2014年3月10日月曜日
高麗神社
「古代史ブログ講座」開講にあたって
Matのジオログ
『My ブログ』
《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
高麗神社:Wikipedia
高麗神社:ホームページ
出典:高麗神社:ご案内
『神事』
元旦祭 1月1日
桜祭 4月第1日曜
建郡記念祭 5月16日
夏越しの払い 6月下旬の日曜日
例大祭 10月19日
菊花祭 11月3日
『祈願』
出世開運
家内安全
商売繁盛
合格祈願
交通安全
お宮参り
七・五・三参り
厄徐祈願
方位除け
高麗王若光の供養塔(聖天院境内)
高麗の
こきし
若き光の
導きに
むさし大野は
ひらけそめけむ
若光王の高麗郷入りを
おもひ出し詠める
甲鳥園主人 五十嵐 力
『高麗郷の歴史』
「高麗郡の設置」
奈良時代の歴史書『続日本紀』
元正天皇の霊亀二年(716年)五月の条に、
駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)
常陸(茨城)下野(栃木)七か国の高麗人千七百九十九人を
武蔵国(埼玉)に移して高麗郡を置くとあります。
当時、関東甲駿地方に高麗人が散在していたこと、
これを武蔵国に集めて高麗郡を設けたことがわかります。
当時の高麗は正しくは高句麗のことで、
新羅滅亡の後朝鮮半島を統一した高麗とは別の国です。
「高麗(高句麗)の建国滅亡」
高句麗は紀元前一世紀、中国の東北地方に興り、
朝鮮半島の大半を有して平壌に都し、
中国文化を取り入れた強大な先進国でした。
しかし、建国から七百余年、
天智天皇の七年(668年)唐と新羅によって亡ぼされました。
わが国とは古くから盛んに往来があり、
文化や産業の上に大きな貢献があったことが
日本書紀などに記されています。
「高麗人の渡来と安住の地高麗郷」
高句麗滅亡のとき難を避けて多くの王族や遺臣が
わが国に亡命して各地に散在していました。
一地域に集めて安住させるのが渡来人を遇する途として、
新たに高麗郡が置かれました。
高麗郡は郡の中心となしていました。
※高麗郡の名はおよそ千二百年の間、
武蔵国高麗郡として広く親しまれて来ました。
しかし、明治二十九年(1896年)郡の改編によって廃されました。
高麗神社の鎮座する旧高麗村は
現在の埼玉県日高市の西部を占めています。
『高麗神社の由来』
「郡の首長高麗王若光」
高麗郡が設けられたとき、
その郡を治めたと伝えられるのは高麗王若光です。
若光については、
『続日本紀』文武天皇の大宝三年(703年)の条に、
従五位下の高麗王若光に王姓を賜うとあり、
すでに位を授けられさらに王姓を賜ったのは、
若光が高句麗の王族であったので特に優遇され、
後に郡の統治を任されたものと考えられます。
「高麗神社の創建」
安住の地は与えられものの、
国の中央から遠く離れた辺境の地、
武蔵国の一角に移された郡民の困苦は
深刻なものであったと思われます。
郡民の生活を託された若光は、
今の高麗神社の辺りに居を定めて郡民を督励し、
祖国の技術をもって荒野を開き産業を興して民生を安定させ、
郡民敬慕をのうちに波瀾に富んだ生涯を終えたと伝えられています。
郡民がその徳を偲びその霊を祀ったのが高麗神社の始まりです。
祭神である高麗王若光の子孫は代々当社の宮司をつとめ、
現に六十代におよんでいます。
同家には古くから伝わる系譜「高麗氏系図」があり
次の前文が書かれています。
(前文の始めの部分は欠落しています。系譜はすべて漢文体です。)
これにより従来の貴賎相集まり屍を場外に埋め、
且つ神国の例により霊廟を御殿の後山に建て高麗明神と崇め、
