2015年5月15日金曜日

論語〔孔子の言行録〕の内容

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 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
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 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

 《課題》 孔子は和人〔倭人〕の社会習性を理想とした
     ―堯舜の賢政は和人の思想―

 ※出典:WEB漢文大系 

 論語 学而第一 12

  有子曰。禮之用。和爲貴。先王之道斯爲美。小大由之。有所不行。

 知和而和。不以禮節之。亦不可行也。

  有子(ゆうし)曰(いわ)く、礼(れい)の用(よう)は和(わ)を

 貴(たっと)しと為(な)す。先王(せんおう)の道(みち)も

 斯(こ)れを美(び)と為(な)す。小大(しょうだい)之(これ)に由(よ)るも、

 行(おこな)われざる所(ところ)有(あ)り。

 和(わ)を知し()りて和(わ)するも、礼(れい)を以(も)って之(これ)を

 節(せっ)せざれば、亦(また)行(おこな)う可(べ)からざるなり。

 有子 …

   孔子の門弟。姓は有(ゆう)、名は若(じゃく)、字(あざな)は子有。

 礼之用和為貴 …

  新注では用を体用の用と解釈しており、

  「礼の運用には調和が大切である」と訳している。

  古注では用を「以」とし、

 「礼は之これ和を用もって貴しと為す」と訓じ、

 「礼には和が大切である」と訳している。

 先王 … 昔のすぐれた君主。

 小大 … 大小の事柄。

 節 … 節度。

 亦不可行也 … 漢石経に「可」の字なし。

  下村湖人(1884~1955)は「有ゆう先生がいわれた。

 礼は、元来、人間の共同生活に節度を与えるもので、

 本質的には厳しい性質のものである。

 しかし、そのはたらきの貴さは、結局のところ、

 のびのびとした自然的な調和を実現するところにある。

 古聖の道も、やはりそうした調和を実現したればこそ美しかったのだ。

 だが、事の大小を問わず、何もかも調和一点張りでいこうとすると、

 うまくいかないことがある。調和は大切であり、

 それを忘れてはならないが、礼をもってそれに節度を加えないと、

 生活にしまりがなくなるのである」と訳している(現代訳論語)。 

 ※和 … 我と人との接際における情意互に疎通して角立たず、

     順便に物事の行わるるをいう。(論語講義:渋沢栄一)

