2014年2月28日金曜日

建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(10)


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 《参考:年表・資料》

 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦 

 建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(10)

 16.相武國造〔先代旧事本紀「國造本紀」〕と伊勢都彦命

    志賀高穴穂朝、武刺國造祖神伊勢都彦命・三世孫弟武彦命定賜國造

  相武國造神社:(現)神奈川県平塚市万田

  「ソウム〔相武〕」

   (阿曇語)seg-mah 〔雨-大きい〕大雨

  「イセハラ〔伊勢原〕」

   (阿曇語)eš-hal 〔雨-配る〕雨を降らす

  「アフリ〔阿夫利〕」<大山にある神社名>

   (阿曇語)a-hal 〔水-配る〕水(雨)を降らす

  「アウ〔大<山>〕」

   (阿曇語)a-u₁₄ 〔水-嵐(雷)〕嵐の雨(水)

  ※大山の阿夫利神社は「雨乞い」の神社

 「伊勢國風土記」逸文:伊勢國號

  其の邑に神あり。名を伊勢津彦と曰へり。天日別命問ひけらく、

  「汝の國を天孫に献らむやと」いへば、答へけらく~.

  「吾が國は悉に天孫に献らむ。吾は敢へて居らじ」とまをしき。~

  「吾は今夜を以ちて、八風を起して海水を吹き、波浪に乗りて東に入らむ。

   此は即ち吾が却る由なり」とまをしき。」~中夜に至る比(ころ)、

  「大風四(しも)に起りて波瀾(なみ)を扇挙げ、光耀きて日の如く、

   陸も海も共に朗らかに、遂に波に乗りて東にゆきき。

   古語に神風の伊勢の国、常世の浪寄する國と云へるには、

   著しくは此れ、これを謂ふなり。」

 ※伊勢都彦命は伊勢より東の「相武」へ遷って来たのであり、

  その名を負うのは「伊勢原」である。

  浅間山[平塚市万田の西隣り高根と大磯町との境界の山名]

   浅間山《朝熊山[あさま山:伊勢市]

  その地は「大風」と「光耀」の地であり」、「猿田彦神」信仰の地であった。

  伊勢都彦命は「神風」を起させた神性を持つ。

  つまり、「猿田彦神」が遷座したことになる。

 ※天白神「天・パク・神」

  (阿曇語)bugin 泉:"天の泉(雲)の神"

  高根[平塚市:浅間山の山麓]

  (阿曇語)dug-ni [甕-高い(上の)](水を)溜めている天の壺:雲

 17.江野財臣一族の「猿田彦神」信仰

  ※「江野」は「泉」の語義

    (Heb.)ֶיִנ,IYN,eyin 泉[井戸]

   同族は大和国忍海郡で金の鋳造に係わり、

   砂金を採るなどには清い「泉の水」が必要であった。

  ※ヘブライ系の同族にとっては、

   旧約聖書「出エジプト記」がホレブ山の岩石を杖で突いて

   水を湧き出させた「モーセ」は信仰の対象とするのに絶大である。

   しかもモーセは白髪[毛]となったと記されている。

   さらには彼は彼の族類をエジプトから脱出させる際

   神助けによって「嵐」を起させた。

   つまり「白髪」の"神"とされているのである〔白鬚神〕。

   博西神社〔奈良県葛城郡寺口.(旧)大和国忍海郡寺口〕

   「ハクセイ〔博西〕」

    (Heb.)הִכהֶסִפ,HKhSYP,hikhesip (髪が) 白くなる

 ※江野財臣の後裔は「泉」と供に「白髪[鬚]神」を、

  しかも「風雨の神」猿田彦神をその祭神として崇敬し、

  武蔵國高麗郡の高麗神社の祭神として祀るようになったのである。

  埼玉県高麗郡周辺などにある白鬚神社では

  「猿田彦神」の石像が多く像られ、境内に安置されているが、

  その多くは「杖」を持ち、

  「頭髪」及び「鬚」が風に吹かれて横様になっている。
 
  この像影は明らかに「モーセ」の姿である。

2014年2月27日木曜日

建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(9)


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 出典:謎のサルタヒコ:鎌田東二編著・創元社

 建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(9)

