2015年7月14日火曜日

商と周〔姬氏〕

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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた― 

  (3)商と周〔姬氏〕

   この五帝本紀を新釈漢文大系の作図に従い、

  シナの祖とする「黄帝」からの系譜を考察する。

  引用文の初めにある「黄帝より舜・禹に至るまで同姓なり」とある

  「同姓」とは「姒氏」にして「シ氏」族であるのに対して、

  商(殷)族は子氏、周族は姬氏とあり、

  黄帝から禹までの族類とは別系の人々であることを明白にしている。

  つまり、シナのほとんどの史書が「黄帝」を

  商周の人々の元祖としているが、それは誤りとなる。

  ちなみに「姬」字と「姫」字は別字である。

  現在の状況ではあるが北京語においては「姬」字しかない。

  これに対し日本では「姫」字のみが使われている。

   紀元前1世紀の辞典『脱文解字』に早くも

  「黄帝居姬水以爲姓」とあり、6世紀前半の「玉篇」もそれを引いて

  「黄帝居姬水以爲姓」と同文を記す。

  この「姬」字は図2(23頁)の通り、殷(商)時代亀甲に刻まれた

  甲骨文字や青銅器に刻印された金文のうちにかなり多くみられる。

  また「姬水」は現在「(氵+圣)河」と称される陝西省の内蒙古に

  近い西北端の「姫(土+原)」を最北の水源とする水系で

  甘粛省の東端慶陽あるいは平源周辺の水を集めて南方へ流れ、

  長武で陝西省に入り、徐々に南東へ下って西安の北側で

  渭河に合流する。

  「(氵+圣)」は「姬」の代用字である。

  「字通」がいう「𦣝」は「乳房」で金文にある

  甲骨文字「」によって納得できる。

  それに「女」字が付されており、正確には「女性(雌)」を表わし、

  「胸乳」を表象したものである。

  これを「キ」とするのはこの文字に依る。

   また「姬氏」を「姫水」で解釈できる歴史的事実は、

  周の族類が内蒙古・甘粛省から北流する黄河の向う

  〔オルドス〕方面から入来してきた人々であるとすることによる。

  さらにその北方アルタイ山脈の東山麓が故郷とみられる。

  なぜならば、その蒙古地域に広がる砂漠を「ゴビ」というが、

  この祖語は GAB で「胸」を表わすからである。

  『史記』「周本紀」にいう周の元妃「姜原」の「姜」は

  「雌(女)の羊」の語義で、彼等が本来「羊飼い」〔寒冷地帯型〕で

  あったことを示す。

  「周」字の甲骨文字は「甲骨文字」でこれは「胸当て」と解釈されている。

  また周の表音は[zhou]でオルドスに散在する地名用語

  「朔[shou]」「(月+生)[she]」と同様 

  SHAU で「雌羊を飼う」が語源と考えられる。

  周の族類の本拠が(氵+圣)(姬)河辺より

  北方にあったことは明らかである。

   また「商」の本拠も渭河(水)の南側湖北省との境界一帯の

  陝西省商県市を中心とする商洛郡が故郷であったとされる。

  「商国」が興ったのはずっと東方の河南省の東端「商丘」であるが、

  同表現は「商洛」の語義によっている。

  「洛:ラク」は夏王朝に係わる人々の用語で「丘・山」であるし、

  同地は高原地帯である。

  『史記』「殷本紀」の始母「簡狄」の「狄」は「北狄」というように

  北方から入来した族類で、商周とも北方から渭河流域に

  渡来定住した人々であった。

  図1 帝から始まる「帝」の系譜[史記] 
     

  図2 古代資料ににる「姫」「姬」
     


黄帝から始まる「帝」の系譜[史記] 

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (3)商と周〔姫氏〕

   図1 黄帝から始まる「帝」の系譜[史記] 


          ┌─玄囂─「蟜極」─
 ①黄帝      │
  │       │
  ├─(姫姓)───┤
  │       │
  嫘祖      │
  (黄帝正妃)   │   
          └─昌意─②帝顓頊─


      陳鋒氏の女[一妃]
       │
       ├─放助(⑤帝堯):弟
       │
 「蟜極」─③帝嚳(高辛)
       │
       ├─弃(姬氏)
       │
   (周本紀)│
      姜原(有台氏)[元妃]