 
 論語 八佾第三 5

  子曰。夷狄之有君。不如諸夏之亡也。

  〔古注〕 子(し)曰(いわ)く、夷狄(いてき)の君(きみ)有(あ)るは、

 諸夏(しょか)の亡(な)きに如(し)かず。

  〔新注〕 子(し)曰(いわ)く、夷狄(いてき)すら

 之(これ)君(きみ)有(あ)り。

 諸夏(しょか)の亡(な)きが如(ごとくならず。

 夷狄 … 未開無知の異人種の通称。

     東夷(とうい)・北狄(ほくてき)・南蛮(なんばん)・

     西戎(せいじゅう)の総称。

 有君 … 君主がある。明君がある。

 諸夏 … 中華の諸国。「夏」は「華」と同じ。

     古注では「中国」とある。

 亡 …  古注では「無也」とある。

 不如 … 古注では「如しかず」と読み、

     「~に及ばない」と解釈している。

     新注では「如ごとくならず」と読み、

     「~のようではない」と解釈している。

 この章の解釈は古注と新注とで正反対となっている。

 古注では「未開国は(野蛮であり)、

 たとえ君主があっても(文化水準が低いので)、

 とうてい(文明国である)中国の無君主状態にも及ばない」

 というような解釈をしている。

 新注ではこのような古注の中華思想的解釈を改め、

 「未開国でさえ君主がある。

  今の中国のような上下の分のないような無秩序状態ではない」

 と解釈している。

 下村湖人(1884~1955)は「先師がいわれた。

 夷狄の国にも君主があって秩序が立っている。

 現在の乱脈な中華諸国のようなものではないのだ」

 と訳している(現代訳論語)。 


 論語 里仁第四 15

  子曰。參乎。吾道一以貫之。曾子曰。唯。子出。門人問曰。

 何謂也。曾子曰。夫子之道。忠恕而已矣。

  子(し)曰(いわ)く、参(しん)や、吾(わ)が道(みち)は

 一(いつ)以(もっ)て之(これ)を貫(つらぬ)く。

 曾子(そうし)曰(いわ)く、唯(い)。子(し)出(い)ず。

 門人(もんじん)、問(と)いて曰(いわ)く、何(なん)の謂(い)いぞや。

 曾子(そうし)曰(いわ)く、夫子(ふうし)の道(みち)は、

 忠恕(ちゅうじょ)のみ

  参 … 曾子の名。「しん」と読み、「さん」とは読まない。

  乎 … 呼びかけに用いて「や」と読む。「~よ」と訳す。

  一以貫之 … 「之」は「一」を強めるための語助の辞で、

        何も示さない。

        故事成語【一以て之を貫く】参照。

        皇侃(U おうがん)本等では「一以貫之哉」に作る。

  唯 … 「い」と読む。目上の人に対し、「はい」と答える丁寧な返事。

  門人 … 孔子の他の門人たち。曾子の門人という説もあるが、

      ここではとらない。

  何謂也 … 疑問の形。「どういう意味ですか」。

  夫子 … 先生。ここでは孔子を呼ぶ尊称。

  忠恕 … 真心と思いやり。

  而已矣 … 「のみ」と読む。強い断定の意を示す。

       「而已のみ」をさらに強調した言い方。

       「…だけだ」「他にはない、ただこれだけだ」の意。

       「而已焉」「而已耳」。 

  下村湖人(1884~1955)は

 「先師がいわれた。

  参(しよ)、私の道はただ一つの原理で貫かれているのだ。

  曾先生がこたえられた。さようでございます。

  先師はそういって室を出て行かれた。

  すると、ほかの門人たちが曾先生にたずねた。

  今のはなんのことでしょう。

  曾先生はこたえていわれた。

  先生の道は忠恕ちゅうじょの一語につきるのです」

  と訳している(現代訳論語)。

 ※忠恕 …忠は己の誠心を尽くすをいう。

     恕は己を推すをいう。

   いわゆる己の欲せざる所は人に施すこと勿(な)きは、これ恕なり。


 論語 雍也第六 19

  子曰。中人以上。可以語上也。中人以下。不可以語上也。

  子(し)曰(いわ)く、中人(ちゅうじん)以上(いじょう)は、

 以(もっ)て上(かみ)を語かたる可べきなり。

 中人(ちゅうじん)以下(いか)は、以(もっ)て上(かみ)を

 語(かたる)可(べ)からざるなり。

  下村湖人(1884~1955)は

 「先師がいわれた。

  中以上の学徒には高遠精深な哲理を説いてもいいが、

  中以下の学徒にはそれを説くべきではない」

 と訳している(現代訳論語)