 15-2.白髪神社・白鬚神社と猿田彦神

 1.猿田彦の像塔の造立地域

  庚申信仰の掛軸や庚申塔には何種類かの猿田彦の像が見られるが、

 そのなかに、風に吹かれ、衣をひるがえしている

 猿田彦の像が何基もあることが知られている。

 そこでつぎに、

 この「風に吹かれる猿田彦像」の源流と伝播について調べてみたい。

  地蔵とか観音など仏の姿を石仏として石に彫刻することは、

 わが国ではかなり古くから行われてきた。

 しかし、神の姿を石に彫ることはきわめて珍しく、

 縄文の昔から手を加えない自然石そのものを神として礼拝するのが、

 わが国古来の慣習であった。

 従って、猿田彦と鈿女の石像も室町以前のものはなく、

 江戸時代の後半から、ようやく彫造され始めている。

 この二神の石刻像は庚申塔でもきわめて少なく、

 貴重なものとなっている。

 ところが、猿田彦の石像を比較的多く遺存している地域がある。

  まずその実例を掲げよう。
 
 図は

  野田市 清水八幡神社の猿田彦大神の石像である。

 上部に日と月を刻み、正面向きの猿田彦が、

 両手で杖をついて立っている。

 長いあごひげや衣の袖が風に吹かれてなびいている。

 下部には雲が彫られ、台石には三猿がある。

 この塔は文政六年(1823)十月の建立で

 「清水邑」の「講中三十七人」によって建てられたものである。

 この石像と同じ姿の「風に吹かれる猿田彦」の庚申塔が

 密かに分布している地域が、

 千葉県の最北部で、北に舌状に伸びた野田市付近である。

 この地域は利根川から分流した江戸川の流域地帯で、

 西に埼玉県、北に群馬、栃木、茨城の諸県が隣接している。

  この地域のうち、まずはじめに埼玉県の猿田彦の刻像塔を列記しよう。

  ①北葛飾郡杉戸町堤根香取神社。

   角柱型。文政九年(1826)丙戌拾二月吉祥日。

  ②北葛飾郡庄和町倉常、愛宕神社。

   丸彫り。文政十三年(1830)庚寅十一月良日。

  ③川口市飯塚四丁目。正面向き杖突き、板駒型。弘化三年(1846)。

  ④川口市金山、善光寺。上部富士山。嘉永六年(1853)五月吉日再建。

  ⑤北葛飾郡松伏町魚沼郡東稲荷神社。角柱型。文久四年(1864)甲子霜月庚申日。

 以上、五基のうち、④川口市金山、善光寺の猿田彦は、

 富士山の下に横書きで「庚申」、彫刻の右に「猿田彦大神」とある。

 この像は、富士講や富士神社との関係の深さを示している。

  次に千葉県野田市の事例を述べよう。

 野田市には次のように、十一基の刻像塔がある。

  ①野田市桜台、桜木神社。文化十一年(1814)正月吉祥日。

  ②野田市目吹高根、馬頭観音内。文化十五年(1814)十二月吉祥日。

  ③野田市野田下町、須賀神社。文政六年(1823)葵未六月庚申日造焉。

  ④野田市清水町、八幡神社。文政六年(1823)未十月吉日。

  ⑤野田市西三ケ尾、正覚寺。文政七年(1824)甲申三月吉日。

  ⑥野田市山崎、香取神社。文政九年(1826)丙戌十二月吉祥日。

  ⑦野田市木ノ崎高根、大杉神社。文政十年(1827)亥年十月吉日。

  ⑧野田市木ノ崎新町、山王宮。文政十二年(1829)丑十一月吉日。

  ⑨野田市山崎、円通寺前通り。天保五年(1834)十一月吉祥日。

  ⑩野田市目吹、熊野神社。弘化四未年(1847)十月吉祥日。

  ⑪野田市中野台、三味寺。文久三年(1863)葵亥二月吉日。

 以上が、野田市にある近世の猿田彦像の庚申塔である。

  (さらに増加する見込み)

 野田市付近の市町村には、つぎのように

 「風に吹かれる猿田彦像」が分布している。

  ①千葉県東葛飾郡関宿町木間が瀬、天満宮。嘉永三年(1850)、

   猿田彦丸彫り像、台石に三猿。

  ②流山市西深井百八十七。安政七年(1860)庚申年三月大吉日。

  ③流山市流山、流山寺。年不明。丸彫り、三猿。

  ④流山市加、大杉神社。年不明。丸彫り、首欠け。

  ⑤松戸市大谷口、三峰神社。安政七年(1860)庚申、一月庚申日。丸彫り。

  ⑥鎌ヶ谷市軽井沢、八幡神社。年不明。正面向き猿田彦像、四角柱半肉彫り。

  ⑦印西市船尾、宗像神社。半肉彫り。

   文久二年(1862)、上部に富士山、掛軸模刻

  ⑧流山市西深井、淨観寺。線彫り猿田彦像。安政七年(1860)。

 以上八基がある。

 なお、②⑤⑧にみられる安政七年は万延元年で庚申の年であり、

 各地で庚申塔の造立がさかんであった。

 このほか、茨城県取手市新町の猿田彦像も秀作であったが、

 目や鼻が削られ、顔の特色がなくなり、残念である。
 
 これら「風に吹かれる猿田彦像」の像容はよく似通っている。

 その共通の典拠となった図像がどこかにあると考えられないだろうか。

 2.富士信仰と猿田彦

  野田市は醤油の製造で江戸時代から名高い町である。

 この付近は舟運が発達し、石材の輸送も頻繁で、

 また江戸築城以来の石工も住んでいた。

  一方、この付近は富士を霊山として崇める信仰も盛んで、

 富士講中は毎年富士へ登山をしていた。

 また庚申講も盛んで、富士と庚申の講を兼ねているものが多かった。

  そこで私は「風に吹かれる猿田彦像」は、

 富士信仰と一体となった庚申講で用いている掛軸が

 典拠となったのではないだろうか、と推測し、

 富士信仰を兼ねた庚申講中の掛軸を見てまわった。

 ところが、いくつかの講中で用いている庚申の軸の 絵は、

 まさにこの猿田彦大神の姿であった。

 しかもその軸は、富士山の神職や御使(おし)の家から、

 庚申講中で富士登山の際に求めたものと判明した。

 要するに、野田市などの「」の石像彫刻は、

 庚申講で礼拝する掛軸の絵が、その典拠であったのである。

  その一つを紹介すると、

 埼玉県小川町の庚申講中の所蔵するものである。

 この掛軸の絵を見ると、

 中央に「風に吹かれる猿田彦」が描かれ、

 その右に「庚申大神像」とあり、

 上部には富士山と日月が描かれている。

  それでは富士信仰で、

 この猿田彦の掛軸が発行、頒布されたのはいつからだろうか。

 調べてみると、概ね寛政十二年(1800)、

 富士で「庚申の御縁年」が唱導されて以降のことであることも判明した。

  このように、「風に吹かれる猿田彦像」の姿態の典拠は

 富士山で発行した掛軸の絵であることがわかったが、

 それならば、富士山の神職たちは、

 この猿田彦の絵姿を、どこから入手したのであうか。

 さらにもととなる絵はないのだろうか。

 あるとすれば、それはどこのどのような絵なのだろうか。

 3.「風に吹かれる猿田彦像」の典拠

  風に吹かれ、衣をひるがえす猿田彦の姿が

 最初に描かれた貴重な絵画はいったいどこにあるのだろうか。

 いろいろ調査を重ねた結果、

 このタイプの像のもととなった最初の絵は、

 伊勢市浦田町の宇治土公家に所蔵されているのであろう。

 というのが目下の私の結論である。

  すなわち、代々猿田彦大神を祖神として祀り、

 伊勢神宮の玉串大内人(たまぐしおおうちんど)という

 要職をつとめる宇治土公家に、

 「玉串大内人宇治土公定哉」の賛のある

 猿田彦大神の御神像の軸が所蔵されている。

 この姿こそ、野田市などの猿田彦像の原拠と考えられるのである。

 この絵は『猿田彦神社読本』(1942年、猿田彦神社社務所発行)に

 掲載されていて、まちがいなく「風に吹かれる猿田彦像」である。

 ただ、現物を拝見していないので、明確には断言はできない。

  この絵には

 「道は大日孁貴の道、教猿田彦大神の教なり」の賛がある。

 これは垂加神道の山崎闇斎の言葉である。

  享保十二年(1727)正月に宇治土公定森は『庚申は御本縁』を著し、

 猿田彦大神を祭神として礼拝祈願する神道庚申の街の普及に尽力した。

 また定哉はその信仰を広布する手段として、

 この絵軸を富士の神職などに頒布した。

 このことからこのタイプの像容が各地に広まったのでないだろうか

 (「庚申御本縁」に関しては『庚申―民間信仰の研究』を参照されたい)。

  なお、明和五年(1768)に刊行『庚申利生記』の挿絵にも、

 よく似た猿田彦の姿が描かれているが、

 これも宇治土公家の御神像の絵画によったものに違いないだろう。

  このように、

 一般の人々に猿田彦大神の神像やイメージを焼き付ける働きをしたのは、

 絵軸や石像であった。

 その原拠は宇治土公家に所蔵されている絵軸である。

 これを見ると、猿田彦は眉目秀麗でもないし、やさ男でもない。

 鼻が高く、赤ら顔のひげっ面で男性的といえば聞こえはよいが、

 むしろ容貌魁偉である。

 表情は怒気を含み、老翁ながら威厳に満ちている。

 そして裸足で雲上に立ち、榊の枝を杖にしている。

 これが「風に吹かれる猿田彦像」の本来の姿であった。

2014年2月26日水曜日

建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(8)