    娵訾氏の女[二妃]
     │
     ├──執手(④帝摯)
     │
 ③帝嚳(高辛)
     │
     ├──契
 (殷本紀)│
    簡狄[次妃]


      ┌─窮蝉─敬康─句望─橋午─瞽叟─⑥舜
      │
 ②帝顓頊─┤
      │
      └─鯀─⑦禹




2015年7月12日日曜日

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (2)夷

   三国志の「東夷」また「准夷」の「夷」は

  歴史上極めて特徴ある用語である。

  一般にその語義は「東方の人」あるいは「人々」と解釈される。

  三国志魏書より古い「後漢書」にも「東夷伝」があり、

  「東方白夷」とあり、シナの東方を「夷という」とある。

  そしてそこに住む人々として「夷有九種」といい、

  「畎夷于夷方夷黄夷白夷赤夷玄夷風夷陽夷」を上げる。

  さらにこれは紀元前前漢時代に記された

  「竹書紀年」の后祖2年の「黄夷」、7年「于夷」、小康即位年の「方夷」に

  従ったものである。

  これらの記述にみられる「東夷」の地は山海経「海内北経」のいう

  「倭」地域と同じとみることができる。

   「東夷」には同時代の歴史を記した

  「春秋左氏伝」に極めて興味ある記事がある。

  「杞国」に係わるものである。

  「杞国」は「史記」夏本紀の終末で殷(商)の

  「湯王夏の後を封ず」とあって、

  夏王朝の王族に殷成立後王侯としいて土地を与えたといっている。

  それに続く夏王朝を建てた「禹」の後裔の姓のうちに杞氏を記している。

  杞は江南省の杞県に当たり、

  丁度黄河が西方から流れてきて北東へ曲折する地点の南方にある。

  まず「杞氏」が夏王朝族の後裔であることに注意すべきで

  重要な点である。

  次に「春秋左氏伝」のうちから「杞」「夷」とある記述をひろってみる。


    僖公(紀元前659-627) 廿有3年11月杞の成公卒す。

   書して子(し)と言曰ふは杞、夷なればなり。

   〇杞は伯爵であるのに子(子爵)と書いてあるのは、

   杞伯がえびすの礼を行なっているからである。

    廿有7年春杞の桓公来朝す。

   夷の礼を用ふ。故に子と曰ふ。杞を卑しむ。杞不恭なればなり。

   〇杞の桓公が魯に来朝したが、えびすの礼儀作法を用いたので、

   その爵位を貶して「子」といったのである。

   魯の僖公が杞をいやしんだのは、杞がえびすの礼をもちいて

   つつしみがなかったからである。

    襄公(紀元前572-543) 廿有9年 杞は夏の餘なり。

   東夷の即く。〇杞は夏の後裔であり東夷について

   (東夷の作法に従って)夷礼を行っている。


   これらの記述から夏王朝が「夷」族の人々が成した王朝であり、

  殷(商)や周の人々とは全くの異族であったことを証明している。

  つまり今日の表現でいえば、「夷族」は全く漢族ではなかった。

  史記の第6「陳・杞世家」においては以下のようになる。


   杞の東僂公は夏公禹の苗裔なり。殷の時或は封ぜられ、或は絶ゆ。

   周の武王殷紐に克ち、禹の後を求め、東僂公を得、之を杞に封じ、

   以て夏后氏の祀を奉ぜしむ〔禹の後は周の武王之を杞に封ず〕。


   これらの記述から夏王朝が「夷」族の人々が成した王朝であり、

  殷(商)や周の人々とは全くの異族であったことを証明している。

  つまり今日の表現でいえば、「夷族」は全く漢族ではなかった。

  史記の第6「陳・杞世家」においては以下のようになる。


   杞の東僂公は夏公禹の苗裔なり。殷の時或は封ぜられ、或は絶ゆ。

   周の武王殷紐に克ち、禹の後を求め、東僂公を得、之を杞に封じ、

   以て夏后氏の祀を奉ぜしむ〔禹の後は周の武王之を杞に封ず〕。


   さて「夷」字は古代のシナではどう発音されたのだろうか。

  白川静の「字通」に従えば[jiei]で、これは「夷」の初文(字)である

  「尸」[sjiei]の頭音[s]の脱落したものだという。

  「尸」の語義は「つかさどる」で「祭祀を司ことを尸という」とある。

  [sjiei]は興味深い。

  「史記」五帝本紀が「帝禹を夏后と爲す。而して氏を別って姓を姒氏」

  とある「姒」とはほとんど同音である。

  その語義は「あね」で「姉」と同義である。

  「娰」の発音は[ssu]である。

  新釈漢文大系より五帝本紀の当該部分を転記する。


   黄帝より舜・禹に至るまで皆同姓なり。

   而して其國號を異にして、以て明徳を章かにす。

   故に黄帝を有熊と爲し、帝顓頊を高陽と爲し、

   帝嚳を高辛と爲し、帝堯を陶唐と爲し、