郡中に凶あらばすなわちこれを祈るなり。
長子家重世を継ぐなり。
天平勝宝三年(751年)辛卯、僧勝楽寂す。
弘仁とその弟子聖雲同じくして
遺骨を納め一字を草創し、勝楽寺という。
聖雲は若光の三子なり。
これによって当社と勝楽寺の由来を知ることができます。
およそ千三百年前に創建された社寺の由緒が、
史書や文献によって
これ程明らかにされている例は珍しいとされています。
極楽寺は当社に近く聖天院の名によって広く知られる名刹で、
新義真言宗智山派に属し、
法灯は連綿五十世にわたり継承されています。
その山門のかたわらに若光の供養塔があります。
砂岩を重ねた多重塔で素朴なものです。
「白髭神社と出世明神」
文献によれば武蔵国(埼玉・東京)の各地に
白髭神社或いは白髭明神と呼ばれる社が五十五社あり、
これはみな当社の分社であり、
当社を高麗惣社と称したとあります。
若光が晩年白髭をたくわえ、
白髭さまと親しみ尊ばれていたので、
当社に白髭明神という別の社名が生まれたとされています。
後年、高麗人の子孫が各地に分住し、
高麗郡の例にならってその地域の開発を行い、
若光の遺徳を敬慕してその霊を分祀したものと思われます。
また当社は、出世・開運の神として広く崇敬を集めています。
葛城・建内宿禰(5)一言主大神
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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
葛城・建内宿禰(5)一言主大神
『古事記』雄略天皇
又一時、天皇登幸葛城山之時、百官人等、悉給著紅紐之青摺衣服。
彼時有其自所向之山尾、登山上人。
既等天皇之鹵 簿、亦其裝束之状、及人衆、相似不傾
爾天皇望、令問曰、「於茲倭國、除吾亦無王、今誰人如此而行。」
即答曰之 状亦如天皇之命。
於是天皇大忿而矢刺、百官人等悉矢刺。爾其人等亦皆矢刺。
故、天皇亦問曰、
「然告其名。爾各告名而彈矢。」
於是答曰、
「吾先見問。故、吾先爲名告。吾者雖惡事而一言、雖善事而一言、
言離之神、葛城一言主之大神者也。」
天皇於是惶畏而白、「恐我大神、有宇都志意美者【自宇下五字以音。】
不覺白而、大御刀及弓矢始而、脱百官人等所服衣服以拜獻。
爾其一言主大神、手打受其捧物。
故、天皇之還幸時、其大神滿山末、於長谷山口送奉。
故、是一言主之大神者、彼時所顯也。
また一時(あるとき)、天皇、(葛城)の山に登り幸しし時に、
百官(もものつかさ)の人等(ひとたち)、
悉く紅き紐を著けたる青摺(あおずり)の衣を給いて服(き)たり。
彼の時に、其の向える山の尾より山の上に登る人有り。
既に天皇の鹵簿(みゆきのつら)に等しく、
また其の裝束(よそおい)の状(かたち)、及び人衆(ひとかず)、
相似て傾かず。
爾くして天皇、望みて問わしめて曰く、
「茲(こ)の倭(やまと)の國に吾を除きて王(きみ)無きに、
今、誰人(たれ)ぞ如此(かく)て行く」。
即ち答えて曰う状(かたち)また天皇の命(みことのり)の如し。
ここに天皇、大きに忿(いか)りて矢刺し、
百官(もものつかさ)人等悉く矢刺(やざ)しき。
爾くして其の人等もまた皆矢刺しき。
故、天皇また問いて曰く、
「然らば其の名を告(の)れ。
爾くして各(おのおの)名を告(の)りて矢を彈(はな)たん」。
ここに答えて曰く「吾(あれ)先に問われつ。
故に、吾、先(ま)ず名告(なのり)爲さん。
吾は惡事(まがごと)と雖ども一言、善事(よごと)と雖ども
一言、言(こと)離つ神、葛城の一言主(ひとことぬし)の大神ぞ」。
天皇ここに惶(おそ)れ畏(かしこ)みて白さく、
「恐(かしこ)し、我が大神。