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 建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(8)

 15-1.白髪神社・白鬚神社と猿田彦神

 「全国神社名鑑」

  高麗王若光が郡中の繁栄を祈るため、

  日頃崇敬していた猿田彦と武内宿禰を祀り白髪神社と称した。

 白鬚神社〔埼玉県〕「全国神社名鑑」

  川越市    下小坂、笠幡、吉田、豊田本、大袋

  飯能市    白子神社 下加治、落合、原市場、久須美、唐竹、中藤中郷、

         川崎、白鬚白山神社 岩沢、坂石町  

  佐山市    柏原、笹井、根岸

  入間市    寺竹、野田

  坂戸市    紺屋、横沼

  入間郡日高町 高萩、大谷沢

    鶴ヶ島町 脚折

  大里郡川本村 上原

     寄居町 金尾、折原、三品
     
     岡部町 岡

 ※アブラハムあるいはモーセ〔sur-du 雨を降らせる=猿田彦〕

 「武蔵國高麗郡高麗郷古傳」

  高麗王猿田彦大神ヲ崇敬シ郡中。

  榮盛ヲ祈リ、因テ一社ヲ建シロ

 「武蔵國高麗郡高麗郷古傳」

  高麗王猿田彦大神ヲ崇敬シ郡中。

  榮盛ヲ祈リ、因テ一社ヲ建白鬚大神ト稱シ、武内宿禰ヲ配祀ス

 「名鑑」の記事は「古傳」に依ったことは明らかで

 当社においては「白髪」でなく「白鬚」である。

 但し、「白髪神」「白鬚神」は天白神の「女神」「男神」の呼称であり、

 諏訪大社下社の「お船祭り」にも登場する。

 猿田彦神:同神の本拠は三重県伊勢市浦田の「猿田彦神社」である。

 「サルタ」

  (阿曇語:シュメル語)šur-du₁₁〔雨-動詞形用〕雨が降る、

                 あるいは雨を降らす。

 「ウラタ〔浦田〕」

  (阿曇語)ulu₃-du₁₁ 〔嵐-動詞形用〕嵐が吹く、

           あるいは嵐を吹かせる(起こさせる)。

 「シロ〔白〕」<天白神、白鬚神、白髪神>

  (阿曇語)šur 雨 「天・白(ぱく)・神」"パク" bugin 泉:天の泉(雲)の神

  (Heb.)סֶוַרַה,SIRH,sevarah 嵐、暴風、大風 

  (Heb.)סֶַר,SIR,sear 毛髪、頭髪、(人、動物の)毛

  (Heb.),SIR,saiar 大風、暴風

  (Heb.),SIRH,saerah 髪、頭髪、毛

  (Heb.),SIRH,searah 嵐、大風、暴風

  ◎ここに「嵐[風雨]」と「髪」「毛[鬚]」が合一された

 「イセ〔伊勢〕」

  (阿曇語)eš 涙(水):天の涙は「雨」

 「アサマ〔朝熊〕(伊勢市神宮東方の山・地区名)」

  (阿曇語)eš-mah 〔水-高い(上の)〕雲あるいは雨

 伊勢の天照大神の遷される以前の神に「大水上神」 があり

 多くの子族神・神社が祭られている。

建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(7)


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 建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(7)

 14.高麗神社〔日高市新堀〕

   祭神 高麗王若光、猿田彦命、武内宿禰

  ※高麗氏ヨリ出ル者ヘ井上駒井ノ二氏ナリ〔武蔵國高麗郡高麗郷古傳〕

   「井上」「駒[高麗]井」の2氏とも「井[泉]」に祖を持つ族類である。

   野野(のの)宮神社

   〔日高市野野宮、高麗神社鎮座地新堀の高麗川を挟んだ東隣の地区〕

  「ヤノ[野野]」

   (Heb.)ֶיִנ,IYN,eyin 泉[井]

  「ミヤ[宮]」

   (Heb.)מִֶַיַנ,MIYN,maieyan 泉、水源、湧き水

  ◎明らかに高麗神社を奉祭してきた高麗氏〔井上氏、駒井氏を含めて〕が

   江野財臣の族類であることが解かる。

   稲野辺神社〔日高市野野の北端〕

   「イナ[稲]」

    (Heb.)ֶיִנ,IYN,eyin 泉[井]

   「ノベ[野辺]」

    (Heb.)נָוִַ,NVI,novai 湧き出る、流れ出る

   「イナ・ノベ」

    (Heb.)ֶיִנ_נָוִַ,IYN_NVI,eyin_novai 〔泉、湧き出る〕湧き出る泉[井]

   新堀(にいぼり)〔日高市新堀、高麗神社の鎮座地〕

   「ニイボリ」

    (Heb.)נַ_כהִיר,NKhYR,na_khiyr (液体、水の)噴出口〔泉、水源〕、[井]

