2011年12月18日日曜日
絹の道(倭錦):エリュトゥラー海案内記・『第5節・第6節』
ブログ:古代史ブログ講座「古代メソポタミアから大化の改新まで」
出典:PERIPLUS MARIS ERYTHBAEI
「エリュトゥラー海案内記」
エジプト生まれの商人がギリシヤ語で書いたA.D.1世紀
村川堅太郎:訳注 中央公論新社103~105&155~159頁
『第5節』
また約800スタディオン距てて別の非常に深い湾があり、
その入口の右手には多量の砂の堆積があって、
その中の深い処に埋もれてその地方のみに産するオプシアノス石が見出される。
これらの地方はモスコパゴイ〔のところ〕から別のバルバロイの地方まで
ゾースカレースという王が支配しており、
彼はその財産に関してかったりしており、それを殖やすことに努めているが、
その他の点では上品でギリシアの文物も解っている。
※注釈
「非常に深い湾」
今日の Howakil 湾。
「オプシアノス石」
Plinius N.H.XXXVI 67§196 sq. には Obsianum として見え、
普通非常に黒く、宝石としてのほか立象用に用いられ
インドにもイタリアのサムニウムにもイスパニアにも産したと記している。
英語の Obsidian (黒曜石、十勝石)はこれと同一らしい。
「別のバルバロイの地方」
『第2節』に見えるバルバリケー地方に対す。
「ゾースカレース」Zoskales
アビシニア年代記中の Za Hakale に比定されている。
Salt はその在位に従い紀元76~79年としたが同年代記は遥か後世の作で信頼し難く、
この王の在位年代により本書の成立年代を決定することは不可能である。
Schoff p.9;66-67.
『第6節』
これらの場処にはエジプト産のバルバロイ向きの晒していない上衣、
アルシノエー産の婦人服と混紡で色染めの兵士用外套と亜麻布と二重縁付きの外套と
ガラス及び別のディオスポリス産の「瑠璃製品」の数種、
また装飾として、或いは切り刻んで貨幣の代わりに用いられる真鍮、
また料理道具や、切り刻んで一部の婦人の腕環や足環に用いるられる銅塊、
また象やその他の野獣の狩猟及び戦争に使われる槍の材料としての鉄が輸入される。
同様に小斧や手斧や短刀や円形で大型の銅製飯器や
在留者のための少数のデーナーリウス貨幣やラーオディナイケイアー産
並びにイタリア産の葡萄酒少量と少量のオリーヴ油とが輸入される。
王にはその地方特有の形に造られた銀器や金器や、
衣服では本物であるが大した価格ではない軍人外套と皮衣とが輸入される。
同じくアリーアケーの内地からインドの鉄や銅鉄や、
やや広幅のインド産木綿でモナケーと呼ばれるものやサグマトゲーナイや
帯や皮衣やモロキナや少量の上質綿布や着色のラックも輸入される。
これらの土地からは象牙と亀甲と犀角とが輸出される。
エジプトからの輸出品は大部分、1月から9月の間に、
即ちテュービの月からトートゥの月までに、この取引処に運ばれるが、
9月頃にエジプトを出航するのが適当の時期である。
※注釈
「アルシノエー」Arsinoe
今日のスエズ湾の入り口のスエズ付近にプトレマイオス二世が建設し、
王の姉で王妃となったアルシノエーに因んで命名した。
王はこの市と Nile 河の Pelusion 河口との間に運河を設けたので、
商港として、また隊商路の集中点として大いに繁栄した。
Strabo N.H. XXII c.804;Plinius N.H.VI33§166 sq.;Diodrus I 33.