 論語 雍也第六 28

  子貢曰。如有博施於民。而能濟衆。何如。可謂仁乎。

 子曰。何事於仁。必也聖乎。堯舜其猶病諸。夫仁者。己欲立而立人。

 己欲達而達人。能近取譬。可謂仁之方也已。

  子貢(しこう)曰(いわ)く、

 如(も)し博(ひろ)く民(たみ)に施(ほどこ)して、

 能(よ)く衆(しゅう)を済(すく)うもの有(あ)らば、何如(いかん)。

 仁(じん)と謂(い)う可(べ)きか。

 子(し)曰(いわ)く、何(なん)ぞ仁(じん)を事(こと)とせん。

 必(かならず)や聖(せい)か。

 尭舜(ぎょうしゅん)も其(そ)れ猶(な)お諸(これ)を病(や)めり。

 夫(それ)仁者(じんしゃ)は己(おのれ)立(た)たんと欲(ほっ)して

 人(ひと)を立(た)て、

 己(おのれ)達(たっ)せんと欲(ほっ)して人(ひと)を達(たっ)す。

 能(よ)く近(ちか)く譬(たと)えを取(と)る。

 仁(じん)の方(ほう)と謂(い)う可(べ)きのみ

  如有 … 皇侃おうがん本等では「如能」に作る。

  衆 … 皇侃おうがん本等では「衆者」に作る。

  下村湖人(1884~1955)は

 「子貢が先師にたずねていった。

  もしひろく恵みをほどこして民衆を救うことができましたら、

  いかがでしょう。

  そういう人なら仁者といえましょうか。

  先師がこたえられた。

  それができたら仁者どころではない。

  それこそ聖人の名に値するであろう。

  堯や舜のような聖天子でさえ、それには心労をされたのだ。

  いったい仁というのは、何もそう大げさな事業をやることではない。

  自分の身を立てたいと思えば人の身も立ててやる、

  自分が伸びたいと思えば人も伸ばしてやる、

  つまり、自分の心を推して他人のことを考えてやる、

  ただそれだけのことだ。

  それだけのことを日常生活の実践にうつしていくのが

  仁の具体化なのだ」

 と訳している(現代訳論語)。


 論語 泰伯第八 2

  子曰。恭而無禮則勞。愼而無禮則葸。勇而無禮則亂。直而無禮則絞。

 君子篤於親。則民興於仁。故舊不遺。則民不偸。

  子(し)曰(いわ)く、恭(きょう)にして

 礼(れい)無(な)ければ則(すなわ)ち労(ろう)す。

 慎(しん)にして礼(れい)なければ則(すなわ)ち葸(おそ)る。

 勇(ゆう)にして礼(れい)なければ則(すなわ)ち乱(みだ)る。

 直(ちょく)にして礼(れい)なければ則(すなわ)ち絞(せま)し。

 君子(くんし)親(しん)に篤(あつ)ければ、

 則(すなわ)ち民(たみ)仁(じん)に興(おこ)る。

 故旧(こきゅう)遺(わす)れざれば、

 則(すなわ)ち民(たみ)偸(うす)からず。

  下村湖人(1884~1955)は

 「先師がいわれた。

  恭敬なのはよいが、それが礼にかなわないと窮屈になる。

  慎重なのはよいが、それが礼にかなわないと臆病になる。

  勇敢なのはよいが、それが礼にかなわないと、不逞になる。

  剛直なのはよいが、それが礼にかなわないと苛酷になる。

  またいわれた。

  上に立つ者が親族に懇篤であれば、

  人民はおのずから仁心を刺戟される。

  上に立つ者が故旧を忘れなければ、

  人民はおのずから浮薄の風に遠ざかる」

 と訳している(現代訳論語)。


 論語 泰伯第八 18

  子曰。巍巍乎。舜禹之有天下也。而不與焉。

  子(し)曰(いわ)く、巍巍乎(ぎぎこ)たり、

 舜(しゅん)・禹(う)の天下(てんか)を有(たも)つや、

 而(しこう)して与(あずか)らず。

  下村湖人(1884~1955)は

 「先師がいわれた。

  何という荘厳さだろう、

  舜(しゅん)帝と禹(う)王が天下を治められたすがたは。

  しかも両者ともに政治には

  なんのかかわりもないかのようにしていられたのだ」

 と訳している(現代訳論語)。


 論語 泰伯第八 19

  子曰。大哉。堯之爲君也。巍巍乎。唯天爲大。唯堯則之。

 蕩蕩乎。民無能名焉。巍巍乎。其有成功也。煥乎。其有文章。

  子(し)曰(いわ)く、

 大(だい)なるかな、堯(ぎょう)の君(きみ)たるや。

 巍巍(ぎぎ)たるかな、唯(ただ)天(てん)を大(だい)なりと為(な)し、

 唯(ただ)堯(ぎょう)のみ之(これ)に則(のっ)とる。

 蕩々(とうとう)たるかな、民(たみ)能(よ)く名(な)づくること無(な)し。

 巍巍(ぎぎ)たるかな、其(そ)れ成功(せいこう)有(あ)り。

 煥(かん)として、其(そ)れ文章(ぶんしょう)有(あ)り。

  巍巍たるかな … 「巍巍乎(ぎぎこ)として」とも読む。

  蕩蕩たるかな … 「蕩蕩乎(とうとうこ)として」とも読む。

  煥として … 「煥乎(かんこ)として」とも読む。

  下村湖人(1884~1955)は

 「先師がいわれた。

  堯帝の君徳はなんと大きく、なんと荘厳なことであろう。

  世に真に偉大なものは天のみであるが、

  ひとり堯帝は天とその偉大さをともにしている。

  その徳の広大無辺さはなんと形容してよいかわからない。

  人はただその功業の荘厳さと文物制度の

  燦然(さんぜん)たるとに眼を見はるのみである」

 と訳している(現代訳論語)。


 論語 子罕第九 13

  子欲居九夷。或曰陋如之何。子曰。君子居之。何陋之有。

  子(し)、九夷(きゅうい)に居(お)らんと欲(ほっ)す。

 或(あ)るひと曰(いわ)く、陋(ろう)なり。

 之(これ)を如何(いかん)せん。

 子(し)曰(いわ)く、君子(くんし)之(これ)に居(お)らば、

 何(なん)の陋(ろう)か之(これ)有(あ)らん。


  九夷 … 東方に住む九種の異民族。

  下村湖人(1884~1955)は

 「先師が道の行なわれないのを嘆じて九夷(きゅうい)の地に

  居をうつしたいといわれたことがあった。

  ある人がそれをきいて先師にいった。

  野蛮なところでございます。

  あんなところに、どうしてお住居ができましょう。

  すると先師はいわれた。

  君子が行って住めば、いつまでも野蛮なこともあるまい」

  と訳している(現代訳論語)。


 論語 堯曰第二十 1

  堯曰。咨爾舜。天之暦數在爾躬。允執其中。四海困窮。天禄永終。

 舜亦以命禹。

  曰。予小子履。敢用玄牡。敢昭告于皇皇后帝。有罪不敢赦。

 帝臣不蔽。簡在帝心。朕躬有罪。無以萬方。萬方有罪。罪在朕躬。