 ※若光又孝清ト云フ〔武蔵國高麗郡高麗郷古傳〕

  「コウセイ〔孝清〕」

   (Heb.)כֶסֶפ,KSP,kesep 金(かね)、貨幣、銀、銀色

   (Heb.)כֶסַפִימ,KSPYM,kesapiym 財源、財政、財務

  ◎高麗氏が「江野氏」にして「財」と係わる

   族類「江野財臣」の後であることは明白である。

   彼等は相模國の「高麗」を一時期の居住地〔勢力地〕として、

   そこを経由してこの地に移転してきた。

   よって「若光」は「若子」の別字表記にして建内宿禰[武内宿禰]の

   第九子の系譜にあり、祭神を「武内宿禰」とするのも道理である。

 ※「高麗」の由来

  武内宿禰の祖系は饒速日命を祖とする「物部氏」である。

  物部氏はヤコブの子「ガド」を祖とするが「ガド族」で、

  「ガド」の第二子 הַגגִ [haggi] を族祖としている。

  すなわち彼等はヘブライ人あるいはその後裔である。

  「コウライ〔高麗〕」

   (Heb.)גָֻלַה,GVLH,guolah (祖国から)追放されたヘブライ人の居留地

   (Heb.)כִֻהלַה,KHLH,kuihlah ヘブライ人社会、共同体

  「モノノベ〔物部〕」

   (Heb.)מִֶַיָנ_נָוִַ,MIYN_NVI,maieyon_novai [家_湧き出る]湧き出る泉

 ※「高麗」を「コマ」と言い、現在同地が「日高」になっている理由

  ◎「若光」の「光」の由来

   ①寺口〔(現)葛城市寺口、(旧)忍海郡新庄町寺口〕 金[英語gold]の輝き

   ②大磯町(神奈川県中郡、(旧)相模國餘綾郡) 

     明けの明星の輝き、ここで「若子」は「若光」となった

   ③日高市(埼玉県)の「光」

    「ジャクコウ」「ジャコウ」

    (Heb.)זָהַר,ZHR,zohar 光、輝き、きらめき[名詞形]

    (Heb.)זַהַר,ZHR,zahar 光る、輝く、きらめく[動詞形]

    「コマ:古万〔高麗〕」和名類聚抄武蔵國高麗郡高麗郷(古万)

    「コマモト〔高麗本〕郷」

    (Heb.)כָממִיֻת,KVMMYVT,kommiyut 独立、主権

    ◎この「コマ」が起源、ところで同音語があって意義が変わった。

     「コマ」

      (Heb.)כהָמ,KhM.khom 熱、暑さ

      (Heb.)כהַמַה,KhMH,khamah 日、太陽

     つまり「光」は「太陽の光」となり「独立」を表わした

     「コマ」は「熱」にして「太陽」「日」となった。

     かくして、

     「高麗」の地は「太陽〔日〕」が「高い麗[光が多いこと]地」たる

     「日高」となった。

    ◎「大宮」:高麗神社ヲ大宮ト称シ〔武蔵國高麗郡高麗郷古傳〕

     「オウ〔大〕」

      (Heb.)ַָאו ר,AVR,aor 光、明かり、

       ○光明、幸福(喜び)を与えるもの、「大宮」は「光の宮」

2014年2月25日火曜日

建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(6)


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 建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(6)

 13-2.高来神社〔神奈川県中郡大磯町高麗高麗山〕

 ※「白髪」・「白鬚」:平塚

  平塚市平塚には五霊社及び御領社が鎮座する。

  花水川の反対には高麗山、高来神社がある。

  つまり、平塚の両社は「高麗神社」の分社となろう。

  「ヒラ〔平〕」

  (Heb.)כהִוֶר,KhVR,khiver 青白い、(顔が)青ざめた[形容詞形]

  春日野〔平塚市中里〕

  「ハルヒノ」

  (Heb.)כהִֻרונ,KhVRVN,khiurvn 白さ、青白さ[名詞形]

  (Heb.)הֶכהֶֻיר,HKhVYR,hekheuyr 白くなる[動詞形]

  「ツカ〔塚〕」

  (Heb.)זָכַנ,ZKN,zokan あご鬚

  「ヒラ-ツカ〔平塚〕」 

  (Heb.),KhVR-ZKN,khiver-zokan [鬚の白さ》白鬚]

  因みに

  「シロ〔白〕」

  (Heb.)סֶַֻר,SIR,seuar 毛髪、頭髪、(人、動物の)毛

  (Heb.)סֶַֻרַה,SIRH,sauerah 髪、頭髪、毛

  これと同音の語

  (Heb.)סִֶַרַה,SIRH,seiarah 嵐、暴風、大風
 
  (阿曇語<シュメル語>)Šur 雨

 ※入野(いの)〔平塚市、大磯町高麗の真北方向、金目川左岸〕

  「イノ」は「江野財臣」の「エノ」に同じ

  (Heb.)ֶיִנ,IYN,eyin 泉[井]

  金田〔入野にある地区(小字)名〕「コンダ」 

  (梵語)kunda 瓶、甕、水瓶 ◎「井」

 ◎「イノ」・「ク(コ)ンダ」は同義、

  梵語・サンスクリット語

  (Sk.)相模[サガミ]、馬入[ウマ]、寒川[サムク]、倉見[クラマ]など、

    平塚市東端から寒川町、茅ヶ崎市辺りの文化を形成した人々の用語で、

    この地に同語が定着していておかしくない。

 ※中村郷〔和名類聚抄相模国餘綾郡〕

  「ナカ〔中〕」

  (Heb.)נַגַהֻ,NGH,nagahu 光る、輝ける、

  (Heb.)נָגַהֻ,NGH,nogahu 光、輝き、光輝、◎金星、明星

  「ムラ〔村〕」

  (Heb.)מַָור,MAVR,moavr 光、発光体、光源、明かり

  (Heb.)מֶַֻרִיכ,MVRYK,maueriyk 光る、光沢のある、光輝く、きらめく

  「ナカ・ムラ

  (Heb.)נַגַהֻ_מֶַֻרִיכ,NGH_MVRYK,nagahu_maueriyk

    〔明星_光輝く〕きらめく明星<金星>

  中郡〔(現)大磯町二宮町〕

  「ナカ〔中〕」

  (Heb.)נַגַהֻ,NGH,nagahu 光る、輝ける、

  (Heb.)נָגַהֻ,NGH,nogahu 光、輝き、光輝、◎金星、明星

  つまるところ

  「中郡」の「ナカ〔中〕」は同郡の旧称「ヨロキ[餘綾]」と同義で

  「明星[金星]」を表わしている。

2014年2月23日日曜日

建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(5)


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 建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(5)