しかし本書の頃には商港としては昔日の重要性はなかった。
「ガラス」Plinius N.H. XXXVI 65§191 によればガラスは
フェニキア海岸で偶然に発明されたことになっているが、
実は古くエジプト人の発明にかかり、世紀前1世紀の末頃
アレクサンドリアで「ガラス吹き」の技術が発見され、
本書の時代には新製法によるガラス器が南方原住人の好奇心を満たしていた。
「ディオスポリス」Diospolis
この名を帯びた町はナイル河に沿うて数個あったが、
その一つの「大ディオスポリス」(Diospolis Magna)即ち有名な古都テーバイであろうか
(Fabriciuys, Schoff)
「瑠璃製品」
これは本物の瑠璃ではなくて、
エジプトやフェニキアで多く造られたガラス製の模造品らしい。
ゆえに「別の」と付け加えてある。
本物の瑠璃については 『第49節』の註「縞瑪瑙と瑪瑙」を看よ。
「料理道具や」ει τε εψησιν「煮るための義」。
Fabricius「鋳溶かすため」の義にとっているが一般の訳に従った。
「銅塊」
μελιεψθα χαλχα μελιεψθοζの字は本書以外の古典には見えぬ。
蜂蜜製菓子の形をした銅板(Muller,Schoff)とか、
蜂蜜色の銅塊(Fabriciuys)などと推定されている。
「デーナーリウス貨幣」
ローマのDenarius金銀貨。
帝政初期から本書の頃まで金貨(denarius aureus)は40分の1ローマポンド
即ち8グラム余、純分96%以上。
銀貨はその約半分の重みで純分98%以上の良貨であった
(Mommsen,Gesch.d.romischen Munzwesens.1860 S.750-760)。
但し Mommsen がインドに輸出されたアウグストゥスの貨幣は
殆ど総て金、銀を被せたものだったとしている。
(S.726;760)のは今日の出土品から観て訂正を要する。
詳しくは『第49節』の註「ローマ貨幣について」を看よ。
「ラーオディナイケイアー」Laodikeia
シリアの有名な港市。
セレウコス一世の建設にかかり、その母の名に因んで命名された。
Strabo XVI c.752 によるとこの市の背後の山は頂上まで葡萄が栽培され、
葡萄酒の名産地であったが、その大部分はアレキサンドリアに向け輸出されていた。
実は同市を経て紅海岸、インドにまで輸出されたことは本節及び『第49節』が示している。
「イタリア産の葡萄酒」
本書に見える貿易品中でイタリア半島の産物と明らかに記された唯一の品。
この頃のイタリア半島は貿易の上では明らかに輸入超過の状態に在ったが、
ぶどう栽培のみはすこぶる盛んであったことがは、
1世紀後半のドミティアーヌス帝が穀物生産の不足を憂いて、
イタリアに於ける葡萄園新設を禁じたのでも明らかである。
もっとも帝はこの勅令を励行しなかった。(suetonius Domitianus.7,2;14,2)、
本書『第49節』によればイタリアの葡萄酒はインドのバリュガサでも多量に輸入されている。
「皮衣」γανναχαι χανναχαι
恐らくペルシア系の言葉(Frisk p.43)。
ペルシア、バビロニア産の毛皮外套或いは羊毛製のその模造品。
「アリーアケー」
『第41節』の註「アリーアケー」を看よ。
インド西北部で今日の Cutch, Kathiawar, Gujarrat Cutch, Kathiawar, Gujarrat辺。
「インドの鉄や銅鉄」Plinius N.H.XXXIV 41§145 には東方貿易品としての鉄では
「セーレスの送る鉄が最も優れ、バルティアーのがこれに次ぐ」とある。
セーレスは絹を産する人々でシナ西北部を指したと一般的に解されているが
Schoff p.172 はこれをインド西南部と解している。
但しかく解しても本節の「アリーアケーの内地」というのには合わない。
インドの鉄が帝政期にローマ帝国に送られたことは