宇都志意美(うつしおみ)に有れば
【宇より下の五字は音を以ちてす】覺らず」
と白して、
大御刀(おおみたち)及び弓矢を始めて
百官(もものつかさ)の人等の服(け)せる衣服(ころも)を
脱がしめて以ちて拜(おろが)み獻(たてまつ)りき。
爾くして其の一言主の大神、手を打ちて其の捧物(ささげもの)を受けき。
故、天皇の還り幸す時に、
其の大神、山末(やますえ)に滿ちて長谷の山口(やまぐち)に送り奉りき。
故、是の一言主の大神は彼の時に顯(あらわ)れたるぞ。
また天皇、丸邇(わに)の佐都紀(さつき)の臣の女(むすめ)、
袁杼比賣(をどひめ)に婚(あ)わんとして春日に幸行(いでま)しし時に、
媛女(おとめ)、道に逢いき。
即ち幸行すを見て岡の邊に逃げ隱りき。故、御歌を作りき。
其の歌に曰く、
袁(を)登(と)賣(め)能(の)
伊(い)加(か)久(く)流(る)袁(を)加(か)袁(を)
加(か)那(な)須(す)岐(き)母(も)
伊(い)本(ほ)知(ち)母(も)賀(が)母(も)
須(す)岐(き)波(は)奴(ぬ)流(る)母(も)能(の)
乙女のい隠る岡を金も五百箇もがもき撥ぬるもの
葛城「カツラギ」
(Heb.)גֻדִַֻֻה,GDLH,guduiuah 大きいこと、偉大さ、名誉、栄光:ガド族
(Heb.),GDVL,guador 大きい、偉大な、強い、激しい:ガド族
一言「ヒトコト」
(Heb.)הִדהֻד,HDHVD,hidhud こだますること、反響、共鳴
(Heb.)הִדהֶד,HDHD,hidhed こだまする、反響する、鳴り響く[ヒサイズ:久伊豆]
(Heb.)הֶד,HD,hed こだま、反響、共鳴
「宇多岐」
(Heb.)בִֻתֶֻכ,BTK,buituek 突き刺す、[ותכ,vtk]
葛城「和名類聚抄」訓"加豆良木"
吐田(はんだ)葛城襲津彦
事代「コトシロ」הֶד תסֶלִי,HD TsLYL,hed tseliy [反響-音]:こだま
〔一言主大神が事代主神と解釈された理由〕
建内「タケウチ」
(Heb.)תֻהֻדֶַ,תֻכֻדֶַTHVDH,tuhudae [tukudae]こだま、共鳴
※旧約聖書の「主」(神)は神智(事)をモーセ初め土師に対して
述べ伝える<代(しろ)く曰う>しめる。
「十戒」に係わる「戒律」は「こだま」とヘブライ語では解釈される。
※キリスト教において「神の代(しろ)すところの「福音」>事代=福音
《Key Word》
" title="『古事記』雄略天皇">『古事記』雄略天皇
葛城・建内宿禰(4)
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《参考:年表・資料》
葛城・建内宿禰(4)
『日本書紀』『古事記』『新撰姓氏録』より作成
(宇摩志麻治命)可美真手命←饒速日命(物部氏祖)
│
彦湯女命
│
出石心春命
│
┌─────────┴───────┐
内色許男命(物部氏、穂積臣等の祖) 内色許賣命
│ │
│ ├若倭根子日子大毘毘命
│ │
│ ├少名日子建粘心命
│ │
│ ├大毘古命
│ │
伊迦賀許男売命──────┬───────┴大倭根子日子國玖琉命─┐
│ │
│ <軽堺原宮>=孝元天皇┘
│
┌(兄)宇豆比古(鬼道彦=紀) │ ┌(兄)意富那毘────┐
│伊都(星岩)←(木国造祖) │ │ (尾張連等の祖) │
│ │ │ │ │
│ │ │ ↓ │
└(妹)山下影日賣┬──比古布都押之信命─┬─┴(妹)葛城之高千那毘賣┘
│ (紀)彦太忍信命 │ (山代内臣)
│ │ 山城国綴喜郡宇智=(宇治)
│ │
(兄)建内宿禰 (弟)味師内宿禰 味師(うまし)=可美
│ (紀・甘美内宿禰) 内=大和国有智