 13-1.高来神社〔神奈川県中郡大磯町高麗高麗山〕

  「イソ〔磯〕」

  (Heb.)ִסהֶר,IShr,isher 財産、富、○豊かさ、◎「財」を表わす

  花水川〔平塚市との間を流れる川名、別称「金目」川〕

  「カスイ〔花水〕」

  (Heb.)כֶסֶפ,KSF,kesep 金(かね) 、貨幣、銀、銀色

  (Heb.)כֶסַפִימ,KSPYM,kesapiym 財源、財政、財務

 ※「花水」は奈良県葛城市寺口[(旧)葛城郡新庄町寺口]の

  博西神社の「ハクセイ」と語源を同じくし、いわゆる「財」を表わし、

  「金目」は語義をそれと同じくするものであり、

  「若子宿禰」の族類 江野財臣の「財」を

  ここに踏襲したとすることができる。

 ※よって此の地から始まる「若光」名の祖語は

  「若子」であることが確証される。

 ※「高来」名を「タカク」と読ませる習いもあるが、

  それも「若子・若光」に係わる。

  「タカク《ジャクコウ》〔若子・寺口〕」」

  (Heb.)זִכֻֻכ,ZKuK,zikuuk 精練、精製

  この「ジィカク」の性格が背景にあって

  「若光の神社」を「タカク」と呼ぼうとしたもの。

 ※江野財臣の後裔一族は

  「相武国造」の族類に代わって勢力を仲したとみられる。

  中郡二宮町の西北方面に足柄郡域ではあるが

  中井町・大井町と「井[家]」名の地称がる。

  江野「エノ」

  (Heb.)ֶיִנ,IYM,eyin 泉[井、井戸]
 
 ※「和名類聚抄」相模国

   伊蘇郷〔餘綾郡〕"イソ":磯〔大磯町大磯、小磯〕

   高来郡〔大住郡〕:高麗〔大磯町〕

   金目郷〔餘綾郡〕"カネメ"〔平塚市北金目、南金目〕

   (Heb.)כִנֶיַנ,KNYN,kineyan 財産、所有物、文化遺産

   なぜ、「目」文字が与てられているか、

   この字の綴りのうち"כִ"と同発音の用語が"目:眼"を表わす。

   (Heb.)ִֶיִנ,IYN,ieyin 目[眼]によって金目との用字が出来ている。

 ※「若子」が「若光」と"子"が"光"になった理由

  餘綾郡〔和名類聚抄相模郡〕 餘綾郷(訓)与呂支

  「ヨロキ〔与呂支〕」

  (Heb.)ַיֶֻלֶת־ִסהַהַר,AYLT-HShR,ayuelet-ishahar 明けの明星

  (Heb.)ַיָֻלָה,AYLH,ayuoloh のうちの"x[a]"が欠けた用語"לָ"は「~の」の用語

  (Heb.)סהַכהַר,SKhR,shakhar 夜明け、暁

  明星神社〔中郡二宮町中里〕、明けの明星:金星

  川句神社〔延喜式神名帳相模國餘綾(ヨロキノ)郡〕

   カワフ、(現)中郡二宮町山西

   「カワフ〔川句〕」

   (Heb.)כָֻכהַו,KVKhV,kuokhav 星、恒星、水星

  守宮神社〔中郡二宮町二宮〕

   「モリ〔守〕」

   (Heb.),MAVR,moaor 光、発光体、光源、明かり〔ここでは明けの明星〕

  中里(なかさと)〔二宮町、明星神社鎮座地〕

  中里(なかざと)〔平塚市花水川に近い地区名〕

   「チュウリ〔中里〕」

   (Heb.)זָהֶר,ZVHR,zoher ぴかぴか光る、輝く

   (Heb.)זַהַר,ZHR,zahar 光る、輝く、きらめく

2014年2月21日金曜日

建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(4)


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 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦 

 建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(4)

 10.高麗・呉・倉下
  
  韓半島における国々[日本書紀にはこの3地(国)名が多く登場する]

   高麗国は紀元918年に建国、

   よって日本書紀が言う「高麗」は当該「高麗国」ではない。

   高句麗国は紀元前わずかに成立(紀元前37年)。

   668年に唐の攻撃を受け滅亡した。

   呉、韓半島においては「呉国」が存在したことはない。

   孫権の呉国は222年~280年まで。

  ※若光の称である「高麗王」名の「コウライ」を

   「高句麗」と解釈しているのが一般であるが、それには疑いがあるし、

   当講座(歴史学講座「創世」)は妥当とはみない。

   因みに「高句麗」はハングルで고구리(高句麗)と表記され

   고:高、구리:銅の語義で「コウライ」と表音するには妥当しないし、

   「高麗」関係の日本書紀記述に「銅」に係わるものもない。

   「高麗[コウライ]」

    (Heb.)גָֻלַה,GVLH,guolah 離散したヘブライ人の居留地

   「呉[ゴ、クレ]」・倉下[クラケ]
   
    (Heb.)כִֻהלַה,KHLH,kuihlah ヘブライ人社会、共同体

   どちらしても、ヘブライ人が韓半島南部、

   特に「百済」域<任那>に分散して居住していたことを示し、

   その共同体の集団を別の表記で呼んだもの。

  ※百済〔日本ではこれを"クダラ"というが、

      これは韓半島南部も絹の産地で繭玉の「玉」の語義〕

   「百、100」

    (Heb.)מֶַה,MAH,meah といい、「百済」は「マーシー」と解釈される。

   「マーシー」

    (Heb.)מַסהִִ,MShI,mashii で「絹」を表わすのに使われる。

   その由来もヘブライ人が入植した地

    (Heb.),MShV,mosheu 〔モーセの地〕に産する物との理由に依る。

   百済国は紀元663年唐の攻撃により滅ぼされた。

 11.博西(はかにし)神社〔(現)葛城市寺口、(旧)忍海郡新庄町寺口〕

  「ハクセイ[博西]」

   (Heb.)הִכהֶסִיf,HKhSYF,hikhesiyf(髪が)白くなる。

  旧約聖書にはモーセが山を降ってきたとき

  彼の髪は白くなっていたとある。

  ◎為志神社〔延喜式神名帳大和國忍海郡、ヰシノ、ヰシノミ〕

   「ヰシ」

    (Heb.)סהֶר,IShR,iisher, 富、財産・豊富

   ・同社の旧鎮座地:葛城市林堂〔(旧)忍海郡新庄町林堂〕

   「ハヤシドウ[林堂]」

    (Heb.)הִיתסִֻית,HYTsYT,hiytsuiyt 燃やす、火をつける

    (Heb.)יַתסַֻכ,YTsK,yatsuak (金属を)溶解する、鋳造する

    (Heb.)יֶתסִיכַה,YTsYKH,yetsiykah 鋳造、液体を器に流し込むこと

    (現)鎮座地 

     葛木坐火雷神社相殿:葛城市笛吹[(旧)忍海郡新庄町笛吹]明治43年から

    祭神 伊古比都幣命

   「イコヒトヘ」

    (Heb.)ַכה־הִתֻf,Akh,HTVF,akh-hituf(p) 〔炉-固体を溶かす〕溶鉱炉 

   「イコ/アカ[伊古]」

    (Heb.)ַכה,akh 炉

   「ヒトヘ[比都幣]