   帝舜を有虞と爲し、帝禹を夏后と爲す。

   而して氏を別かって、姓は姒氏。

   契を商と爲す。姓は子氏。

   弃を周と爲す。姓は姫氏。

2015年7月10日金曜日

倭人

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (1)倭人

   「倭人」という呼称は日本人には『三国志魏志倭人伝』との

  通称によってよく知られている。

  この三国志とはシナの史書の一つで、紀元後2-3世紀に

  後漢の終末からの覇権争いで登場してきた勢力で、

  3世紀中シナ大陸を3分割して国をなした

  魏(220-265)、呉(222-280)、蜀(221-263)の

  三国の歴史にからむ記録を集めた史書で、

  「三国」とは魏呉蜀国をいう。

  実際はそれぞれ魏書・呉書・蜀書と別々の記述となっている。

  「倭人伝」はそのうちの魏書第三十にあるもので

  「東夷伝」の一節である。

  東夷伝のうちには「韓伝」、「弁辰伝」、「粛慎伝」などあり、

  「倭人在帯方東南大海中」との書き出しで始められている

  「倭」に関する記述で、

  当該部分を「倭人」といいならわしているのである。

  そこには現在の日本列島の一ちほうである「南方」についての

  情報と魏国との交通が記述されている。

   この「倭人」という記述は中国の史料のうちでは初めてではない。

  同東夷伝で引用書としている「魏略」に「倭人」との表記があり、

  三国志記述より古い時期とすることができる。

  さらに「漢書」地理志「燕地」のうちに「楽浪海中有倭人」との記述がある。

  この漢書地理志は紀元1世紀の成立で、三国志より古い時代で、

  日本の古代の呼称を「倭」、そこの人々を「倭人」と呼んだ

  最も古いものとされている。

  「倭」の呼称も魏書「韓伝」に

  「韓在帯方之南東西以海為限南與倭接」とある。

  また大分時代は下がるが、

  唐(紀元618-907)の歴史書である「唐書」には「日本古倭奴也」とあり、

  「倭」とは「日本」を指すことが通念であったことを示している。

  つまり、「倭人」とは「日本の人」の語義となる。

   ところでこの「倭」の表記は「日本」列島対象だけの呼称ではない。

  紀元前2世紀より古くからのシナの地理書「山海経」に

  その用語が表れており、その対象地域が大陸内を指している。

  その第十三巻「海内北経」に

  「蓋国は巨大なる燕の南、倭の北にあり、倭は燕に属す」とある。

  紀元前の7世紀後半から

  「燕」は現在の北京市辺りから河北省天津市辺りまでを

  占めた勢力であった。

  「倭」はその南にして、さらに蓋国の南にあったということになる。

  「蓋国」の比定は現在不確かとなっているが、

  「倭」は山東半島から揚子江の河口付近江蘇省の黄海岸に

  あったと考えられる。

  特に准河河岸地帯に後に取上げる「准夷」がおり、

  「倭[wo]」と「准[huai]」は同音に近く

  そこも当該地に含めることができる。

  因みに「倭」はまた[ヰ]とも発音され、

  次に解説する「夷」とも同音である。

2015年7月7日火曜日

倭の養蚕の地

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (10)倭の養蚕の地

   「三國志魏書」倭人伝に

  「種木稲紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜」とあり、

  東洋文庫の解訳には

  「人々は稲や麻を植え、桑を栽培し蚕を飼って糸を緝績ぎ、

   細麻や縑や緜を産出する」とある。

  後漢書にもほとんど同じような文面があるが、

  これは「魏書」に倣って作成されたことが確実との評価である。

  三國志の時代は主に3世紀であるが、

  当時日本列島で養蚕が始まっていたのである。

  この養蚕の担い手も「和人」である

  「倭人」であったことが確実である。

  そしてその対象の地域は九州方面でしかない。

  同地域には哈尼族(あるいは彝族)の言葉による地名など

  養蚕に係わる解釈可能な用語が広くある。

  因みに、近畿方面には養蚕に係わる「倭語」はほとんどない。

   シナ、韓半島、日本に共通した「倭語」の名詞呼称の例は

  前に「黄帝」の別称「軒轅」で解説した「星」である。

  山海経に「列故射」あるいは「故射國」との記述がある。

  その「海内北経」に

  「朝鮮は列島の東の海、北山の南にあり、列陽は燕に属す。

   列故射は海の中にあり、故射國は海中にあり。

   列故射に属し、西南には山をめぐらす」とある。