│
├①波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)岸和田市八田町
│
├②許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)
│
├③蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)
│
├④平群都久宿禰(へぐりのうくのすくね)
│
├⑤木角宿禰(きのつねのすくね)
│
├⑥久米能摩伊刀比賣(くめのまいとひめ)
│
├⑦怒能伊呂比賣(ののいろひめ)
│
├⑧葛城長江曾都毘古─莵道稚彦
│
└⑨若子宿禰(わくごのすくね)
第8代孝元天皇
此の建内宿禰の子は并せて九たり【男七たり、女二たり】。
①波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)
波多臣
林臣
波美臣
星川臣
淡海臣
長谷部君
②許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)
許勢臣
雀部臣
輕部臣
③蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)
蘇我臣
川邊臣
田中臣
高向臣
小治田臣
櫻井臣
岸田臣
④平群都久宿禰(へぐりのうくのすくね)
平群臣
佐和良臣
馬御樴連
⑤木角宿禰(きのつねのすくね)
木臣
都奴臣
坂本臣
⑥久米能摩伊刀比賣(くめのまいとひめ)
⑦怒能伊呂比賣(ののいろひめ)
⑧葛城長江曾都毘古
玉手臣
的臣
生江臣
⑨若子宿禰(わくごのすくね)
江野財臣
2014年3月9日日曜日
葛城・建内宿禰(3)
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《参考:年表・資料》
葛城・建内宿禰(3)
【大倭根子日子國玖琉命】孝元天皇 (古事記)
大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。
此天皇、娶穗積臣等之祖、内色許男命【色許二字以音。下效此】
妹、内色許賣命。生御子、大毘古命。
次、少名日子建猪心命。
次、若倭根子日子大毘毘命。【三柱】
又娶内色許男命之女、伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。
【自比至都以音】
又娶河内青玉之女、名波邇夜須毘賣。生御子、建波邇夜須毘古命。【一柱】
此天皇之御子等、并五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。
其兄大毘古命之子、建沼河別命者【阿倍臣等之祖】
次、比古伊那許志別命【自比至志六字以音。此者膳臣之祖也。】
比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹、葛城之高千那毘賣、
【那毘二字以音】
生子、味師内宿禰【此者、山代内臣之祖也。】
又娶木國造之祖宇豆比古之妹、山下影日賣、生子、建内宿禰。
此建内宿禰之子、并九【男七。女二】
波多八代宿禰者【波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。】
次、許勢小柄宿禰者【許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也】
次、蘇賀石河宿禰者
【蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。】
次、平群都久宿禰者【平群臣、佐和良臣、馬御kuhi[扁木旁織]連等祖也】