Digesta XXXIX 4,16,7の東方貿易の課税品目に挙げられていることで明らかである。
「インド産木綿」
οθονιον Ινδιχον οθονιον は一般に織布を指す。
次のモナケー、サグマトゲーナイ、モロキナについては
Lassen III S.24 ff. はモナケーは再優良綿布、サグマトゲーナイは最劣等品、
モロキナは中等品と解している。
「上質綿布」σινδοναι(写本)。
一般の校訂者は σινδονεζ に改めている。
この字は本来ヘブライ語の Shadin、アッシリア語の Sindu からの借用語で
Lassen III S.23 ff. その他梵語の Sindhu に由来すると解して
「インド織」の義にとった者もあったが今日は認められない。
Shadin、Sindu は上等の亜麻布を意味したが本書では
この字は常に綿布の意味で使われている。
なおLassen a.a.O. はこれを特にありふれた綿布を指したと解したが、
本書『第48節』、『第51節』、『第62節』の用法から推すと
これはむしろ誤のようである。
ゆえに本訳ではすべて「上質綿布」と訳した。
「着色のラック」
文字通りには「着色のラック」であるが Lassen III S.31 も Fabricius も
「ラック染めの布」の義にとっている。
「テュービの月」τνβι
エジプトの月名。
今日の12月27日から1月25日まで。
「トートゥの月」θωθ
同じく8月29日から9月27日まで。
《参考》
海上交易の世界と歴史
『エリュトラー海案内記』にみる海上交易
「サウジアラビア紹介シリーズ」
(3.1.6「エリュトゥラー海航海記(Periplus Maris Erythraei)」)
『エリュトゥラー海案内記:関連地図』
古代東西交通路(Warmingtonによる)
「案内記」に見える地名の比定地図
(インド洋のシルクロードの始まり)
(紅海沿岸)
(地中海東岸)
(アフリカ北東岸)
(アラビア半島南岸)
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2011年12月12日月曜日
絹の道(倭錦):エリュトゥラー海案内記・『第2節・第3節・第4節』
ブログ:古代史ブログ講座「古代メソポタミアから大化の改新まで」
出典:PERIPLUS MARIS ERYTHBAEI
「エリュトゥラー海案内記」
エジプト生まれの商人がギリシヤ語で書いたA.D.1世紀
村川堅太郎:訳注 中央公論新社101~103&153~155頁
『第2節』
これらの右手に当たりベルニーケーに引続いてバルバリケー地方がある。
その海に面する部分はイクテュオバゴイの土地で、
彼らは峡谷に散在して造られた組木小屋の中に住んでいる。
内地はバルバロイと更に奥地のアグリオパゴイとモスコパゴイとに属し、
彼らは酋長に支配されている。
彼らの背後の内地に西の方に当たって(メロエーと呼ばれる首邑がある)。
※注釈
「バルバリケー地方」Barbarike
ギリシア人は夷狄の民を指して Barbaroi と呼んだが、
バルバリケーは「夷狄の地方の義」
「イクテュオパゴイ」ichthyophagoi
「魚を食う人々」の義。
魚を主要食とする原住民。
彼らの習俗については Agathacies 31 sq. に詳し。
「アグリオパゴイ」Agriophagoi
「野獣肉を常食とする人々」の義。
「モスコパゴイ」Moschophagoi
「草木の若芽を常食とする人々」の義。
Μοσχοζ には「子牛」と「若芽」との両義があるが此処は後者の意に解すべし。
「メロエー」Meroe
エジプト新王国末期(世紀前8世紀末)に起こったヌビア王国の最後の首都。
本書の時代には既に荒廃しかけていた。
Atbara 河のナイル河への合流点の南で北緯16°55′の
Begerawieh がその跡に比定されており、相当の遺跡がある。
『第3節』
