2011年12月11日日曜日

絹の道(倭錦):エリュトゥラー海案内記・『第1節』



ブログ:古代史ブログ講座「古代メソポタミアから大化の改新まで」

出典:PERIPLUS MARIS ERYTHBAEI
エリュトゥラー海案内記
エジプト生まれの商人がギリシヤ語で書いたA.D.1世紀
村川堅太郎:訳注 中央公論新社101&150~152頁
解説・増田義郎

紀元1世紀なかばの南海貿易について、

無名の商人が書き記した貴重な文献を、

ヨーロッパ古代史の碩学がギリシア語から訳出。

平明達意な訳文と、

周到厳密な解説・訳注によって、

紅海・インド洋をまたがり活発に行われた交易の様子が

いきいきとよみがえる。

『第1節』

エリュトゥラー海の指定された停泊地や同海岸の商業地の中、

最初のはエジプトの港ミュオス・ホルモスである。

その次には更に航海して行くと1800スタディオンを距てて

右手にべルニーケーがある。

以上両地の港はエジプトの果てに在り、エリュトゥラー海の湾である。

※注釈

エリュトゥラー海」 Ερνθρα θαλασσα 「紅海」の義

この名の古い用例としてはPindarのPythian Odes Ⅳ 251に

ποντζερνθροζ の形で見えており、

Herodotusでは Ⅱ11:Ⅱ 158-159;Ⅳ 42 に ερνθρη θαλ の形で使われている。

この名の由来については赤道付近の太陽光線による海面の色に基くとするもの、

赤い水を注ぐ泉があるとするものなどのごとく自然現象により説明を試みた者と、

Erythrasなる名祖に因むとする者とあった。

様々の説明は Agatharcides, De mari Erythraeo §2 sq.;StraboXVIc.779 に詳しい。

なお Strabo Ic.23 に引用された Aeschlus の断片参照。

近代の説明としては brugsch Ebers, Wiedmann, Ed. Meyer 等

一致してエジプト人が彼らの国であるエジプトの「黒い地方」に対比してリビュア、

アラビアを「赤い地方」と呼んだのに基くと解している。

即ちエジプト系の名であり、通訳によりギリシア人に知られたものとなされている。

(Berger, "Ερνθρα θαλασσα" in RE, 1909 Tu,pei, "Erythras" in RE, 1909)。

因みに本書時代に「紅海」と呼ばれたのは

今日の紅海のみならずインド洋までも含んだ広い海域であった。

このことは本書の記述一般、特に〔38節〕にインダス河を以って

エリュトゥラー海最大の河川と述べていることで明かである。

また〔63節〕にクリューセー(マライ半島)が

エリュトゥラー海で最も優秀の亀を産するとあり、

本書作者はベンガル湾をもエリュトゥラー海の中に含めていたとせねばならない。


「指定された停泊地」αποδειγμενοι ορμοι

本書〔4節〕、〔21節〕、〔35節〕に見える

εμποριον νμιμον (法律指定の取引処)と同じ。

この指定はいうまでもなく政府が関税を取るためでプトレマイオス家時代のエジプトに

「インド洋並びにエリュトゥラー海長官」があり、

(Dittenberger, Orientis Graeci Inscriptiones Vol.Ⅰ Nr. 186,190)、

また「エリュトゥラー海徴税官」もあったことが知られている。

(Dittenberger Nr. 202)。

ローマ帝政期クラウディウス帝の時に Annius Plocarnus なる者が

エリュトゥラー海徴税の利権を国庫から与えられていたことが Plinius N.H. VI 24 § 84に見える。

なお19節参照。


「ミュオス・ホルモス」Myos Hormos 「貽貝(いがい)港」の義。

Muller,Schoff により Abu Somer(27°12'N.35°55'E.)と呼ばれる岬の内の港に比定されたが、

今日は Abu Shar 27°33'N. とされる。

付近には古代の遺跡も存する(H.Kees,RE.s.v.)。

Strabo c. 769 によれば「アプロディーテーの港」とも呼ばれ、

1世紀の頃南海商品のエジプトへの輸入港として繁栄し、

商品は此処から6、7日の旅程離れたナイル河畔のコプトスを経て

アレクサンドリアに運ばれた。

ミュオス・ホルモスとコプトス及び註(5)のペレミーケーとコプトスとの間には

諸処に鑿井、天水貯水池を設け商賣に便していた(Strabo c. 815)。

なお序説に引用せる Strabo c. 118 の記事参照。


「スタディオン」οταοιον ギリシア人の距離の単位。

ローマ人のマイル(Mille passuum)が4,854フィートで一定せるに反し、

スタディオンは長短様々のものが行われていた。

即ちローマのマイルに対する割合を基準にして見るとき

(1) 7 1/2 stadion がこれに当たるいわゆる Philhetairos の stadion、

(2) 8 1/3 がこれに当たるもの、

(3) 8 stadion がこれに当たる Stadium italicum (これはしばしば使用された)、

(4) 1/9 Roman mile のもの、

(5) 1/10 Roman mile のいわゆる Eratosthenes の stadion、

(6) 1/5 mile の stadium Pythicum、

(7) フェニキア起源でプトレマイオス一世によりエジプトに採用された 1/7 mile のものがある。

なおオリンピアの競走路(stadion)は197.27mであるが、

これは距離単位としては―通俗に説かれるところは誤で―何らの役割を演じなかった

(Lehmann-Haupt,"Stadion(Metrologie)"in RE.1929)。

Schoff は本書作者の stadion はエラトステネースのそれかと想像しているが

上記(7)のものであるまいか? 但し本書の距離数の記事は何ら正確な測定によるものでなく

航行の所要時間に基く推定であったろうと思われる。


「ベルニーケー」Bernike

本来はBerenikeであるがmuller,Friskとともに写本の俗語形を採用した。

プトレマイオス二世ピラデルポスの建設。

その母の名に因みBerenikeと呼ばれた。

Plinius N.H.VI26§102-103によればコプトスからは12日の旅程で、

この間諸処に貯水所が設けられていた。

プリーニウスは東方貿易を述べるに際しベルニーケーをエジプト側の出発地としており、

ストゥボーンの頃にはュオス・ホルモスが主要港であったが、

その後ベルニーケーがこれに代わったごとくである。

Warmington p.7. 今日の Umm-el-Ketef 湾(23°55'N.35°34'E.)の所で、

遺跡が存する。

サウジアラビア紹介シリーズ
3.1.6「エリュトゥラー海航海記(Periplus Maris Erythraei)」
『エリュトゥラー海案内記:関連地図』
古代東西交通路(Warmingtonによる)
「案内記」に見える地名の比定地図
インド洋のシルクロードの始まり
紅海沿岸
地中海東岸
アフリカ北東岸
アラビア半島南岸


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