「ラック染めの布」の義にとっている。

テュービの月」τνβι

エジプトの月名。

今日の12月27日から1月25日まで。

トートゥの月」θωθ

同じく8月29日から9月27日まで。


《参考》

海上交易の世界と歴史
『エリュトラー海案内記』にみる海上交易


サウジアラビア紹介シリーズ
3.1.6「エリュトゥラー海航海記(Periplus Maris Erythraei)」
『エリュトゥラー海案内記:関連地図』

古代東西交通路(Warmingtonによる)
「案内記」に見える地名の比定地図
インド洋のシルクロードの始まり
紅海沿岸
地中海東岸
アフリカ北東岸
アラビア半島南岸


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