    (Heb.)הִתֻf,HTVF,hituf(p) 固体を溶かす、溶解 

    (Heb.)הִתֻיf,HTYF,hituyf(p) (金属を)溶解する

 ※「忍海郡」が金属、

  特に「金」の生産[加工]に係わる人々の居住地だったことを示す。

 ※「博西」の「博」は「広」と同義で"博西"は「コウセイ」と読める。

  「コウセイ」

   (Heb.)כֶסֶf,KSF,kesef(p) 金(かね)、貨幣、銀、銀色

   (Heb.)כַסַפִימ,KSPYM,kasapiym [複数形]財源、財政、財務

 ◎「金(Eng.)gold」は「金(かね)」として「財:たから」であった。

 12.江野財臣〔若子宿禰〕

 ※紀元663年、

  日本軍は白村江の戦いで百済軍と合同して唐軍に敗れた。

  この結果「百済国」は滅亡した。

  紀元369年〔任那の成立〕以来、

  大和王朝が韓半島南部に持っていた

  支配権[委任統治権]は幣えてしまった。

 ※任那・百済の崩壊頃、

  江野財臣一族は帰還したと推測される[紀元663年頃]

 ※「続日本紀」文武天皇大宝3年4月[703年]に

  「高麗若光」は王姓を賜ふが、

  その時すでに同氏は「従五位下」に叔位されていたのであり、

  大和王朝はすでに帰順していたことがわかる。 

2014年2月19日水曜日

建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(3)


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 建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(3)

 7.江野財臣

  「古事記」若子宿禰は江野財臣の祖

  「エノ[江野]」

   (Heb.)עינ,IYN,eyin 泉〔井戸〕

  ※砂金集め〔砂鉄集めでも〕には澄んだ水が必要で、

   一般に泉〔井戸〕から取った。

   〔参考〕アラハバキ・アラバキ

 8.「続日本紀」文武天皇 大宝元年八月[701年]

  丁未(七日)先<レ>是、遺<2>大倭國忍海郡人三田首五瀬於對嶋<1>、

  冶<2>成黄金<1>至<レ>是、~。

  忍海郡:「和名類聚抄」大和國忍海(オキノウミ)郡、

      金剛寺本"オシノミ"、刊本"於之及美"

  「オシム[忍海]」

   (Heb.)אשׂימ,AshYMaishuiym (複数形)火、炎

  ※金属の精錬には「火」が必要

   (現)葛城市新庄忍海"おしみ"

   三田首の「ミタ」

   (Heb.)מוט,MVT,mot (金属や木の)棒、ここでは「金の延べ棒」

   「イツセ[五瀬、ここでは特別な訓としてある]」

   (Heb.)עשֱׂר,IshR,isher 富、財産・豊富

   江野財臣の「財」に相当する。

  ※「冶<1>成黄金<1>」:「黄金(英語gold) を冶成(精練)する」

   忍海郡には「金の精練」を行うことができた

   技術集団及び流通の担い手がいたのであり、

   「若子[寺口]」はその「精練」を語義とするヘブライ語の音写である。

   「ジャクコウ」「ジュラ」

    (Heb.)זָךּוּך,ZKVK,zikuuk 精練、精製(名詞形)

 9.財臣:「古事記」若子宿禰【江野財臣の祖】 
 
  ※「財」上記の状況の通り「金」あるいは

   「財産」を言ったものと考えられる。

  ※しかし、「新撰姓氏録」(平安時代)の武内宿禰の系譜の姓氏には

   「若子宿禰」及び江野財臣に連なる者は一人も一切みられない。

   その事情は次の様に推測される。

  ※「財(たから)の国」:建内宿禰は神功皇后の主唱に強力して

   新羅[三韓]遠征を成功させた。
  
   「古事記」西の方に國有り、金銀を本と為て、

   目の災耀く種々の珍しき寶、多に其の國に在り

   「日本書紀」茲の國に愈りて寶有る国、

   譬へば処女の眉引(まよびき)の如くにして、津に向へる國有り。

   眼災く金・銀・彩色多に其の國在り。

   ◎古事記「寶、その國」

   ◎日本書紀「財の國」

   神功皇后の勢力は三韓征伐に成功し、

   そこを「任那[ミマナ]:委任統治圏」として帰途に着いた。

   建内宿禰の第九子若子宿禰の一族〔江野〕は同地に在留することとなり、

   通称として「財[宝]の国の臣」の意で「財臣」とされたのが実際であろう。

建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(2)


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 建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(2)

 5.建内宿禰〔古事記〕・武内宿禰〔日本書紀〕

  古事記によると第八代孝元天皇の孫に当たり、その子は9人いた。

  ※建内[武内]は(現)葛城市竹内〔(旧)葛城郡当麻町〕がその出自地とみられる。

  「タケウチ[建内]」

   (Heb.)טחודח,THVDH,tuhuudae こだま・共鳴

  ※旧約聖書の「主」は神智をモーセ初め「土師」に対して述べ伝える。

   特にモーセに対し「十戒(戒律)」を授けてときには雷鳴[共鳴]を

   もってし「十戒」は「10のことだま」とのヘブライ語表記がる

  「カツラギ[葛城]」

   (Heb.)גדלה,GDLH,guduluah 大きいこと、偉大さ、名誉、栄光

  これはヘブライの十二支族[ヤコブの子孫]のうちの「ガド族」の基本語である。

  ※つまり建内宿禰の系譜はヘブライ人[イスラエル人]の系譜に列する。

 6.若子宿禰

  「古事記」大倭根子日子國玖琉[孝元天皇]~内色許男命の女

  伊迦賀色許賣命を娶して生ませる御子、比古布都押之命~

  又木國造の祖宇豆比古の妹山下影賣を娶して生める子、

  建内宿禰、此の建内宿禰の子併せて九たり。

  ~又若子宿禰は【江野財臣の祖】

  ※若子宿禰は建内宿禰の第九子

   〔「若子」の呼称を古事記は「わくご」としている〕

  ※その後裔には「江野財臣」がある。

  ※「若子」の地〔建内宿禰の男子の銘にはそれぞれ地名が冠されている〕

   寺口〔葛城市、(旧)葛城郡新庄町:てらうち〕:「竹内」のすぐ南隣

   同地域に「地光寺」の旧称があることから、

   これは「ジコウ」が本来の呼称とみられる。

  「ジコウ・ジャクコウ[寺口]」

   (Heb.)זככ,ZKK,zikek

      (金属を)製錬する 精製する[動詞形]