モスコパゴイの次には……約4,000スタディオン離れて
「狩猟のプトレマイオス」と呼ばれる海沿いの小さな商業地があり、
プトレマイオス家の時代には王の狩人たちは此処から内陸に這入って行った。
この商業地は本物の陸亀を少量とこれより甲羅の小さい白亀を産する。
また此処では時には少量ながらアドゥーリ産のものに似た象牙が見出される。
此処は港がなくてただ軽舟のみ近づくことが出来る。
※注釈
「……の部分」写本には το περαζ τηζ αναχδμιζ とあるが復原困難。
「狩猟のプトレマイオス」Πτολεμαιζ η των
Strabo XVI C. 770 によれば
プトレマイオス二世により送られた Eumedes なる者が建設した。
本文に見える通り、ヘレニズム時代に象が軍事的に重用された頃、
象狩のために設けられたが、象が戦術的価値を失った後には商港となった。
詳しくは序説に引用せる Rostovtzeff の論文 S.301 ff. 参照。
その正確な位置は諸説あって定まらない。
「アドゥーリ産」
次節註「アドゥーリ」をみよ。
『第4節』
「狩猟のプトレマイオス」の後には
約3,000スタディオン離れてアドゥーリという法定の商業地がある。
南に入り込んだ深い湾の最奥部から大海の方に向かって約200スタディオン離れており、
その両側に陸地が迫っている。
今では入港する船は陸地からの〔原住民の〕襲撃のためにこの島に停泊する。
というのは以前には船は湾の最奥部の陸地に近い所に在る
いわゆるディオドロースの島に停泊していたが、
この島には陸地から徒歩で渡って来る通路があり、
この通路によって此処に住む原住民らが島を攻撃したからである。
そしてオレイネー島に面する陸地で海から20スタディオンのところにアドゥーリがあり、
中くらいの村で、此処から内地の町で
第一の象牙取引地たるコロエーまでは3日の道のりである。
此処からアクソミテースと呼ばれる主邑までは更に5日の道のりで、
ナイル河の彼岸からの象牙は総ていわゆるキュエーネイオンを通じて此処に運ばれ、
此処から更にアドゥーリに運ばれる。
殺される象や犀は全部内陸の地に棲息し、
時たまには海岸地方でアドゥーリ付近でさえ見受けられる。
この商業地の全面に当たり、
大海中の右手に別の小さな、砂の多い島が多数横たわっており、
アラライオスの島と呼ばれて亀を産し、
この亀はイクテュオパゴイにより取引処に運ばれる。
※注釈
「アドゥーリ」
写本η 'Αδονλει Frisk に従う。
Trogodytai 地方の最重要港。
Plinius N.H.VI 34 §172 sq. 参照。
その位置は今日の Annesley 湾の西岸で、
昔の名を伝えたと思われる Azule 15°20′N. の地に遺跡がある。
「法定の」νομιοζ
『第1節』の註「指定された停泊地」参照
「オレイネー」Oreine[山島(オロス)]の義。
今日の Desset の小島に比定される。
「ディオドロースの島」Diodoros
今日全く存せず、陸続きとなったらしい。
「コロエー」Koloe Ptolem. IV 7.8 にも同名の市が見える。
Bent により今日の Kohaito に比定されている。(Schoff註)
「アクソミテース」Axomites
Frisk により写本に従う。
Ptolem. IV 7.8 には Axume と見え、「王宮所在地」とある。
アビシニア地方にあり今日も Axum と言い、古代からの遺跡が僅かながら存する。
「キュエーネイオン」Kyeneion
他の古代地理書には見えず。
Kolla-Mazaga(Muller)、或いは青ナイル河に沿う Sennar 地方(Schoff)に比定されている。
「アラライオスの島」Alalaiu Plinius N.H. VI 34§173 には Aliaeu と見える。
Annesley 湾の入り口の Archipel Dahalak.