 周有大賚。善人是富。雖有周親。不如仁人。百姓有過。在予一人。

 謹權量。審法度。脩廢官。四方之政行焉。興滅國。繼絶世。舉逸民。

 天下之民歸心焉。所重民食喪祭。

 寛則得衆。信則民任焉。敏則有功。公則説。

  堯(ぎょう)曰(いわ)く、

 咨(ああ)爾(なんじ)舜(しゅん)、天(てん)の暦数(れきすう)、

 爾(なんじ)の躬(み)に在(あ)り。

 允(まこと)に其(そ)の中(ちゅう)を執(と)れ。

 四海(しかい)困窮(こんきゅう)せば、

 天禄(てんろく)永(なが)く終(お)わらんと。

 舜(しゅん)も亦(ま)た以(もっ)て禹(う)に命(めい)ず。

 曰(いわ)く、

 予(われ)小子(しょうし)履(り)、

 敢(あえ)て玄牡(げんぼ)を用(もち)いて、

 敢(あえ)て

 昭(あき)らかに皇皇(こうこう)たる后帝(こうてい)に告(つ)ぐ。

 罪(つみ)有(あ)るは敢(あえ)て赦(ゆる)さず。

 帝臣(ていしん)蔽(おお)わず。

 簡(えら)ぶこと帝(てい)の心(こころ)に在(あ)り。

 朕(わ)が躬(み)に罪(つみ)有(あ)らば、

 万方(ばんぽう)を以(もっ)てする無(な)かれ。

 万方(ばんぽう)に罪(つみ)有(あ)らば、

 罪(つみ)は朕(わ)が躬(み)に在(あ)りと。

 周(しゅう)に大賚(たいらい)有(あ)り。

 善人(ぜんにん)是(こ)れ富(と)めり。

 周(しゅう)親(しん)有(あ)りと雖(いえど)も、

 仁人(じんじん)に如(し)かず。

 百姓(ひゃくせい)過(あやま)ち有(あ)らば、

 予(われ)一人(いちにんに)在(あ)り。

 権量(けんりょう)を謹(つつし)み、

 法度(ほうど)を審(つまびらか)にし、

 廃官(はいかん)を脩(おさむ)れば、

 四方(しほう)の政(まつりごと)行(おこな)われん。

 滅国(めっこく)を興(おこ)し、絶世(ぜっせい)を継(つ)ぎ、

 逸民(いつみん)を挙(あ)ぐれば、

 天下(てんか)の民(たみ)心(こころ)を帰(き)す。

 重(おも)んずる所(ところ)は

 民(たみ)の食(しょく)と喪(そう)と祭(さい)なり。

 寛(かん)なれば則(すなわ)ち衆(しゅう)を得(え)、

 信(しん)なれば則(すなわ)ち民(たみ)任(にん)ず。

 敏(びん)なれば則(すなわ)ち功(こう)有(あ)り、

 公(こう)なれば則(すなわ)ち説(よろこ)ぶ。

  罪在朕躬 … 皇侃(おうがん)本等には「罪」の字なし。

  四方之政行焉 … 皇侃(おうがん)本では「四方之政行矣」に作る。

  信則民任焉 … 皇侃(おうがん)本等にはこの句なし。

  公 … 宮崎市定は「惠」に改めている。

  詳しくは『論語の新研究』88頁以下参照。

  公則説 … 皇侃(おうがん)本等では「公則民説」に作る。

  下村湖人(1884~1955)は

 「堯帝が天子の位を舜帝に譲られたとき、いわれた。

  ああ、汝、舜よ。

  天命いまや汝の身に下って、

  ここに汝に帝位をゆずる。

  よく中道をふんで政を行なえ。

  もし天下万民を困窮せしめることがあれば、

  天の恵みは永久に汝の身を去るであろう。

  舜帝が夏(か)の禹(う)王に位を譲られるときにも、

  同じ言葉をもってせられた。

  夏(か)は桀(けつ)王にいたって無道であったため、

  殷(いん)の湯(とう)王がこれをうち、

  天命をうけて天子となったが、

  その時、湯王は天帝に告げていわれた。

  小さき者、履り、つつしんで黒き牡牛をいけにえにして、

  あえて至高至大なる天帝にことあげいたします。

  私はみ旨を奉じ万民の苦悩を救わんがために、

  天帝に罪を得た者を誅しました。

  天帝のみ心に叶う臣下はすべてその徳が

  蔽おおわれないよういたしたいと思います。

  私は天帝のみ心のまにまに私の進むべき道を選ぶのみであります。

  さらに諸侯に告げていわれた。

  もしわが身に罪あらば、それはわれひとりの罪であって、

  万民の罪ではない。

  もし万民に罪あらば、それは万民の罪でなくて、

  われひとりの罪である。

  殷(いん)は紂(ちゅう)王にいたって無道であったため、

  周の武王がこれをうち、天命をうけて天子となったが、

  その時、武王は天帝に誓っていわれた。

  周に下された大きな御賜物を感謝いたします。

  周にはなんと善人が多いことでございましょう。
  
  いかに親しい身内のものがおりましょうとも、

  仁人の多きには及びませぬ。

  かように仁人に恵まれて、

  なお百姓(ひゃくせい)に罪がありますならば、

  それは私ひとりの罪でございます。

  武王はこうして、度量衡を厳正にし、礼楽制度をととのえ、

  すたれた官職を復活して、四方の政治に治績をあげられた。

  また、滅亡した国を復興し、断絶した家を再建し、

  野にあった賢者を挙用して、天下の民心を帰服せしめられた。

  とりわけ重んじられたのは、民の食と喪と祭とであった。

  このように、君たる者が寛大であれば衆望を得、

  信実であれば民は信頼し、勤敏であれば功績があがり、

  公正であれば民は悦ぶ。

  これが政治の要道であり、

  堯帝・舜帝・禹王・湯王・武王の残された道である」

 と訳している(現代訳論語)。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

 本生図と踊子像のある石柱


 Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
 ハブール川
 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
 牛頭を象った神社建築の棟飾部
 神社のルーツ
 鳥居のルーツ

2015年5月13日水曜日

儒家の祖「孔子」

 浦和レッズレディース
 『ひねもす至福の時』
 『明星院・広島県歴史&地名他』
 『Yahoo!天気・災害』
 『My ブログ』
 《考古学&古代史の諸問題》 
 《参考:年表・資料》
 Matのジオログ
 さいたま朝日WEB
 『日本創世紀』:倭人の来歴と邪馬台国の時代小嶋秋彦

  《課題》 孔子は和人〔倭人〕の社会習性を理想とした
     ―堯舜の賢政は和人の思想―

 儒家の祖「孔子」
 儒家の祖「孔子」;


 後漢書 卷八十五 東夷列傳第七十五 (序文)