次、木角宿禰者【木臣、都奴臣、坂本臣之祖。】
次、久米能摩伊刀比賣。
次、怒能伊呂比賣。
次、葛城長江曾都毘古者【玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也】
又若子宿禰【江野財臣之祖】
此天皇御年、伍拾漆歳。御陵在劔池之中岡上也。
【大倭根子日子國玖琉命】孝元天皇
大倭根子日子國玖琉(おおやまとねこひこくにくる)の命、
輕(かる)の堺原(さかいはら)の宮に坐しまして 天の下治しめしき。
此の天皇、穗積の臣等の祖、内色許男(うつしこお)の命
【色許(しこ)の二字は音を以ちてす。下、此に效え】の妹、
内色許賣(うつしこめ)の命を娶りて生みし御子は、大毘古(おおびこ)の命。
次に少名日子建猪心(すくなひこたけいごころ)の命。
次に若倭根子日子大毘毘(わかやまとねこひこおおびび) の命【三柱。】
また内色許男の命の女、伊迦賀色許賣(いかがしこめ)の命を娶りて
生みし御子は、比古(ひこ) 布都(ふつ)押之信(おしのまこと)の命
【比より都に至るは音を以ちてす】。
また河内の青玉(あおたま)の女(むすめ、
名は波邇夜須毘賣(はにやすびめ)を娶りて生みし御子は、
建波邇夜須毘古(たけはにやすびこ)の命【一柱】。
此の天皇の御子等は并せて五柱。
故、若倭根子日子大毘毘の命は天の下治しめしき。
其の兄、大毘古の命の子、 建沼河別(たけぬなかわわけ)の命は
【阿倍の臣等の祖】。
次に比古伊那許志別(ひこいなこじわけ)の命
【比より志に至る六字は音を以ちてす。此は膳(かしわで)の臣の 祖也】
比古布都押之信(ひこふつおしのまこと)の命、
尾張の連等の祖、意富那毘(おほなび)の妹、
葛城の高千那毘賣( たかちなびめ)
【那(な)毘(び)の二字は音を以ちてす】を娶りて生める子は
味師内宿禰(うましうちのすくね) 【此は山代の内臣の祖也。
また木の國造の祖、宇豆比古(うづひこ)の妹、
山下影日賣(やましたかげひめ) を娶りて生みし子は、
建内宿禰(たけのうちのすくね)。
此の建内宿禰の子は并せて九たり【男七たり、女二たり】。
波多八代宿禰(はたのやしろのすくね)は
【波多の臣、林の臣、波美(はみ)の臣、星川の臣、
淡海の臣、長谷部 の君の祖也。
次に許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)は
【許勢の臣、雀部(さざきべ)の臣、輕部の臣の祖也】。
次に蘇賀石河宿禰(そがのいしかわのすくね)は
【蘇我の臣、川邊の臣、田中の臣、高向(たかむく)の臣、
小治田 (おはりだ)の臣、櫻井の臣、岸田の臣等の祖也】。
次に平群都久宿禰(へぐりのつくのすくね)は
【平群(へぐり) の臣、佐和良(さわら)の臣、
馬御(うまみくい)の連等の祖也】。
次に木角宿禰(きのつののすくね)は
【木の臣、都奴(つぬ)の臣、坂本の臣の祖】。
次に久米能摩伊刀比賣(くめのまいとひめ)。
次に怒能伊呂比賣(ののいろひめ)。
次に葛城の長江の曾都毘古 (そつびこ)は
【玉手の臣、的(いくは)の臣、生江(いくえ)の臣、
阿藝那(あぎな)の臣等の祖也】。
また若子宿禰(わくごのすくね)は【江野財(えののたから)の臣の祖】。
此の天皇の御年は伍拾漆歳(いそとせあまりななとせ)。
御陵は劍の池の中岡の上に在り。
2014年3月8日土曜日
葛城・建内宿禰(2)
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《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
葛城・建内宿禰(2)
「新撰姓氏録」②