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(3.1.6「エリュトゥラー海航海記(Periplus Maris Erythraei)」)
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(インド洋のシルクロードの始まり)
(紅海沿岸)
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メソポタミア世界
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2011年12月11日日曜日
絹の道(倭錦):エリュトゥラー海案内記・『第1節』
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出典:PERIPLUS MARIS ERYTHBAEI
「エリュトゥラー海案内記」
エジプト生まれの商人がギリシヤ語で書いたA.D.1世紀
村川堅太郎:訳注 中央公論新社101&150~152頁
解説・増田義郎
紀元1世紀なかばの南海貿易について、
無名の商人が書き記した貴重な文献を、
ヨーロッパ古代史の碩学がギリシア語から訳出。
平明達意な訳文と、
周到厳密な解説・訳注によって、
紅海・インド洋をまたがり活発に行われた交易の様子が
いきいきとよみがえる。
『第1節』
エリュトゥラー海の指定された停泊地や同海岸の商業地の中、
最初のはエジプトの港ミュオス・ホルモスである。
その次には更に航海して行くと1800スタディオンを距てて
右手にべルニーケーがある。
以上両地の港はエジプトの果てに在り、エリュトゥラー海の湾である。
※注釈
「エリュトゥラー海」 Ερνθρα θαλασσα 「紅海」の義
この名の古い用例としてはPindarのPythian Odes Ⅳ 251に
ποντζερνθροζ の形で見えており、
Herodotusでは Ⅱ11:Ⅱ 158-159;Ⅳ 42 に ερνθρη θαλ の形で使われている。
この名の由来については赤道付近の太陽光線による海面の色に基くとするもの、
赤い水を注ぐ泉があるとするものなどのごとく自然現象により説明を試みた者と、
Erythrasなる名祖に因むとする者とあった。
様々の説明は Agatharcides, De mari Erythraeo §2 sq.;StraboXVIc.779 に詳しい。
なお Strabo Ic.23 に引用された Aeschlus の断片参照。
近代の説明としては brugsch Ebers, Wiedmann, Ed. Meyer 等
一致してエジプト人が彼らの国であるエジプトの「黒い地方」に対比してリビュア、
アラビアを「赤い地方」と呼んだのに基くと解している。
即ちエジプト系の名であり、通訳によりギリシア人に知られたものとなされている。
(Berger, "Ερνθρα θαλασσα" in RE, 1909 Tu,pei, "Erythras" in RE, 1909)。
因みに本書時代に「紅海」と呼ばれたのは
今日の紅海のみならずインド洋までも含んだ広い海域であった。
このことは本書の記述一般、特に〔38節〕にインダス河を以って
エリュトゥラー海最大の河川と述べていることで明かである。
また〔63節〕にクリューセー(マライ半島)が
エリュトゥラー海で最も優秀の亀を産するとあり、
本書作者はベンガル湾をもエリュトゥラー海の中に含めていたとせねばならない。
「指定された停泊地」αποδειγμενοι ορμοι
本書〔4節〕、〔21節〕、〔35節〕に見える
εμποριον νμιμον (法律指定の取引処)と同じ。
この指定はいうまでもなく政府が関税を取るためでプトレマイオス家時代のエジプトに
「インド洋並びにエリュトゥラー海長官」があり、
(Dittenberger, Orientis Graeci Inscriptiones Vol.Ⅰ Nr. 186,190)、
また「エリュトゥラー海徴税官」もあったことが知られている。
(Dittenberger Nr. 202)。
ローマ帝政期クラウディウス帝の時に Annius Plocarnus なる者が
エリュトゥラー海徴税の利権を国庫から与えられていたことが Plinius N.H. VI 24 § 84に見える。
なお19節参照。
「ミュオス・ホルモス」Myos Hormos 「貽貝(いがい)港」の義。