 王制云 東方曰夷 夷者柢也 言仁而好生 萬物柢地而出 故天性柔順

 易以道御 至有君子不死之國焉 夷有九種 曰畎夷・于夷・方夷・黄夷・

 白夷・赤夷・玄夷・風夷・陽夷 ※「故孔子欲居九夷也」

 昔堯命羲仲宅嵎夷 曰暘谷 蓋日之所出也 夏后氏太康失德 夷人始畔 

 自少康已後 世服王化 遂賓於王門 獻其樂舞 桀爲暴虐 諸夷内侵 

 殷湯革命 伐而定之 至于仲丁 藍夷作寇 自是或服或畔 三百餘年 

 武乙衰敝 東夷寖盛 遂分遷淮・岱 漸居中土

 及武王滅紂 肅慎來獻石砮・楛矢 管・蔡畔周 乃招誘夷狄 周公征之 

 遂定東夷 康王之時 肅慎復至 後徐夷僭號 乃率九夷以伐宗周 

 西至河上 穆王畏其方熾 乃分東方諸侯 命徐偃王主之 偃王處潢池東 

 地方五百里 行仁義 陸地而朝者三十有六國 穆王後得驥騄之乘 

 乃使造父御以告楚 令伐徐 一日而至 於是楚文王大舉兵而滅之 

 偃王仁而無權 不忍闘其人 故致於敗 乃北走彭城武原縣東山下 

 百姓隨之者以萬數 因名其山爲徐山 厲王無道 淮夷入寇 

 王命虢仲征之 不克 宣王復命召公伐而平之 及幽王淫亂 四夷交侵

 至齊桓修霸 攘而卻焉 及楚靈會申 亦來豫盟 後越遷琅邪 與共征戰

 遂陵暴諸夏 侵滅小邦

 秦并六國 其淮・泗夷皆散爲民戸 陳渉起兵 天下崩潰 

 燕人衞滿避地朝鮮 因王其國 百有餘歳 武帝滅之 於是東夷始通上京 

 王莽簒位 貊人寇邊 建武之初 復來朝貢 時遼東太守祭肜威讋北方 

 聲行海表 於是濊・貊・倭・韓萬里朝獻 故章・和已後 使聘流通 

 逮永初多難 始入寇鈔 桓・靈失政 漸滋曼焉

 自中興之後 四夷來賓 雖時有乖畔 而使驛不絶 故國俗風土 

 可得略記 東夷率皆土著 憙飲酒歌舞 或冠弁衣錦 器用俎豆 

 所謂中國失禮 求之四夷者也 凡蠻・夷・戎・狄總名四夷者 

 猶公・侯・伯・子・男皆號諸侯云

 『王制』(=『禮記(らいき)・王制偏』)に云う、

 「東方を夷(い)と曰う」と。 

 「夷」とは「柢(てい/「根」のこと)」なり。 

 仁にして好生、

 萬物は地に柢して(=根をしっかりと張って)出ずと言う。 

 故に天性柔順、道をもって御(ぎょ)し易し。

 君子・不死の國有るに至る。(参照:「山海經」) 夷に九種有り。

 畎夷(けんい)・于夷(うい)・方夷(ほうい)・黄夷(こうい)・

 白夷(はくい)・赤夷(せきい)・玄夷(げんい)・風夷(ふうい)・

 陽夷(ようい)と曰う。 

 ※「故に孔子は九夷に居らんと欲せしなり」。

 昔、堯(ぎょう)は羲仲(ぎちゅう)に命じ嵎夷(ぐうい)に宅せしむ。 

 暘谷(ようこく)と曰う。

 蓋(けだ)し日の出ずる所なり。

 夏后氏の太康は德を失ない、夷人始めて畔(そむ)く。

 少康(=夏后少康)已後(いご/以後)より世に王化に服し

 遂に王門に賓(ひん)し、その樂舞を獻ず。 

 桀(けつ/夏の桀王)は暴虐を爲し、諸夷は内に侵す。

 殷の湯(とう/殷の湯王)は命を革(あらた)め、伐ちてこれを定む。

 仲丁(ちゅうてい)に至り、藍夷(らんい)は寇を作(な)す。

 これより或いは服し或いは畔(そむ)き、三百餘年。

 武乙は衰敝し、東夷は寖(ようや)く盛んなり。 

 遂に分かちて淮(わい)・岱(たい)に遷(うつ)り、

 漸(ようや)く中土に居す。

 武王(=周の武王)、紂(=殷の紂王)を滅ばすに及び、

 肅慎(しゅくしん)來り石砮(せきど)・楛矢(こし)を獻ず。

 管・蔡(=武王の弟の管叔と蔡叔)、周に畔き、

 すなわち夷狄(いてき)を招誘す。

 周公これを征し、遂に東夷を定む。 

 康王の時、肅慎また至る。

 後に徐夷(じょい)僭號(せんごう)し、

 すなわち九夷を率い以って宗周を伐ち、

 西に河(=黄河)の上(ほとり)に至る。

 穆王(ぼくおう)、そのまさに熾(さかん)なるを畏れ、

 すなわち東方諸侯を分かち、

 徐の偃王(えんおう)に命じてこれに主たらしむ。

 偃王は潢池(こうち)の東に處す。

 地の方は五百里。

 仁義を行ない、陸地にして朝する者は三十有六國。

 穆王、後に驥騄(きりょく)の乘を得たり。

 すなわち造父(ぞうほ)をして御さしめ、

 以って楚に告げて徐を伐たしむ。

 一日にして至る。

 ここに楚の文王は大いに兵を舉げてこれを滅す。

 偃王は仁なれども權無く、その人と闘うに忍びず。

 故に敗を致す。

 すなわち彭城武原縣の東山の下に北走(のが)る。

 百姓のこれに隨う者、以って萬を數えたり。

 因りてその山の名を徐山と爲す。