山城國皇別
的臣 石川朝臣同祖。彦太忍信命三世孫葛城襲津彦命之後也。
輿等連 盬屋連同祖。彦太忍信命之後也。
日佐 紀朝臣同祖。武内宿禰之後也。
欽明天皇御世。率同族四人。国民卅五人帰化。
天皇矜其遠来。勅珍勲臣。為卅九人之訳。時人号曰訳氏。
男諸石臣。次麻奈臣。是近江国野洲郡曰佐。
山代国相楽郡山村曰佐。大和国添上郡曰佐等祖也。
出庭臣 孝元天皇皇子太忍信命之後也。
道守臣 道守朝臣同祖。武波都良和気命之後也。
今木 道守朝臣同祖。建豊羽頬別命之後也。
大和國皇別
星川朝臣 石川朝臣同祖。武内宿禰之後也。
敏達天皇御世。依居改賜姓星川臣。日本紀合。
江沼臣 石川同氏、建内宿禰男若子宿禰之後也。日本紀合。
内臣 孝元天皇皇子彦太忍信命之後也。
。 山公 内臣同祖。味内宿祢之後也。
阿祇奈君 玉手朝臣同祖。彦太忍信命孫武内宿祢之後也。
馬工連 平群朝臣同祖。平群木兎宿祢之後也。
曰佐 紀朝臣同祖。武内宿祢之後也。
池後臣 建内宿祢之後也。日本紀不見。
巨勢楲田臣 巨勢楲田朝臣同祖。武内宿祢命之後也。
摂津国 皇別
雀部朝臣 巨勢朝臣同祖。建内宿祢命之後也。
坂本臣 紀朝臣同祖。彦太忍信命孫武内宿祢命之後也。
阿支奈臣 玉手朝臣同祖。武内宿祢男葛城曽豆比古命之後也。
布敷首 玉手朝臣同祖。葛木襲津彦命之後也。
道守臣 道守朝臣同祖。武葉頬別命之後也。
河内国 皇別
道守朝臣 波多朝臣同祖。武内宿祢男八多八代宿祢之後也。
山口朝臣 道守朝臣同祖。武内宿祢之後也。続日本紀合。
林朝臣 同上。
道守臣 守朝臣同祖。武内宿祢男波多八代宿祢之後也。
的臣 道守朝臣同祖。武内宿祢男葛木曽都比古命之後也。
塩屋連 同上。日本紀漏。
小家連 塩屋連同祖。武内宿祢男葛木襲津彦命之後也。
原井連 同上。続日本紀漏。
早良臣 平群朝臣同祖。武内宿祢男平群都久宿祢之後也。
布忍首 的人同祖。武内宿祢之後也。日本紀漏。
額田首 早良臣同祖。平群木兎宿祢之後也。
不尋父氏。負母氏額田首。
紀祝 建内宿祢男紀角宿祢之後也。
紀部 建内宿祢男都野宿祢命之後也。
蘇何 彦太忍信命之後也。
和泉国皇別
道守朝臣 波多朝臣同祖。八多八代宿祢之後也。日本紀合。
坂本朝臣 紀朝臣同祖。建内宿祢男、紀角宿祢之後也。
男白城宿祢三世孫建日臣。因居賜姓坂本臣。
日本紀合。
的臣 坂本朝臣同祖。建内宿祢男葛城襲津彦命之後也。
布師臣 同上。
紀辛梶臣 建内宿祢男紀角宿祢之後也。
大家臣 建内宿祢男紀角宿祢之後也。
謚天智庚午年。依居大家。負大宅臣姓。
掃守田首 武内宿祢男紀角宿祢之後也。
丈部首 同上。
的臣 石川朝臣同祖。彦太忍信命三世孫葛城襲津彦命之後也。
未定雑姓
葛野臣 大倭根子彦国牽天皇[謚孝元。]皇子彦布都意斯麻己止命之後也。
摂津国
韓海部首 武内宿祢男平群木菟宿祢之後也。
下神 葛木襲津彦命男腰裙宿祢之後也。
和泉国
鵜甘部首 武内宿祢男己西男己柄宿祢之後也。
2014年3月3日月曜日
葛城・建内宿禰(1)
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《参考:年表・資料》
出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦
葛城・建内宿禰(1)
「新撰姓氏録」①
左京皇別上
(ヒコフトオシヤマト)
石川朝臣 孝元天皇皇子彦太忍倭命之後也。日本紀合
(タノクチ)
田口朝臣 石川朝臣同祖、武内宿禰大臣之後也。
蝙蝠臣豊御食炊屋姫天皇【謚推古】御世.
家<二>於大和國高市郡田口村<一>.仍號<二>田口臣<一>.
日本紀漏。
(サクラ 井)
櫻井朝臣 石川朝臣同祖.
蘇我石川宿禰四世孫稲目宿禰大臣之後也。日本紀合.