Muller,Schoff により Abu Somer(27°12'N.35°55'E.)と呼ばれる岬の内の港に比定されたが、
今日は Abu Shar 27°33'N. とされる。
付近には古代の遺跡も存する(H.Kees,RE.s.v.)。
Strabo c. 769 によれば「アプロディーテーの港」とも呼ばれ、
1世紀の頃南海商品のエジプトへの輸入港として繁栄し、
商品は此処から6、7日の旅程離れたナイル河畔のコプトスを経て
アレクサンドリアに運ばれた。
ミュオス・ホルモスとコプトス及び註(5)のペレミーケーとコプトスとの間には
諸処に鑿井、天水貯水池を設け商賣に便していた(Strabo c. 815)。
なお序説に引用せる Strabo c. 118 の記事参照。
「スタディオン」οταοιον ギリシア人の距離の単位。
ローマ人のマイル(Mille passuum)が4,854フィートで一定せるに反し、
スタディオンは長短様々のものが行われていた。
即ちローマのマイルに対する割合を基準にして見るとき
(1) 7 1/2 stadion がこれに当たるいわゆる Philhetairos の stadion、
(2) 8 1/3 がこれに当たるもの、
(3) 8 stadion がこれに当たる Stadium italicum (これはしばしば使用された)、
(4) 1/9 Roman mile のもの、
(5) 1/10 Roman mile のいわゆる Eratosthenes の stadion、
(6) 1/5 mile の stadium Pythicum、
(7) フェニキア起源でプトレマイオス一世によりエジプトに採用された 1/7 mile のものがある。
なおオリンピアの競走路(stadion)は197.27mであるが、
これは距離単位としては―通俗に説かれるところは誤で―何らの役割を演じなかった
(Lehmann-Haupt,"Stadion(Metrologie)"in RE.1929)。
Schoff は本書作者の stadion はエラトステネースのそれかと想像しているが
上記(7)のものであるまいか? 但し本書の距離数の記事は何ら正確な測定によるものでなく
航行の所要時間に基く推定であったろうと思われる。
「ベルニーケー」Bernike
本来はBerenikeであるがmuller,Friskとともに写本の俗語形を採用した。
プトレマイオス二世ピラデルポスの建設。
その母の名に因みBerenikeと呼ばれた。
Plinius N.H.VI26§102-103によればコプトスからは12日の旅程で、
この間諸処に貯水所が設けられていた。
プリーニウスは東方貿易を述べるに際しベルニーケーをエジプト側の出発地としており、
ストゥボーンの頃にはュオス・ホルモスが主要港であったが、
その後ベルニーケーがこれに代わったごとくである。
Warmington p.7. 今日の Umm-el-Ketef 湾(23°55'N.35°34'E.)の所で、
遺跡が存する。
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(3.1.6「エリュトゥラー海航海記(Periplus Maris Erythraei)」)
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2011年12月1日木曜日
絹の道(倭錦):紀元1世紀に極東の絹の産地を記録したギリシャ語史料
ブログ:古代史ブログ講座「古代メソポタミアから大化の改新まで」
出典:歴史学講座『創世』さいたま塾(代表:小嶋秋彦)
紀元1世紀に極東の絹の産地を記録したギリシャ語史料
―セリカ・セレスと「木になる羊毛」―
日本の紀元頃から古代史を考えるのに「絹」は
たいへん重要な課題であることに注目しております。
邪馬臺国の卑弥呼は魏への貢物として「倭錦」を送っています。
この「錦:絹織物の染物」は大陸では入手できない貴重なものであったに違いありません。」
それら「絹」を入手できる地方として紀元1世紀に
エジプトにいた貿易商人が、多分ギリシャ人だったのでしょうが、
ギリシャ語で東方の諸地方の内情について伝聞したところを記録した
「エリュトゥラー海案内記」にティーナイ・セレス・セリカが記載されています。
またそこにはその頃の養蚕の様子を知るヒントとなる
「木になる羊毛」などという記述もあります。
これらの用語は英語でいう「silk=絹」に通じております。