  「列陽」は現在の山東省山東半島の内奥に「萊陽」市があり、

  いわゆる「萊夷」の地で北方は燕に接していた。

  「列故射」の「列」は倭語の[lug]の漢語音写で

  語義は「山」、「故射」は「コヤ」と訓み倭語の「星」、

  訓音「kea,hea」で当該語は「星山」である。

  その山及び「故射國[星国]」の所在地は、

  「朝鮮在列陽東」とあるように、

  列陽からみて東方に当たり、黄海の向うで、

  「列故射在海河洲中」との記述に習えば、

  いわゆる韓半島で、

  当時[紀元前5世紀以前]は「洲[島]」とみられており、

  そこに「星山」及び「星国」があったと解釈される。

  その当該地は韓半島南部になるが、

  実際に「星山」「星国」は古代から現在に至るまで

  地称と実在している。

  現在の慶尚北道の南道との境界にある

  伽耶山が「星山」で「高霊」が「星国」である。

  同山の北側に星州の町があるが、

  その辺りはかって星山郡であった。

  同地から南方の釜山市へ流れる川を「洛東江」と称すが、

  「洛」は「列」と同根の「山」なので、

  同江の語義は「伽耶山の東を流れる川[河]」となる。

  「三國史記」雑志第三には「康州」のうちに「星山郡」名を載せ、

  後〔紀元11世紀〕に加利県としたとある。

  また「高霊郡」を載せ

  「もと大伽耶国で、

   始祖の伊珍阿豉王より道設智王に至るまで16代520年。

   真興大王が侵略し滅ぼし、その地を大伽耶郡とした」とある。

  滅ぼされたのは562年で、

  紀元後すぐに起った国であったことが解かる。

  その中心勢力が倭人であったことに間違いない。

  「加利県」名は「三國遺事」で「伽落」あるいは「駕洛」などと

  表記された地称と同じで「星山」にして「伽耶山」を指している。

  「韓」を日本で「カラ」と呼称してきたのはこれに由来する。

   長崎県対馬にも「星山」はある。

  「上県」に大星山(峰町)と高野山(上県町)が

  町境を挟んで並立したいる。 

  「高野(こうや)」も「星」である。

  さらに日本列島内をみると、和歌山県伊都郡かつらぎ町に、

  伝承によると天から隕石が落ちてきたことから

  星山、星川の地称ができたという地区がある。

  「星」は「こうや:高野」であり、町名として成った。

  さらに愛知県の「名古屋」市名及び佐賀県呼子町の「名護屋」は

  双方とも語源を同じくし、

  「ナ[名]」は倭語の[ni]の音写で「霊」ないし「神」の呼称、

  「コヤ[古屋・護屋]」は「高野」と同じであり、

  同語は[神・星]で「星神」を表わす。

  これらの地名由来は韓半島及び日本列島へ倭人〔和人〕人が渡来し、

  その言葉を定着させた証拠である。
  
  さらに養蚕技法、

  また本書では説明対象としていないものの

  倭人が「水耕稲作」を伝えてきたとの証左になっている。

韓半島の養蚕の地

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (9)韓半島の養蚕の地

  シナ海沿岸地帯まで広まった養蚕は

 大陸内だけに納まっていなかった。

 紀元前後になると韓半島や日本列島へと普及していった。

 韓半島での史料的証拠はまず「後漢書」韓伝(東洋文庫による)に

 「馬韓人は養蚕の知識があり緜布を織ることができる」とある。

 「緜布」は「帛〔絹糸、まわた〕」、織物を表わす。

 馬韓は韓半島西南部で、同地には現在も「青洲」の地名があり、

 山東省の青洲の移転で、

 韓半島の蠶が同地方から移入されたもので、繭の形が俵型である。

 次に「三國史魏書」弁晋伝には

 「蚕を飼い桑を植えることを知っていて、縑布を作り~」とある。

 「縑」は「厚く織った絹の布」である。

 また紀元4世紀に入った「晋書」辰韓伝には

 「その地方は桑を栽培し、蚕を飼うのが盛んであり、

  縑布を上手に作る」と、

 次第に養蚕が拡充している様子が窺われる。

  ただし、養蚕の地は韓半島の南部に限られ、

 「三國志魏書」夫餘傳が

 「国外に出るときは絹織物、繡、綿織、毛織物などを重視する」と

 いうように北方にいた人々は「絹製品」は外から購うものであった。

  韓半島南部へ養蚕を持ち込んだのは「倭人」たちであった。

 彼等が移住植民してことにより「絹」の技術は移転されたのである。

 その記録が「三国史記」にある。

 同書は紀元11世紀に成ったものながら、定かではないが、

 参考となった古い史料があったとされている。

 そのうちの「新羅本紀第一」に「瓢公」という者が登場する。

 彼の出自について(東洋文庫による)