(キ) (タケ)
紀 朝臣 石川朝臣同祖.建内宿禰男紀角宿禰大臣之後也。日本紀合.
(ツヌ)
角 朝臣 石川朝臣同祖.角宿禰大臣之後也。日本紀合.
坂本朝臣 紀朝臣同祖.紀角宿禰男百城宿禰之後也。
(ハヤシ)
林 朝臣 石川朝臣同祖.武内宿禰之後也。日本紀合.
(ミチモリ)
道守朝臣 波多朝臣同祖.波多矢代宿禰之後也。日本紀合.
(ザイベ)
雀部朝臣 巨勢朝臣同祖.建内宿禰之後也。星川建彦宿禰、
諡應神御世代<二>於皇太子大鷦鶺尊<一>、
紹<二>木綿欅<一>、掌<レ>監<二>御膳<一>、
因賜<レ>名<<二>曰大雀臣<一>、日本紀合.
(イクノエノオミ)
生江 臣 石川朝臣同祖.武内宿禰之後也。
(ヌノシノオフト)
布師 首 生江臣同祖.武内宿禰之後也。
(ヤノクチ)
箭口朝臣 宗我石川宿禰四世孫稲目宿禰之後也。
左京皇別下
(カツラギ)
葛城朝臣 葛城襲津彦命之後也
右京皇別上
八多朝臣 石川朝臣同祖、武内宿禰之後也。日本紀合.
巨勢朝臣 石川同祖、巨勢雄柄宿禰之後也。日本紀合.
(カシケ「七夕歟」) (イナモチ)
巨勢楲田朝臣 雄柄宿禰四世孫稲茂臣之後[也ィ]、男荒人、
(イカシヒタラシ)
天豊財重日足姫天皇【謚皇極】、御世、
遣<レ>佃<二>葛城長田<一>、其地野上、漑<レ>水難<レ>至.
荒人能解<二>機術<一>.始造<二>長楲<一>.川水漑<レ>田<レ>、
天皇大悦、賜<二>楲田臣姓<一>、日本紀漏.
巨勢斐大臣 巨勢楲田同氏、巨勢雄柄四世孫稲茂男荒人之後也。
(諸"興"乙)
紀 朝臣 石川朝臣同氏[祖ィ]、屋主忍雄建猪心命之後也。日本紀合.
平群朝臣 石川朝臣同氏[祖ィ]、武内宿禰男平群都久宿禰之後也。日本紀合.
平群文室朝臣 同都久宿禰之後也。日本紀漏.
(リュ子)
都保朝臣 平群朝臣同祖.都久足尼之後。
高向朝臣 石川同氏、武内宿禰六世孫猪子臣之後也。日本紀合.
田中朝臣 武内宿禰五世孫稲目宿禰之後也。日本紀合.
小治田朝臣 同上、日本紀合.
(ソガ)
川邊朝臣 武内宿禰四世孫宗我宿禰之後也。日本紀合.
(キシダ)
岸田朝臣 武内宿禰五世孫稲目宿禰[之ィ]後也。
男小祚臣孫耳高家<二>居岸田村<一>、
因負<二>岸田臣號<一>。日本紀合.
(クメ)
久米朝臣 武内宿禰五世孫稲目宿禰之後也。日本紀合.
(アカシキ)
御炊朝臣 武内宿禰六世孫宗我馬背宿禰之後也。日本紀漏.
(タマテ) (ソツ)
玉手朝臣 同宿禰男葛城曾頭日古之後也。日本紀合.