過去数多(あまた)の学者がそれらの用語の語源を探求していますが、
適当な解釈はありません。
しかし、歴史学講座『創世』さいたま塾:講座は完全に養蚕、
つまり「カイコ」や繭の様子を理解していますので、
正確な解釈を提示することができます。
この両方の報告記録を元に東方の「絹」の状況を解明・説明します。
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絹の道(倭錦):インド洋のシルクロードの始まり
ブログ:古代史ブログ講座「古代メソポタミアから大化の改新まで」
古代にはローマ帝国は極東の絹を熱望した
ジャンル:絹(シルク)
出典:「海のシルクロードを求めて」
三菱広報委員会:平成元年
R・C・シャルマ(訳・小倉泰)
「インド洋のシルクロードの始まり」
インド洋は、
その懐に抱かれている国々の歴史的な
数々の目ざましい事件の大きな舞台となってきました。
この海はアフリカ南部からオーストラリア南部にかけての
一万キロメートルに及ぶ広大な海域を占めています。
しかし、地球上の総海洋面積からみると
そのわずか五分の一と比較的小さく、
このような特性から他の海域と比べててよく人の通う海になっていますし、
他の海洋よりも、しばしば利用されています。
インド洋は隣接する海域、
つまり、アラビア海、ベンガル湾、南シナ海を通じて
東西の架け橋となってきました。
西の地中海世界と、東の中国や日本は地理上の距離でいえば
非常に離れていたにもかかわらず、
数々の海洋的冒険によって一つに結ばれていました。
ソコトラ島(南イエメン)、セイロン、アンダマン諸島、
マラヤ、ジャワ、スマトラなど、
マダガスカルからオーストラリアの間に散在する多くの大小の島々は
通商と文化の絹の紐で結ばれていました。
中国からの絹糸でつくられた各種の織物や製品が、
広大な海と地理的な変化や遠い距離を超えて、
インド・アラブ、ヒンドゥー、インドネシア、中国という
少なくとも四つの異なる文明社会を一つに織りなしていたのです。
絹に対する需要はもちろんたいへんなものでしたが、
その他にも奈良からローマ、あるいはそれ以遠に及ぶ
シルクロード周辺に存在した国々の間で交易された品物は数多くあります。
香料真珠、宝石、木綿等が南や西の国々から、
そして絹、翡翠、漆器、陶磁器等が主として
北や東の国からもたらされていました。
このような通商や文明のつながりのなかで、
インドの占める位置は独特のものでした。
この国はまずインド洋に深く分け入っていて、
東西の二つの別々の海域に分けています。
第二に、インドは仏教によって国際的に認められた哲学を
シルクロード周辺の人々 に与え、彼らの生活に深い影響を与えたのです。
仏教は、絹や香料その他の品々よりはるかに人を惹きつけたかもしれません。
黄金の道、すなわち中道(マッジマパテイパダー)は
数世紀にわたって多くの国々の多数の人々 が辿る人生の道となりました。
絹と仏教は、人の体と心のように一体のものとなっていたのです。
絹の衣を握った僧侶が仏の教えを広め、人類を一つに結んだのです。
その他にも、インドの土から生まれたヒンドゥー教、
あるいはバラモン教は東方のいくつもの国々で愛情をこめて受容され、
これらの国々では『ラーマーヤナ』 や『マハーバーラタ』などの物語が
それらの社会の独特な性格をつくり上げるもととなっているのです。
このようなインド洋地帯での通商や宗教の交流が
いつ頃から始まったのは定かではありません。
インダス文明の遺跡、とくにロータル(グジャラード)で発掘された
造船所の遺跡から発掘物によって、
紀元前3000年にはすでに西岸(インド洋)では
海洋活動が十分発達していたことが証明されています。
また、このことは沿岸航海によって運ばれたに違いない
インドチーク材がウルで発見されたことによっても裏付けられているのです。
ペルシアのダリウス大王(紀元前6~5世紀)は、
陸路、海路をを通ってペルシアとインドを結ぼうと試み、
船団をインダス川に送っています。
また、インドの船も定期的にペルシア湾、
南アラビアのアデンあるいはソコトラに通っていました。
ストラボンの報告では、毎年120 隻の船が
アウグストゥスの時代(紀元前27年~紀元14年)に
ミュオス・ホルモスからインドに通ったという記録があります。
同じ頃ギリシアの航海家ヒッパロスは夏に吹く南西の季節風を利用して
アラビアからインドへ直行する航海法を発見しています。
しかし、ヒッパロスというのは人の名前ではなく、
北インドの人々 が夏の西風につけた名前だという説もあります。