 「瓢公はその出身の氏族名を明らかにしていない。

  彼はもともと倭人で、

  むかし瓢(ひさご)腰にさげ海を渡って〔新羅〕に来た。

  それで瓢公と称したのである」といっている。

 つまり、彼はまさに海の向うから韓半島へ渡来した「倭人」なのである。

 また、第1代「始祖赫居世居西干」について

 「始祖のは朴氏で~」とあり、後段に

 「辰韓では瓢のことを朴という。

 〔始祖が〕地上に始めて現れた時の大卵が瓢のようであったので

 〔始祖の〕姓を朴とした」とある。

 「瓢」「瓠」とも「ひょうたん」のことである。

 シナの少数民族のうちに哈尼族・彝族ばかりでなく広い範囲で

 この「ひょうたん」に係る伝承が、

 各族の始祖伝承として「洪水」を絡めて言い伝えられている。

 その伝承が纏められているのが聞一多の「中国神話」〔東洋文庫〕で、

 45例を収集している。

 そのうちの26例が葫蘆〔瓠、瓢瓜〕瓜とある。
 
 その伝承の物語の大要は、

 大洪水が起こり、兄妹が葫蘆の中に入り水上を漂い、

 洪水が始まった後に夫婦となって子孫を増やすというもので、

 君島久子著「中国の神話」に「生き残った兄妹」の表題で

 ミャオ(苗)族の伝承として物語られていて参考になる。

 つまるところ「瓠」「瓢」は「倭人」の象徴なのである。

 そのことから解釈すれば、

 韓半島南部を最初に開発し開化させたのは「倭人」ということになる。

  既に述べた様に、紀元3世紀にの史料「三國志魏書」韓伝は

 「韓は帯方(郡)の南にあって東西は海をもって境界とし、

  南は倭と(境界)接している」といっている。

 この「倭」は韓半島の内部の地域を指し、

 「倭人」がそこにいたことを明言しているのである。

 「倭」日本列島の内とする解釈は妥当ではない。

 もしそういう概念であれば、その前段であえて

 「東西は海をもって境界とし」ではなく、

 「東西南は海をもって境界とし」というはずである。

 三国史記で「倭」は80数回の記述がある。

 その前半の多くは韓半島内の動きとした方がよいとかと考える。

 「倭人」は韓半島南部で永い間一大勢力であったのである。

2015年6月14日日曜日

書経「禹貢」の養蚕の地

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 第1章 倭人と東夷の原像

     ―和人〔倭人〕はシナ大陸を最初に開化させた―

  (8)書経「禹貢」の養蚕の地

   「脱文解字」より古い養蚕を行っていたことを示す記録がある。

  それが書経「禹貢」で四川省から遠く離れたシナ海沿岸に

  紀元前5世紀以前にその技法が定着していたとの情報がある。

  新釈漢文大系から当該部分を転載する。」

   第二節 兗(えん)州

  ◎清河は惟れ兗州。

  九河は既に道し、雷夏は既に澤して濉沮は會同す。

  桑の土は既に蠶し、是に丘を降りて土に宅(お)る。

  〔通釈〕清水と黄河との間が兗州

   (山東・河北省にまたがる)である。

   (黄河の)九(あまた)の支流がすでに通じ、

   雷夏沢がすでに沢となって、

   雍水と沮水は合して(この沢に)同(あつま)った。

   (これによって)桑を植えるに適した土地では既に養蚕が始まり、

   (また洪水を避けて丘にいた人々は)丘から降って

   平地に住むようになった。

  ◎厥の貢は漆絲なり。厥の篚は織文なり。

  〔通釈〕その貢物は漆と生糸とである。その篚(おくり)ものは

   織文(あやおり)である。

   第三節 青洲

  ◎岱の畎は枲(し)・鈆・松・怪石なり。