 厲王は無道にして、淮夷(わいい)入寇す。

 王、虢仲(かくちゅう)に命じてこれを征たしむるも克たず。

 宣王、また召公に命じ伐たしめてこれを平らぐ。

 幽王の淫亂なるに及び、四夷は交(こもごも)侵す。

 齊桓(=春秋五覇の一人、齊の桓公)の霸を修むるに至り、

 攘(はら)いてこれを卻(しりぞ)く。

 楚靈(=楚の靈王)、申(しん)に會するに及び、

 また來り盟に豫(あずか)る。

 後に越は琅邪(ろうや)に遷り、與共(とも)に征戰し、

 遂に諸夏を陵暴(りょうぼう)し、小邦を侵し滅ぼす。

 秦は六國を并せ、

 その淮(わい)・泗(し)の夷は皆な散じて民戸と爲す。

 陳渉(=陳勝)兵を起こし、天下崩潰す(=陳勝呉広の乱)。

 燕人衞滿(えいまん)は地を朝鮮に避け、

 因りてその國に王たりて(=衞氏朝鮮)百有餘歳。

 武帝(=漢の武帝)はこれを滅ぼし、ここに東夷は始めて上京に通ず。

 王莽(おうもう)、簒位するや貊人(はくじん)は邊を寇す。

 建武の初め、また來たり朝貢す。

 時に遼東太守の祭肜(さいゆう)は、

 威を北方に讋(おそ)れしめ、聲は海表に行なわれたり。

 ここに濊(わい)・貊(はく)・倭(わ)・韓(かん)は萬里朝獻す。

 故に章・和(=後漢の章帝・和帝)已後(=以後)、

 使聘(しへい)流通す。

 永初の多難に逮(およ)び、始めて入りて寇鈔す。

 桓・靈(=後漢の桓帝・靈帝)失政し、

 漸(ようや)く滋曼(じまん)せり。

 中興(=後漢の光武帝により漢王朝が復興された)の後より、

 四夷來賓す。

 時に乖畔(かいはん)有りと雖ども、而して使驛は絶えず。

 故に國俗風土を略記するを得る可し。

 東夷は率(おおむね)皆な土著(どちょ/土地につく=定住)にして

 飲酒・歌舞を憙(この)み、或いは弁(べん)を冠り錦を衣る。

 器に俎豆(そとう)を用う。

 所謂(いわゆる)、中國、禮を失なわば、これを四夷に求むる者なり。

 凡そ蠻(ばん=南蠻)・夷(い=東夷)・戎(じゅう=西戎)・

 狄(てき=北狄)を總(すべ)て「四夷」と名づくるは、

 なお公・侯・伯・子・男を皆な「諸侯」と號すがごとしと云う。

 ※出典:(古代史獺祭 : こだいし だっさい)


 史記・夏本紀第二(抜粋)

 太史公曰:禹為姒姓,其後分封,用國為姓,故有夏后氏、有扈氏、

 有男氏、斟尋氏、彤城氏、襃氏、費氏、杞氏、繒氏、辛氏、

 冥氏、斟氏、戈氏。

 ※「孔子正夏時」,學者多傳夏小正雲。自虞、夏時,貢賦備矣。

 或言禹會諸侯江南,計功而崩,因葬焉,命曰會稽。

 會稽者,會計也。

 太史公が夏王朝の記事を終えるにあたり、総論していうには、

 禹は姒姓であったがその子孫は分封せられて諸侯となり、

 それぞれの国名をもって姓とした。

 それ故に、夏后氏・有扈氏・有男氏・斟尋氏・彤城氏・襃氏・

 費氏・杞氏・繒氏・辛氏・冥氏・斟氏・戈氏がある。

 ※「孔子は夏の時を正しとす。」

 学者は多く夏小正を傳ふと云ふ。

 虞夏の時より、貢賦備はれり。

 或は言ふ、禹、諸侯を江南に會し、功を計りて崩ぜり。

 因りて焉に葬る。

 命じて會稽と曰ふ。

 會稽とは會計なり、と。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
 

 牛頭を象った神社建築の棟飾部

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Tell Arpachiyah (Iraq)
 Tell Arpachiyah (Iraq)  
 ハラフ期の土器について
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 ハブール川(ハブル川、カブル川、Khabur、Habor
、Habur、Chabur、アラム語:ܚܒܘܪ, クルド語:Çemê Xabûr, アラビア語:نهر الخابور Bahr al-Chabur
 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿
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 《参考:年表・資料》
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 《課題》日本文明は中国文化の分派にあらず
     ―神のいる国の情義と神無き国の野蛮―

 司馬遷の『史記』(卷二十八封禪書 第六)