ペリプリュスにはマラバール沿岸にあった
サンガラという大きな船のことが載っています。
紀元前には交易のためにローマ人がインド洋に現われ始め、
堅牢ですぐれた設計の船によって
インドや東南アジアの市場をみつけるのに大きな成功を収めています。
彼らはすぐにこの地城の産物、とくに絹に惚れ込んでしまい、
ローマの黄金がこの地域に流れ込み始めたため、
ティべリウス帝(14~37年)は黄金の流出を防ぐため
臣下が絹の衣服を纏うのを制限しなければならなかったほどです。
これによって最後にはローマ人の姿がインド洋から消えてしまい、
カラカラ帝(212~217年)以降のローマ金貨は
インドには持ち込まれていません。
品質の優れた中国の絹に対する西側の国々の需要が
非常に高かったことは間違いありませんが、
インドの絹も、とくにプロコピウス(512年)等は
よく勤めていたという記録もあります。
このような事実から商人の間の競争心も結構あったことがわかります。
ローマの交易が衰えたことで、インド洋における他の国々の活動が活発になり、
今度は注意が東南アジアに向けられるようになりました。
当時すでにインドは沿岸のいくつかの地域との海上交通を確立していました。
インドの航海家が紀元前七世紀にはすでに中国に達していたとする
(チャールス・バーリンデンのような)学者もいます。
アショーカ王の時代には船は東に向けて航海をしていました。
王の息子マへーンドラは周辺の国々へ船で何度も海を渡っており、
インドやセイロンの年代記にもセイロンの名は繰り返し現われています。
これは後の考古学の発掘でも立証されています。
マウリヤ朝時代とされるカウティリアの
『実利論』(アルタシャーストラ)に
スヴァルナブーミ(黄金郷)の記録があります。
紀元前にまとめられたジャータカの物語は
主として仏陀の前生についての物語ですが、
これにも宝物を求める航海の話が出てきます。
マハージャナカ・ジャータカは
有名なアジャンターの壁画によく出てくる題材ですが、
これにも貨物船で東へ向かった王子の船が嵐で沈んだものの、
なんとか命は助かった、という物語が描かれています。
アジャンターの壁画には紀元前に使われた船も何種類か描かれています。
歴史上では、1世紀初頭の『漢書』 に
中国インド間の海上交易に関する信頼性のある記録が載っているようですが、
一部の土地名については議論のあるところとなっています。
プトレマイオスは、
紀元後の初期におけるインドおよびインドシナ経由で行なわれた
ローマと中国の交易について報告しています。
この活動のなかでは、最初にインド化されたカンボジアのフナン
(扶南)が、主要な仲介者となったものと思われます。
これは考古学的な発見、なかでもフナンやチャンパの近くでみつかっている
ブラーフミー文字の碑文で立証されています。
ここでは、インドから来たバラモンの若者がナーガ王の娘と結婚し、
父親が結婚の祝いとして湿地を干拓しこの若い二人に与えた、と書かれています。
これは、インド人がこの地域を真の黄金郷(スヴアルナブーミ〉 としようとした
努力が物語に暗示されています。
中国の使節がフナンの土地に着いたとき、
そこには金、銀、真珠、香料、香水や、農産物にあふれ、
人々は闘鶏や闘豚、舟遊びに夢中で人生を楽しんでいた、とあります。
日本とインドのつながりは、
538年10月13日に百済の聖明王が
仏像を大和にある日本の国王に贈ったという間接的な形で始まりました。
それ以来シルクロードの東の端にあるこの美しい国には
仏教が受けいれられてきました。
インド洋のシルクロードによって、
いくつもの重要な都市、港、記念物、美術の中心などが
生まれてきたといえるでしょう。
「写真」インド洋沿岸を帆走する小船
「地図に見る地理認識」
地図は、古代・中世の人々 がいかに世界をとらえ、
海や陸を思い描いていたかを物語る貴重な資料である。
それぞれの時代の世界認識の傾向 が、そこから確実に伝わってくる。
「地図」①
プトレマイオスの地図(6世紀)。
不明な陸地は「テールラ・インコグニタ」(未知なる土地)と記され、
インド洋は湖のように描かれている。
「地図」②イドリーシーの地理書『世界地誌』に付された世界地図(12世紀)
南が上である。
アフリカ大陸の中央部に「月の山」があり、
そこからナイル川が流れ出ている。
陸地は周海とカーフの山脈によって取り囲まれ、
インド洋と地中海が入り込んでいる。
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