   同地に金村神社がある[延喜式神名帳大和国忍海郡、祭神は不詳とされる]

   また至近寺口地区の東隣り中戸には古墳名ではあるが「金鋳山」があり、

   「寺口」域で「金」の精製(生産)が行われていたとの証左となっている。

 「ナカト」

   (Heb.)נגיד,NGYD,naguiyd 

      指導者、統治者ではあるが金持ち、富豪としても通称される。

  中村郷[和名類聚抄大和国忍海郡]

 「ナカ・ムラ」

   (Heb.)נחג־מלאכה,NHG_MLAkhH,naig_molaakhah

      [指導者-工作] 工作(王芸)の指導者   

2014年2月17日月曜日

建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(1)


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 建内宿禰・若子宿禰及び高麗神社(1)

 1.高麗(こま)神社〔全国神社名鑑〕

  埼玉県入間郡日高町新堀町[(現)日高市新堀]

  祭神 高麗王若光、猿田彦命、武内宿禰

  由緒:霊亀二年武蔵国に高麗郡の置かれた時、
   
     その首長である従五位下高麗王若光が

     郡中の繁栄を祈るため、

     日頃崇敬した猿田彦神と武内宿禰を祀り、

     白鬚神社と称したのが創始といわれる。

     若光が没してのち、従者らが霊廟を建て

     高麗明神と崇めた、やがて白鬚神社と合祀し、

     高麗大明神と名付け、同郡の総鎮守として

     人々の信仰が篤かった。〔霊亀二年:716年〕

 2.「続日本紀」文武天皇 大宝三年四月〔703年〕

    乙未(4日)従五位下高麗若光に王の性を賜ふ。

 3.「埼玉叢書」第六巻 御役所 〔明治期に記された〕

   武蔵國高麗郡高麗郷古傳

  続日本紀巻之七、元正天皇霊亀二年以<2>駿河・甲斐・相模・上総・下総・

  常陸・下野七國高麗人千七百九十九人<1>遷<2>于武蔵國<1>置<2>高麗郡<1>、

  土人傳ヘテ云フ、高麗王若光國亂ヲ避ケ親族重臣ト共ニ國家ニ帰化ス、

  諸ノ臣民之ニ従フ者相尋テ帰化ス。

  若光又孝清ト云フ、

  高麗郷ハ高麗王ト居ノ地タルヲ以テ親戚貴族多ク此ニ群居セリ、

  其後或ハ散シテ開墾ニ就ク、高麗王猿田彦大神ヲ崇敬シ郡中ノ榮盛ヲ祈リ、

  因テ一社ヲ建白鬚大神ト称シ、武内宿禰ヲ配祀ス、 

  神護著ク高麗王モ又善ク衆ヲ撫シテ衆人稍シ生計ヲ安ンズ。

  其没スルニ及テ貴賎相集リ其霊ヲ祭リテ高麗明神ト崇メ、

  遂ニ白髪神社ニ合祀ス、高麗神社之ナリ、【新堀村内字大宮ニ在リ】

  諸氏散シテ各村ヲ開ク者、白髪神社ヲ各地ニ遷スニ及テ、

  高麗神社ヲ大宮ト称シ又高麗惣社ト特称ス、【中古記スル者問ウ之アリ】

  郡中白鬚神社最多シ、中古二十一社ノ称アリ。

  高麗神社ハ往昔大宮山ノ巓字御殿ノ上ニ在リシヲ

  中古其東麓今ノ地ニ遷セリト云フ、…略…

  郷中著族ト雖高麗氏ヨリ出ル者ハ井上・駒井ノ二氏ナリ、

  高麗性ノ者井ニ釣瓶ヲ忌ムコト何ノ謂タルヲ知ラスト雖、

  井上氏ノ新堀村ニ在リ駒井氏ノ横手新堀村ニ在ル者皆之ヲ固守シ、

  汲ムニ柄杓ヲ以テシ、千古傳ヘテ家例ト云フ、

  駒井舊ト高麗井ト書ス、…略…

 4.高来神社〔神奈川県中郡大磯町高麗〕

  「筥根山縁起」

   次 神功皇后討<2>三韓<1>後有<2>武内大臣奏<1>云、

   奉<2>請異朝大神<1>而令レ祈<2>願天下長安寧<1>矢、

   即奉レ遷<2>百済明神于日州<1>、奉レ遷<2>新羅明神于江州<1>、

   奉レ移<2>高麗神和光于当州大磯聳峰<1>因名高麗寺

  ※武内[建内ッ宿禰が係わっていた

  ※「大礒」は「大磯」で町名であるが同地に

   「小磯」地区があることから「磯」地となる。

   この「磯」の漢字語義は岩石が露出している砂磯のない海岸[広辞苑]で、

   砂浜が続く湘南海岸にはふさわしくない地称である。

 ※「イソ[磯]」

   (Heb.)עשר,IShR,isher 財産、富。〇豊かさ、豊富◎「財」 をあらわす

   大磯町高麗の東境、平塚市との間を流れる

   川名が「金目川」で「財」に対応する。

   またその別称が「花水川」であるが「カスイ」は

   「高麗郡高麗郡古傳」がいう「若光」の別名「孝清[コウセイ]」に対応し、

   いわゆる「若光」が初め尾お磯町に居り、

   後の機に日高市の「高麗」へ遷ったことを表わしている。

   因みに大磯町大磯には「高麗王」の「王」によるとみられる「王城山」

   そして、その麓には「長者町」の字名が現在もある。

   「長者」とは財力を備え権勢をも持った者の呼称である。

2014年2月16日日曜日

高麗郡の成立と「武蔵国」


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 高麗郡の成立と「武蔵国」

 ○「続日本紀」

  元正天皇 天平霊亀二年〔716〕五月

   辛卯(16日)、駿河・甲斐・相模・上総・下総・常陸・下野の七国の

   高麗人を千七百九十九人を以て、武蔵国に遷し、高麗郡をおく。

 ○「和名類聚抄」巻六(二十一ウ)

  武蔵国 

   高麗郡 高麗(古万)、上総

  ※相模の高麗人

   高来神社[旧名高麗権現社]:(現)神奈川県中郡大磯町高麗山

   「コウライ〔高来・高麗〕」

   (Heb.)גולה,GVLH,guolah(祖国から)追放され離散したヘブライの居留地

 ○高麗郡〔武蔵国〕

  高麗本郷(現・日高市:こまほんごう)