 秦⑫

 〔秦の時の祭り〕

  昔三代(夏・殷・周)の都は、皆黄河と洛水の辺りに置かれた。

 従って嵩高(嵩山)を中嶽として、四嶽は夫々その方向のままにあたり、

 四瀆はすっかり山東にあった。

 秦が帝と称して威陽に都を置くことになると、五嶽・四瀆ともに

 すっかり東方にあることになった。

 五帝から秦まで、かわるがわる帝王が興っては衰えたため、

 名山大川は、諸侯の領地にはいったこともあり、

 天子の域内にはいったこともあって、

 それを祀る礼を、鄭重にしたり簡略にしたりする仕方も、

 時代ごとに異なっているので、一々ここに書くわけにはいかない。

 しかし、秦が天下を併合してからは、祠官が常々奉じている

 天地・名山・大川・鬼神をば次第づけることができるようにした。

  その次第は、殽(崤山、河南省澠池県の西南)より東には、

 名山が五つと、大川の祠が二つ。

 〔五つの名山とは〕太室、

 ―太室とは嵩高のこと―恒山、泰山、会稽山、湘山、

 〔二つの〕川とは済水(その祠は臨邑)・淮水(その祠は平氏県)、である。

 春にはほじしと酒を供えて豊年であるように祭りをし、

 そのついでに氷のとける祭りをする。

 秋には氷の張る祭りをし、冬には神の恵みに感謝を捧げるお祭りをする。

 その生贄には、牛と子牛と各々一頭ずつ用いるが、

 生贄の揃え方と珪幣とには各々違いがある。

  華(華山、陝西省華陰県の南)より西には、名山が七つ、名川が四つ。

 〔七つの名山とは〕華山、

 薄山、―薄山とは衰山(襄山?陝西省潼関県の北?)のこと―

 岳山(陝西省武功県にある?)、岐山(陝西省岐山県の真北)、

 呉岳(汧山、陝西省汧陽県にある)、

 鴻冢(後にみえる黄帝の臣の大鴻の葬られた山?)、

 瀆山、―瀆山とは蜀の汶山(四川省茂県の東南)のこと―であり、

 〔四つの〕川とは、河(黄河)―臨晋(陝西省大茘県)で祭る―、

 沔(漢水に注ぐ川)―漢中(秦漢のときの郡、陝西省南鄭県の辺り)で祭る―、

 湫淵―朝那(陝西省南鄭県)で祭る―、江水―蜀で祭る―、である。

 また春と秋の、氷が解ける祭りと氷が張る祭りや、

 〔冬に〕神の恵みに感謝を捧げる祭りは、

 東方の名山大川〔を祭る場合〕と同様にするので、

 生贄の揃え方と珪・幣とには各々違いがある。

 しかし、四つの大きな冢(山の頂きのことという)である

 鴻と岐と呉と岳とには、皆新穀が供えられる。

 陳宝〔の神〕が季節に応じてやってくれば、お祭りをする。

 河〔を祭る〕には〔他の三川の場合の供え物に〕加えて、

 濁り酒が供えられる。

  以上は皆雍州の域内のあって、天子の都に近いから〔祭りには〕

 車一乗と、黒いたてがみの赤馬四頭が加えられる。

 灞・産・長水・澧・澇・涇・渭(皆陝西省の川)は、

 どれも大川というわけではないが、咸陽に近いために、

 皆山川の祭りになおぞらえることはできるが、

 〔車や馬など〕いろいろと加えることはしない。

 汧・洛・二淵・鳴沢・蒲山・嶽しょ山の類は、小さな山川であるが

 やはり皆、毎年、神の恵みに感謝する祭りや氷が溶け氷が張る祭りをする。

 ただその礼は同じであるとは限らない。

  また雍には、日月・参辰(オリオンとアンタレス)・南北斗・熒惑(火星)・

 太白(金星)・歳星(木星)・填星(土星)・二十八宿・風伯(風の神)・

 雨師(雨の神)・四海(四方の境域)・

 九臣十四臣(九臣六十四臣?漢旧儀にみえる九皇六十四民のこと?)・

 数々の布(星を祀る場所のこと?)数々の荘(ちまた)・

 数々の述(遂? 田に水を引く溝)といった類の、百」にも余る廟がある。

 西(漢の時の西県。甘粛省天水姸の西南二十里。秦の非子がいた犬丘)

 にも数十の祠があり、湖(漢の時の湖県。河南省閿郷県の東四十里)には

 周の天子の祠があり、下邽(漢の時の県。陝西省渭南県の東北五十里)に

 天神〔の祠〕があり、澧・滈(ともに陝西省を流れる川)に

 昭明(昭明星の祠)と天子の辟雍の池があり、

 杜亳(陝西省西安県の東南、杜陵県の亳亭)には杜主の祠が三つと、

 寿星(南極老人星、カノーブス)祠があり、雍の菅廟(?)にも杜主がある。

 杜主は、もとの周の右将軍である。

 これらは秦の土地ではもっとも格式の低い鬼神ながら、

 霊顕あらたかなものであるから、毎年、四時に祭りを捧げる。


  ただ雍の四つの時で祭る上帝こそ、とうといものとされる。

 またその光景が人民を感動させるという点では、あの陳宝である。

 そこで雍の四つの時では、春には豊年を祈り、

 因みに凍りの解ける祭りをし、秋に氷の張る祭りをし、

 冬に神への感謝の祭りをする。

 五月に駒を生贄にして祭るときも、四季の仲月に行う祭りの時も、

 毎月の祭りと同様にする。

 一方、陳宝は、季節に応じてやって来た時に祭りをし、

 春と夏には赤馬を生贄に用いる。

 時でする祭りに、駒は四匹、木彫りの、竜四頭を駕した車は一台、

 夫々お祭りする帝の色にあわせる。

 黄色の子牛と子羊各々の四頭、珪と幣にも各々数の決まりがある。

 生贄は皆生埋めにするのであって、俎豆が整えられることはない。

  三年に一度郊の祭りをする。

 秦は冬の十月を年の初めとしたので、例年、十月も上旬のうちに、

 〔天子が親しく〕郊の祭りをして〔天帝に〕まみえるのである。

 松明を点々とともし、威陽の近くで拝し、衣(うわぎ)は白い色を尊び、

 その時のお供えは平常の祭りと同様にするという。


  西畤(西の祭壇、秦の襄公が作って白帝を祭った)での祭りと

 畦畤(韮ばたけのような祭壇、秦の献公が作って白帝を祭った)