  萊夷は作て牧し、厥の篚は檿(えん)絲なり。

  〔通釈〕岱山の谷からは、生糸・麻・鉛・松・怪石を出す。

   萊夷が始めて牧畜をするようになり、その篚は山繭である。

  
   第四節 徐洲

  ◎厥の篚は玄繊縞なり。

  〔通釈〕(徐洲の)篚は黒色の細かい繪(きぬ)である。

  〔語釈〕繪とは帛の総名。


   第五節 揚洲

  ◎島夷は卉服す。厥の篚は織貝なり。

  〔通釈〕島夷は卉服(草で織った衣服)を献ずる。

   その篚は錦織である。


   この記録から兗州、青洲(現在の山東省)から徐州(江蘇省)、

  揚州(浙江省)まで、つまり北は山東半島一帯から揚子江の

  シナ海への河口地帯で既に桑があって養蚕がかなり広く行われ、

  当該者が「禹貢」であることからすれば、

  夏王朝の時代に帝の膝下へ絹製品が

  貢物として届け出されていたことを示す。

   古代の養蚕には「西王母」信仰がある。

  「西王母と七夕伝承」〔小南一郎〕にその実態は詳しい。

  西王母は頭に「勝〔本来は「榺」というのが正しい〕」、

  紡織機の滑車付軸の模型を冠のように載いて、

  足下に龍と虎を従えている。

  その多くは漢代に製作されたものらしいが、

  鏡の裏面や「磚」と称される石板に刻まれた画像が

  たくさん見つかっている。

  その多く見つかっている地域が四川盆地と、

  ここに紹介した「禹貢」の絹に係る地域である山東省などである。

  つまり西王母とは「嫘祖」の大衆化した対象とすることができる。

  彼女に従っている「龍」は蠶(おかいこ)の変化した像形で

  四川盆地の「青衣」あるいは「青龍」で、「おかいこ」の桑葉を

  腹に一杯食して大きく生長をした姿がそれで、

  また「黄龍」はその食べた桑葉から生糸になる成分だけを保管し、

  残り滓を糞として排出した後の体が

  蜂蜜のような色合いになった状態をいう。

  「西」は前に述べた蠶を哈尼語で〔tsha〕といったことに始まる

  西○陵、成○都と由来を同じくしており、

  西王母には嫘祖が色濃く修合している。

   西王母信仰の実在がシナ海沿岸にみられることは、

  四川盆地の養蚕技法を持った「和人」が同地方に

  広く定着していたとの証左となる。

  紀元前後の漢時代になってからはいざ知らず、

  紀元前5世紀前かなり古い時代には、

  やたら部外者にその秘法を教えるなどしなかったはずで、

  やはりその技術集団がこの地方へ移ってきたとするのが

  妥当と考える。

   ところで「禹貢」に記述されている養蚕の地

  兗州、青洲、徐州、揚州の地は「山海経」がいう「倭人」のいた

  地域であり、「後漢書」東夷伝の「九種の夷」のいた地域でもある。

  つまるところ「和人」は「倭人」である。

  「哈尼族簡史」に哈尼族の呼称の一つとして「倭泥」というのが

  あるように「和」「倭」も哈尼語においては同類なのである。

  山海経のいう「倭人」は書経「禹貢」のいう和夷にして「和人」である。

  なお、その養蚕の地が山東半島尾一帯という黄海の近くまで

  広がっているのは、温暖な黒潮が北流し当該地を広葉樹も

  育つ気候に変えているからと見られる。

《参考》

 ARPACHI
YAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱

 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)    
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