  「コマモト・郷」(Heb.)קוממיוט,KVM,MYVT,komemiyut 独立、主権

  九万八千神社[現・日高市高麗本郷内、同郷の鎮守社、くまはっち]

  「クマヤチ」(Heb.)上記同語קוממיוט,KVM,MYVT,komemiyut 独立、主権

       <九万八千は「クマン(ム)」とも>

 ※つまり、「クマモト」・「クマヤチ」の祖語は同じ用語であるから同義

  しかも、

  この地に「コウライ[高来・高麗]」の人々の

  独立国(地)を得たことを示している。

 ○武蔵国

  ※「コウライ」の人々が自分達の自治的独立国[地]を得たことにより

   「〔牟佐志〕は武蔵」となった。

  ※「ムソウ〔武蔵〕」

   (Heb.)משב,MShV,mossheu ヘブライ人に与えられた土地

   旧約聖書「ヨシュア記」

   ヘブライ人たちは「出エジプト[エジプトよりの脱出]」後、

   カナアンの地にそれぞれ各支族毎に

   モーセ[משה,moses]によって入植地を割き与たえられた。

   そのことにより、彼等の地を「モーセの地」と称するようになり、

   ヘブライ人たちの植民地を「モシェラ」といい、

   「ムソウ〔武蔵〕」はその音写が基である。

  ※この条件下の「コウライ[高来・高麗]」は「独立」を表わす

   「コマ[Kome]」と呼称するようになった。

   「コウライ」は悲しい表現であるが、「コマ」は喜ばしい表現で、

   もてはやされることとなったのであろう。

   和名類聚抄称は「高麗」を「古万」と訓じている〔平安時代初期〕

   ・「古万」は「コマン」と訓める。

    つまり、「九万」と同じ。

  ○高指山〔日高市高麗本郷・清流の境界の山名〕

   「コウシ[高指]」

    (Heb.)גבוש,GVVSh,giush 統合、単一化

    (Heb.)גבש,GVSh,guiush 一つに纏まる、統合する、(計画を)具体化する

    (Heb.)גבש,GVSh,guuesh 一つに纏められる、統合される

  ○日和田山〔日高市高麗本郷・清流の境界の山名〕

   「ヒ[日]」

    (Heb.)פה,PH,peh 口、(開いている)穴、口

   「ワタ[和田]」

    (Heb.)בת,BAT,bat 岩、石

   「ヒワタ[日和田]」

    (Heb.)בת_פה,PH_BT,peh_bt 口[口-岩]、岩口

     ◎岩口神社:日高市多波目

   「タワメ[多波目]」、「タワメ[多波目/日高市]」

    (Heb.)טהומ,THVM,tuehon 地下水、深淵

2014年2月15日土曜日

天之菩卑能命(天菩比命):天穂日命(4)

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 出典:歴史学講座「創世」 小嶋秋彦 

 「古事記」

      素盞鳴尊―天の誓約―(天照大神) 
        ∣
     天之菩卑能命
        ∣
     建日比良鳥命

     (祖神)出雲國造:出雲國(島根) 国造となり、杵築宮を祀る。

 「日本古典文学大系(岩波書店)の注」

   出雲國造       出雲國(島根)

   无邪志國造      武蔵

   上莵上(カミツウナカミ)國造  上総国海上(うなかみ)郡の地

   下莵上(シモツウナカミ)國造  下総国海上郡の地

   伊自牟國造      上総国夷灊(いじむ・いじみ)郡の地   

   津島縣直       対馬 上県郡・下県郡

   遠江國造       遠江國(静岡県)

 『出雲国造』

             ┌ 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊
             │
             │ 出雲国造始祖 2世   3世
                     │    
             ├ 天穂日命───武夷鳥命─伊佐我命(櫛瓊命)─
  天照皇大神─┤
             ├ 天津彦根命
             │
             ├ 活津彦根命
             │
             └ 熊野櫲樟日命

 天穂日命-武夷鳥命-伊佐我命(櫛瓊命)-津狭命(津佐命)-櫛瓺前命-櫛月命-

 櫛瓺鳥海命-櫛田命-知理命-世毛呂須命-阿多命-氏祖命-襲髄命-

 来日田維命-三島足奴命-意宇足奴命-国造宮向臣-国造布奈臣-国造布禰臣-

 国造意波久臣-国造美許臣-国造叡屋臣-国造帯許臣-国造千国臣-

 国造兼遺臣-国造果安臣-国造広島臣-国造弟山臣-国造益方臣-

 ~43代(OR47代)-

 清孝┬孝宗(千家氏)-直国-高国-~
   │
   └貞孝(北島氏)-資孝-幸孝-~

 「古事記」

  天菩比命の子、建比良鳥命

   【此は出雲國造、无邪志國造、上莵上國造、下莵上國造、

    伊自牟國造、津島縣直、遠江國造等が祖なり】

 「先代舊事本紀」巻一陰陽本紀

  次洗御鼻之時、所成之神、名建速素盞鳴尊、

   坐出雲國熊野杵築神宮矣。

 「先代舊事本紀」巻十國造本紀

  无邪志國造 志賀高穴穂朝世、
 
   出雲臣祖名二井之宇迦諸忍之神狭命十世孫多毛比命、

   定-賜國造。

 「新撰姓氏録」

  左京神別中
 
   出雲宿禰   天穂日命天夷鳥命之後也

   出雲・[臣]  天穂日命五世孫久志和都之後也

 「氷川神社」〔埼玉県さいたま市大宮区高鼻町1-407〕

       <氷川神社略記>

  御祭神 須佐之男命、稲田姫命、大己貴命

  御由緒 今から二千四百余年の昔、

      第五代考昭天皇の御代三年四月の御創立~



 ○大宮の「大」(Grk.)ανδη、輝き、光

  高鼻町:高塙、「はなわ」

   (Grk.)ψανεω〔fanew〕輝かす、照らす

  寿能町[じゅのう;高鼻町北隣り]

   Ζηνοσ〔Zenos〕、Ζην〔Zen〕=〔Zeus〕[ゼウス神]

   =須佐之男神[素盞鳴尊]

  ※よって天之菩卑能命[天穂日命]が主祭する神は

   素盞鳴尊にしてゼウス神

 《Key Word》

 古事記
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 日本古典文学大系
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