(カモリタ) (ツヌ)
掃守田首 武内宿禰男紀都奴宿禰之後也。
2014年3月1日土曜日
高麗:神奈川県
「古代史ブログ講座」開講にあたって
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《考古学&古代史の諸問題》
《参考:年表・資料》
出典:角川日本地名大辞典他
高麗:神奈川県
高麗(こま)〔大磯町〕
大磯丘陵の南東、金目川下流右岸に位置する。
地名は古くは高麗人が居住していたことに由来するという(新編相模)。
地内に文政7年北条早雲によって創建されたとされる高麗寺山城がある。
高麗寺村(こうらいじむら) (現)大磯町高麗(高麗1~3丁目)
北西に高麗(こうらい)権現〔(現)高来神社〕を山頂(約165m)に
祀る高麗寺山((現)高麗山)がり、花水(はなみず)川が東部を南へ流れる。
~「和名類聚抄」の大住郡高来(たかく)郷に比定する説がある。
また村名は天台宗高麗寺(廃寺)より起ったと伝える(風土記稿)。
「吾妻鏡」建久3年(1192)8月9日条によれば、
北条政子の実朝出産の際、
安産祈願のため誦経を行った寺のなかに、
「高麗寺(大磯)」がみえる。
高来(こうらい)神社 (現)大磯町高麗 〔(旧名)高麗権現社〕
高麗(こま)山(高麗寺山)に鎮座し、
中央の大堂嶺の上宮、東の天照山の白山社、
西の毘沙門塔嶺の毘沙門塔を併せて高麗(こうらい)三社権現という。
東海道に面した南麓に下宮がり、拝殿・本殿などが建つ。
祭神は神皇産霊尊・瓊瓊杵尊に応神天皇・神功皇后を配祀する。
旧郷社。
「北条記」によれば永正16年(1519)北条氏綱が伊豆山権現に詣でた際、
別当の般若院に縁起を尋ねたところ、
同権現は高麗国より舟で渡海して高麗寺山に鎮座し、
その後同上へ移ったと答えたとある。
「続日本紀」霊雲2年(716)5月16日条によれば
相模国を初め東国七州の高麗人を武蔵国に移して
高麗(こま)郡を置いたとあり、
当社は近辺に居住した高麗人により祀られたことに始まるといえよう。
~明治30年(1897)3月高来神社と改称。
『神編相模国風土記稿』淘綾郡高麗寺村
・高麗寺山坤方にあり登八町許(ばかり)、此辺の高山なり、
山上に高麗権現を祭る。
(略)其辺、別当高麗寺の旧地と云、故に山に名づくと云へり。
・高麗権現社 高麗寺山の頂にあり、又左右の峯に白山毘沙門を勧請す。
以上合て高麗三社権現と号すと云。
社伝 に拠るに、本社祭神は、神皇産霊尊にて、
応神天皇、神宮皇后を相殿とす伝へ。(略)
又『箱根山縁起』には、神功皇后三韓を征せし頃、
高麗の神を当初に勧請ありしと伝へ、
『曰く、神功皇后三韓を討ち、後に武内大臣奏して云ふ、
異朝の大神を請い奉り、令して天下長く安寧なることを祈願す。
即ち百済明神を日州に奉遷し、新羅明神を江州に奉遷し、
高麗大神和光を当州大磯に奉遷し、聳峰に因りて、高麗寺と名づく。
「日本の神々」(白水社)
高来(たかく)神社 神奈川県中郡大磯町高麗
『続日本紀』には、「霊亀2年(716)」5月、
駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野七国の高麗人、
千七百九十九人を以て武蔵国に移し、高麗郡を置く」とあるが、
埼玉県入間郡の(旧)高麗郷(現)日高町の高麗神社を祀る高麗氏の祖
高麗王若光は、まず当地を開拓し、
霊亀2年に武蔵国へ移ったというのが定説になっている。
『筥根山縁起』
次 神宮皇后討<2>三韓①後 有<2>武内大臣奏<1>1>2>2>
云、奉<2>請異朝大神<1> 而令<レ>祈<2>願天下長安寧<1>矣1>2>1>2>
即
奉<レ>遷<2>百済明神于日州<1> 1>2>
奉<レ>遷<2>新羅明神于江州<1> 1>2>
奉<レ>移<2>高麗神和光于当州大磯聳峰<1> 因名<2>高麗寺<1>云。1>2>1>2>
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