 での祭りとは、祭り方は昔からのしきたりの通りにするが、

 天子が親しく出向きはしない。

 いくつものこの種の祭りは、皆いつも太祝(祭りを司る者)が執り行い、

 毎年の四時に祭りを捧げる。

 このほかの名山大川や、諸々の鬼神及び八神の類となると、

 天子が立ち寄った時に祭り、立ち去ればやめる。

 郡県にあって都から遠い神祠は、民が思い思いに祭りを捧げるにまかせ、

 天子の祝官に管理させない。

 祝官のなかに秘祝がいて、もしも災いの兆しが現れた時は、

 その度にお祈りして、罪を下々に移すのである。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
 高床式神殿、牛頭、空白の布幕、幕と婦人、マルタ十字紋等
 (アルパチア遺跡出土の碗形土器に描かれている) 
  
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 秦⑪

 〔秦の末年〕

  その翌年、始皇は再び海岸地帯を旅行し、琅邪まで来て、

 恒山を通って上党(秦の時の郡、山西省の東南部)から帰った。

 3年の後、碣石(河北省海辺の山の名?)に旅行したとき、

 海に出かけたことがあるという方士たちについて〔その真偽のほどを〕
 
 取調べ、上郡(陝西省北部から内蒙古のオルドスにわたる土地)を

 通って帰った。

 また5年後に、始皇は南方へ旅行して

 湘山(湖南省湘陰県の北、青草湖にのぞむ青草山)に着き、

 それから会稽山(浙江省紹興県の東南13里)に登り(禹を祀った)、

 海辺に沿って歩きつつ、かの三神山の奇薬に出会いたいものと

 心に願ったのであるが、手に入らず、帰途、

 沙丘(河北省平郷県の東北)に着いた時に亡くなった。

  二世の元年、〔二世皇帝は〕東方へ旅行し、碣石を廻り、

 海に沿って南下して泰山を経て会稽に行き着いた。

 どの山でも礼に則ってお祀りを行い、

 始皇帝が立てた碑文の傍らにまた文を刻みつけて、

 始皇帝の功業と徳を顕彰した。

  その年の秋、諸侯が秦に背き、

 3年経って二世は弑(し)せられて亡くなり、

 始皇が封禅を行ってのち12年で秦は滅びた。

 儒者たちは、秦が『詩』『書』を火にくべ、

 文学の士を殺したことを憎んでいたし、

 世をあげて秦に背いたのであった。

 そのとき皆が、

 「始皇は泰山に登った時に暴風にうたれて封禅できなかったのだ」

  などといい加減なことを言いふらしたものだが、

 始皇こそは、世にいわゆる、それだけの徳もないくせに、
 
 実行にうつしたものなのであろうか。


《参考》

 ARPACHIYAH 1976
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 秦⑩

 〔三神山〕

  〔斉の〕威王・宣王、燕の昭王から、人をやって海に入り、

 蓬莱・方丈・瀛州〔という三つの神山〕を

 捜させるということが始まった。

 この三神山は、言伝えによれば、渤海のなかにあって、

 さほど遠いところではない。

 ただ、いまにも行き着くかと思うときに、

 船が風に引かれるままに離れてしまうのが、

 いかにも残念なのである。

 つまり、昔には行き着いた者がいたようで、

 そこにはもろもろの仙人たちもおれば、

 不死の薬もあって、そこにあるもの、
 
 鳥獣のまで白一色で、黄金と白銀とで宮殿を造っている。

 そこまで行かぬうちに遠く望めば雲のようであり、

 そこまで行って見ると三神山は返って水の下にあり、

 それを覗ききむと、決まって風が船を引いて離してしまい、

 結局、誰も行き着くことはできなかった、という。

 〔それだけに〕世に時めく人君たるもの、

 ここに思いをかけないものとてはないのである。

  秦の始皇帝が天下を併合して、海辺にまで来たとなると、

 このことを言上する方子たちは、数えきれぬばかりであったが、

 始皇自ら、海辺までは来ているものの、

 なかなか〔三神山へは〕行けそうもないぞ、と思ったので、

 使いのものに、

 なんと〔驚いたことには〕少年少女たちを供物として連れさせ、

 海に出て捜すように命じた。

 その船は沖で示し合わせ、口を揃えて風のことで

 言い逃れをすることにして、

 「到着できませんでしたけれど、遙か彼方に見えましてございます」

 と言った。

《参考》

 ARPACHIYAH 1976
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2015年4月24日金曜日

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 秦⑨

 〔方子の起こり〕

 斉の威王・宣王の時から、

 騶子(騶衍)の輩(ともがら)は

 五徳の運行を論じて書物を著していたが、

 秦の世になって、

 斉の国の人がこれを奏上したものだから、

 始皇帝は五行の説を採用したのである。

 ところで宋母忌・正伯僑・充・尚・羨門高・最後らは

 みな燕(河北省)の人で、仙人の術を行い、

 からだの形ををなくしたり、

 なにかにかえたりしてみせて、

 鬼神の仕業にかこつけた。

 また騶衍は陰陽主運の説

 (陰陽家の騶子という本に主運篇があったという)を

 ひっさげて、諸侯の間にかくれもない存在であった。

 ところが燕の地方や斉の海辺の方子たちは、

 その術を受け継いでいながら、

 それを自分のものにするだけの能力がなかった。

 さてそうなると、

 得体の知れないまが事をやって、

 おもねりへつらう輩が、

 この時から起こり、

 その数ははかり知れないばかりにのぼるである。

《参考》

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